むらさきのスウェードの男

寛原あかり

むらさきのスウェードの男


その男の靴は、むらさき色のスウェードだった。

起毛はまだふっくらとしていて、街灯の下ではわずかに銀色を帯びる。

その色は、通り過ぎる人々の視線を一瞬だけ吸い寄せた。


午前九時。

駅前の横断歩道を渡ると、ほぼ毎朝、彼とむらさきの靴が視界に現れる。

手ぶらの日もあれば、小さなトートバッグを持つ日もある。

歩く速度も、顔の向け方も、驚くほど変わらない。


最初は偶然だと思った。

二度、三度と繰り返されるうちに、それを偶然とは呼ばなくなった。

なぜむらさきなのか。

なぜ毎日なのか。

なぜ、あの歩き方なのか。


問いは、私の朝を少しざらつかせた。




彼は週に数度、病院へ通っていた。

診察券を胸ポケットから出し、受付に差し出す姿を、窓越しに何度も見た。


ある日、帰り道の彼はやけに足取りが軽く、交差点で見知らぬ人と笑い合っていた。

別の日には、肩を落とし、靴を引きずるように歩いていた。


買い物帰りには、両手いっぱいの紙袋を抱えていた。

またある日は、カーテンを閉め切ったまま何日も部屋から出ず、夜になっても灯りが点かなかった。

玄関の靴は、同じ場所に置かれたままだった。


理由は知らない。

けれど、その不安定さを見ているうちに、ひとつの予感が生まれた。

ある日、病院の診察室のそばで足を止め、耳を澄ませた。

抑揚のある低い声と、それに応じる淡々とした医師の声が聞こえた。




観察する時間が増えるほど、距離は縮まったように思えた。

もちろん、一言も言葉を交わしたことはない。


それでも、靴の色や毛並みの状態で、その日の調子を読み取れる気がした。


ある朝、信号待ちで彼は足を揃え、靴先を何度も見下ろしていた。

つま先に残る雨粒の跡が白く光る。

私も同じように足元を見つめたくなり、コーヒーをそっと置いた。




その日、靴は湿っていた。

毛足は不揃いに寝て、色が斑にくすんでいる。

彼の足取りはゆっくりで、体が左右に揺れていた。


信号が変わっても動かず、ポケットの中で何かを探している。

やっと歩き出したかと思えば、数歩で立ち止まり、振り返った。


その目が、一瞬こちらを見たように思えた。

胸の奥が、氷で満たされたように冷たくなった。




数週間、姿を見なかった。

靴の色を思い出そうとすると、脳の奥に鈍い痛みが走った。


ある日、何の前触れもなく、彼は現れた。

靴はくすみ、つま先には泥がこびりついていた。

膝が微かに震え、歩くたびに体が揺れた。


交差点。

信号が青に変わり、人波が動き出す。

その中で彼は遅く、ふらついていた。


車のライトが靴先を照らした瞬間――彼の身体が車道側に傾いた。


掴んだ。

冷たく湿った手首。

骨は細く、脈は不規則に打っていた。


彼は声にならない声を洩らし、私の手を振りほどいた。

雑踏に紛れ、その姿は消えた。


それが、最後に見た後ろ姿だった。




彼を見なくなって、三か月が過ぎた。

噂も、行方を知る者もいない。

交差点を渡るたび、あの日の感触が蘇る。


ある朝、靴屋の前で足が止まった。

ショーウィンドウに並ぶ、むらさきのスウェードの靴。

雨雲を溶かしたような鈍い色に吸い込まれる。


値札を見て一度は踵を返したが、すぐに戻って購入した。


靴は想像より重かった。

足を入れると、起毛が足首に柔らかくまとわりつき、やがて熱を帯びる。

歩くたび、視界がわずかに高くなる。


昼下がりの喫茶店。

彼がいつも座っていた窓際の席に腰を下ろす。

外を行き交う人々の視線が、時おりこちらに触れる。


そのとき、気づいた。

観察されているのは、今の私だ。


靴先を、光がかすかに撫でた。

外の景色がゆらぎ、遠くでクラクションが鳴った。

私は動かず、その音が消えるのを待った。

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むらさきのスウェードの男 寛原あかり @kanbara_akari

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