むらさきのスウェードの男
寛原あかり
むらさきのスウェードの男
一
その男の靴は、むらさき色のスウェードだった。
起毛はまだふっくらとしていて、街灯の下ではわずかに銀色を帯びる。
その色は、通り過ぎる人々の視線を一瞬だけ吸い寄せた。
午前九時。
駅前の横断歩道を渡ると、ほぼ毎朝、彼とむらさきの靴が視界に現れる。
手ぶらの日もあれば、小さなトートバッグを持つ日もある。
歩く速度も、顔の向け方も、驚くほど変わらない。
最初は偶然だと思った。
二度、三度と繰り返されるうちに、それを偶然とは呼ばなくなった。
なぜむらさきなのか。
なぜ毎日なのか。
なぜ、あの歩き方なのか。
問いは、私の朝を少しざらつかせた。
⸻
二
彼は週に数度、病院へ通っていた。
診察券を胸ポケットから出し、受付に差し出す姿を、窓越しに何度も見た。
ある日、帰り道の彼はやけに足取りが軽く、交差点で見知らぬ人と笑い合っていた。
別の日には、肩を落とし、靴を引きずるように歩いていた。
買い物帰りには、両手いっぱいの紙袋を抱えていた。
またある日は、カーテンを閉め切ったまま何日も部屋から出ず、夜になっても灯りが点かなかった。
玄関の靴は、同じ場所に置かれたままだった。
理由は知らない。
けれど、その不安定さを見ているうちに、ひとつの予感が生まれた。
ある日、病院の診察室のそばで足を止め、耳を澄ませた。
抑揚のある低い声と、それに応じる淡々とした医師の声が聞こえた。
⸻
三
観察する時間が増えるほど、距離は縮まったように思えた。
もちろん、一言も言葉を交わしたことはない。
それでも、靴の色や毛並みの状態で、その日の調子を読み取れる気がした。
ある朝、信号待ちで彼は足を揃え、靴先を何度も見下ろしていた。
つま先に残る雨粒の跡が白く光る。
私も同じように足元を見つめたくなり、コーヒーをそっと置いた。
⸻
四
その日、靴は湿っていた。
毛足は不揃いに寝て、色が斑にくすんでいる。
彼の足取りはゆっくりで、体が左右に揺れていた。
信号が変わっても動かず、ポケットの中で何かを探している。
やっと歩き出したかと思えば、数歩で立ち止まり、振り返った。
その目が、一瞬こちらを見たように思えた。
胸の奥が、氷で満たされたように冷たくなった。
⸻
五
数週間、姿を見なかった。
靴の色を思い出そうとすると、脳の奥に鈍い痛みが走った。
ある日、何の前触れもなく、彼は現れた。
靴はくすみ、つま先には泥がこびりついていた。
膝が微かに震え、歩くたびに体が揺れた。
交差点。
信号が青に変わり、人波が動き出す。
その中で彼は遅く、ふらついていた。
車のライトが靴先を照らした瞬間――彼の身体が車道側に傾いた。
掴んだ。
冷たく湿った手首。
骨は細く、脈は不規則に打っていた。
彼は声にならない声を洩らし、私の手を振りほどいた。
雑踏に紛れ、その姿は消えた。
それが、最後に見た後ろ姿だった。
⸻
六
彼を見なくなって、三か月が過ぎた。
噂も、行方を知る者もいない。
交差点を渡るたび、あの日の感触が蘇る。
ある朝、靴屋の前で足が止まった。
ショーウィンドウに並ぶ、むらさきのスウェードの靴。
雨雲を溶かしたような鈍い色に吸い込まれる。
値札を見て一度は踵を返したが、すぐに戻って購入した。
靴は想像より重かった。
足を入れると、起毛が足首に柔らかくまとわりつき、やがて熱を帯びる。
歩くたび、視界がわずかに高くなる。
昼下がりの喫茶店。
彼がいつも座っていた窓際の席に腰を下ろす。
外を行き交う人々の視線が、時おりこちらに触れる。
そのとき、気づいた。
観察されているのは、今の私だ。
靴先を、光がかすかに撫でた。
外の景色がゆらぎ、遠くでクラクションが鳴った。
私は動かず、その音が消えるのを待った。
むらさきのスウェードの男 寛原あかり @kanbara_akari
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます