第5章 見えぬ愛人の口づけ

七月。


梅雨が明け、夜の空気も湿った熱を抱えたまま沈んでいく頃——

私は怖さを紛らわせるため、同期の佐伯悠真を部屋に泊まらせた。


「なんだよ、幽霊が出そうで怖いからって……」

からかう声に、私は肩をすくめる。


「……別に、本気で信じてるわけじゃない。ただ、気分の問題」


缶ビールを片手に他愛ない話を重ね、笑い声が部屋を温めていく。

午前を回った頃に灯りを落とし、布団を並べて横になる。


——その夜は、何も起きなかった。

美希のときのような金縛りも、奇妙な夢もない。

胸の奥の張り詰めた糸が、少しだけ緩む。


翌朝。

カーテン越しの淡い光の中、悠真が寝返りを打ち、視線が重なった。


「……梨花」

名前を呼ばれた瞬間、胸が小さく跳ねる。

頬に触れる指先の温かさ、そのまま唇が重なった。


一瞬のためらい——けれど押し返すことはできなかった。

シーツの中で絡まる腕と脚。

熱を帯びた吐息が、互いの肌を伝って流れ込む。

孤独で固まっていた心が、ゆっくりと溶けていく。

私はその温もりを、胸の奥深くに刻みつけた。


……しかし、彼が帰った途端、部屋の空気は重く冷えた。

足元から這い上がる冷気。


カーテンがわずかに揺れ、どこからか水滴の音が落ちる。

鏡を見ると、曇ったガラスに指でなぞった跡——

文字のようにも見えるが、判別はできない。

ただ、そこに“誰か”が確かにいた。


夜。

ベッドに身を沈めた途端、頬に柔らかな髪が触れた。

——夢の中で、私は白装束の女に押し倒されていた。

長い髪が顔にかかり、冷たい舌が首筋をなぞる。


その冷たさは、骨の奥まで染みこむように深く、胸の奥をきゅっと縮める。

息を呑んだまま、ただ耐える——その瞬間、耳奥に自分の鼓動がドクドクと響き、

胃の底がふわりと持ち上がる。


……やがて、冷たさの中に微かな熱が混じり、

その熱がじわじわと広がっていく。

唇が鎖骨を越え、胸へ。

尖った舌先が乳首に触れた瞬間、背筋に甘い震えが走った。

逃げようとする腕を押さえられ、耳元で囁きが落ちる。


——「……あの男じゃ、だめ……あなたは、私のもの」

吐息が肌を這い、嫉妬の熱が背中から頭の芯まで駆け上がる。

その熱は、心臓を直接掴まれたように全身を脈打たせ、

呼吸をするたびに喉が焼けつく。

恐怖と快感が渦を巻き、意識が溶けていった。


目が覚めたとき、喉は焼けつくほど乾いていた。

汗ばんだ肌には、彼の温もりとも、女の愛撫ともつかない熱が、まだ確かに残っていた。

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