第11話『穀潰し 第一回 作・中島文』 ※文のペンネーム
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**第十一話:名もなき共犯者**
その朝の空気は、針のように冷たかった。
新聞のインクの匂い。紙面のざらついた感触。
私たちは三部買い占めた地方新聞を、まるで壊れ物を扱うようにちゃぶ台に広げた。
活字の海の中に、小指の先ほどの島があった。
『穀潰し 第一回』
その下にある『中島フミ』という活字は、まるでシミのように頼りなく、今にも風に吹き飛ばされそうだった。
「……ちいさ」
幸子が呟く。
「虫眼鏡がいるわね」
文は努めて明るく笑ったが、その指先は震えていた。彼女は人差し指で、その小さな活字の島を何度も、何度も撫でていた。まるで、生まれたばかりの赤子の肌に触れるように。
生活は、相変わらず泥水の中だった。
昼は他人の家の汚れを拭い、夜は文が原稿用紙に向かう。
カリカリ、カリカリ。
万年筆が紙を走る音だけが、深夜の冷えた部屋に響く。
私と幸子は、その音を子守唄にして、薄い布団の中で身を寄せ合う。
文の背中は小さく、丸まっていた。孤独な背中だった。
出版社からの便りはない。街の誰も、私たちのことなど知らない。
世界は、私たちが存在しないかのように、平然と回っていた。
時折届く原稿料の入った封筒だけが、私たちが幻ではない証拠だった。
その封筒は薄く、軽く、開けると古びた紙幣の匂いがした。
二週間後の夕暮れ。
私たちは泥のように疲れて帰宅した。
幸子が何気なく新聞を広げる。連載日ではない。ただの手癖だ。
「……あっ」
幸子の喉から、空気が漏れたような音がした。
「お姉様、これ」
彼女の指先が、紙面の隅で止まっている。
『読者のひろば』。
虫食いのような小さな枠。
そこに、数行の文字が並んでいた。
『新連載の「穀潰し」、拝読しました。お世辞にも上手な文章とは言えませんが、三姉妹の愚かしくも必死な姿に、胸を衝かれました。どうしようもない彼女たちが、他人とは思えません。次週も楽しみです。(主婦・45歳)』
時間が、粘り気を帯びて停止した。
私たちは、その短い文章を貪るように読んだ。
一文字、一文字、噛み締めるように。
主婦、45歳。
どこの誰とも知らぬ女。
おそらくは、今の私たちと同じように、台所で夕飯の支度をし、家族の世話に追われ、誰にも褒められることのない日常を送っている女。
その人が、私たちの物語を拾い上げてくれた。
ゴミのような私たちの人生を、「他人とは思えない」と言ってくれた。
「……うそ」
文の声が、湿り気を帯びていた。
彼女は新聞を顔に押し当てた。
「……うそよ、こんなの」
インクの匂いがする紙の向こうから、嗚咽が漏れた。
文の肩が激しく波打つ。
それは、悲しみでも悔しさでもない。
凍りついていた血が、一気に解凍された時の痛みにも似た感情。
私の視界も滲んだ。
幸子が、文の背中にしがみついて泣いている。
私たちは三匹の獣のように身を寄せ合い、声を殺して泣いた。
嬉しかったのではない。
救われたのだ。
たった一人。
この広い世界で、たった一人でも「共犯者」がいたという事実に。
「……よかったね」
私が絞り出すと、文は新聞から顔を上げた。
鼻の頭を赤くし、目は腫れ上がっている。
「……馬鹿みたい」
彼女は泣き笑いのような顔で言った。
「たった数行よ。……たったこれだけで」
その夜、ペンの音は変わった。
カリカリという乾いた音ではない。
紙に食らいつき、魂を刻みつけるような、重く、湿った音。
文の背中は、もう丸まっていなかった。
見えない糸で、どこかの誰かと繋がっている。その確信が、彼女の背骨を支えていた。
ちゃぶ台の上には、切り抜かれた数行の記事。
それは宝石でも勲章でもない。ただの新聞紙の切れ端だ。
けれど、今の私たちには、どんな輝きよりも眩しかった。
借金は減らない。明日の米も心許ない。
けれど、私たちはもう、ただの泥ではなかった。
誰かの心に波紋を広げる、一粒の石になったのだ。
その小さな波紋が、いつか私たちを遠い場所へ連れて行ってくれると信じて、私たちは今日も泥の中を這う。
傷だらけの手で、しっかりとペンを握りしめて。
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