コブウェブ
一畳一間
第1話「蜘蛛になれなかった男」
「あんたがペットを買うとして、犬に名前をつけるなら? 猫に名前をつけるならどうする?」
その尻についた疑問符をウッカリ聞き逃してしまいそうな、
日も
擦ったのは黒い指。高い耐熱性と耐薬品性を併せ持つ、アラミド繊維で編まれたグローブだ。
一息に吸い込んだ為か、煙草はジリジリと燃えてその背を短くする。
ふぅ、と洋モク特有の、甘ったるく重たい紫煙を吐く。どこか溜め息のようでもあった。
猫額というほど手狭でないが、決して広くはないアパート。居間と寝室がわりの洋室だけの1LDK。フローリングの床は、弁当の殻と空き缶が覆い隠してしまっている。
そんなゴミまみれの床を嫌がってか、男は卓袱台の上に胡座をかいていた。そんな所に座り込んでいるにも関わらず、黒の革靴を脱がず土足のままであった。
窓も開いていない。吐き出した煙は顔の前で揺れている。
──
そう、男の目は人でなしの眼差しだった。
煙草を指で軽く叩くと、伸びた灰が落ちる。天板が焦げを作るが、男の知ったことではない。
……幾らかの時間は経ったが、先ほどの問いに応える声はもうない。
静寂。ただ男の煙草がジジと音を立てるのみである。
「……ポチとタマだろ? 実際につけずとも、脳の端っこには
しびれを切らしたのか、煙草を一呑みし満足したのか。不意に男は自答する。そもそもがハナから問わず語り。回答者なしの問答であり、一種の
「お決まりがあるんだよ。太郎、一郎って名前を見れば長男だと思うし、金持ちが西園寺とかだとやっぱりと納得する」
人間ってのはそんなもんさ。男は達観した風な口で、子供のようなことを言う。その挑発するような口調も含め、
「じゃあ、次は糸を使う殺し屋に名前を付けてみてくれよ」
そこに続く言葉も、また児戯の
成人も過ぎた男が、真面目くさって語る内容ではない。実に手垢のついた話題だ。
「わかるぜ、言いたいこと。蜘蛛、だろ?」
男は煙草の箱を放る。それはさながら虫ピンで留められたよう中空でピタリと静止する。
パッケージには黒い蜘蛛が描かれていた。
「いいよなぁピッタリだ。如何にも嫌われ者日陰者で、そして糸を使う」
男は咥えていた煙草を卓袱台で揉み消す。ジュッと爪の先ほどの焦げを作った。
そして舌の上に残った苦味を吐き出すように、深い、深い溜め息を吐く。
そうしてから、宙吊りの男と目を合わせた。
白目である箇所は出血の為に鮮やかな赤に染まり、顔は赤紫に
死人の
「けど、俺は──お前を殺した人間は《蛇》って殺し屋なんだ」
死体を作り上げた張本人、蛇は死体に向けてそう言った。
蛇は臆病な
こうして吊った標的を前に、その死が確かになるまでジッと待つ。
直ぐに体重で首が落ちるので、その動きもしなくなる。巡っていた血が
そこまで蛇は決して動かない。
紐が何かの間違いで切れやしないか。万に一つでも息を吹き返しやしないか。または、偶然に誰かが訪ねて来て間に合う可能性はないか。イレギュラーの一切を起こさない為に、ターゲットの確実な死を見届ける。
その間に一服し、独り
「……しっかし、俺もガキだがあんたも大概だな。頭の軽い
チンピラ、半グレ、愚連隊。そんな屑共の長がこの男だった。
暗黒街で身を立てるほど黒くなく、昼の
そのままおこぼれに
この男はやりすぎたのだ。
さらなる餌を求め、深淵に──《蛇》の縄張りに足を踏み入れてしまった。
だから死んだ。
男を吊り上げて十分。とうに脳は損傷し、確実に死亡している。
これにて依頼完遂とばかりに、手早く仕掛けを回収すべく立ち上がる蛇。
元より、この男が汚物を撒き散らす前には退散する
「嫌んなるぜ。俺の話を聞いてくれるヤツって、あんたみたいなのしかいないんだ」
蛇はいなくなる相手にしか話さない。
死人に口なし。死体は大きな
浮いた──否、糸に吊られていた煙草の箱を取る。慣れた手つきでそこから一本取り出すと、火を点けた。
開いていた左手を握り締めると、吊るしていた死体がゆっくりとゴミ山へ降りる。
蛇の吐いた煙によって、或いは
束になって漸く視認できる糸。黒いグローブに巻きついて漸く白い線が浮かび上がってくる。
糸の名は『
古くから伝わる人殺しの道具である。使い手以外に見えず、切れない。その強度はケブラーや
念の為と部屋に仕掛けていた三勾を回収し、部屋を後にする。
後ろ手に扉を閉めた蛇。その目が階下にある物を捉えていた。
廊下は人一人通るのがやっとの
「どうもーこんにちはー」
「……あ? 待てよオイ」
挨拶をしながら半身で抜けてようとする蛇の肩を、先頭の男が押し返した。
蛇から何かを感じ取ったのだ。その嗅覚の鋭敏さは、曲がりなりにも裏に足を踏み入れた人間といったところか。
本当にツイていない。仕事終わりだというのに、こんな目に遭ってしまうなんて。
「こいつ今よ、藤井さんの部屋から出てこなかったか?」
一番後ろにつけている男がそう騒ぎ出す。他の二人も共鳴するように声が大きくなっていく。
藤井とは先ほど蛇が殺した男の名だ。
やはり、と言うべきか。男達は藤井の手の者だったようだ。
「テメェ! 何してんだ!?」
蛇の眼前、男が怒号をあげて拳を振りかぶる。
だが、その拳が振るわれることはなかった。
男の首が折れていた。
本来頭を支えるはずの首はあらぬ方向へ曲がり、髭だるまの顎が天井を向いていた。
「……は? え、なん?」
「はぁ?」
残された二人はそんな風に間の抜けた声を漏らす。現実離れした光景に、思考が追いつかない。
あぁ、本当にツイていない。藤井の命令通り小銭稼ぎをこなして、その報告に来たばっかりに蛇なんかと出会ってしまった。
男を殺したのは糸。蛇の得物である不可視の糸──『三勾』だ。
出会い頭に肩を押された時、蛇はこの男を
そして、たとえ一糸とて絡みつけば容易に離れない。その執念深さも《蛇》たる一つの
数時間前までは藤井と半グレの根城だったのだろうが、今や蛇の掌中だ。挨拶程度、二言三言交わす間に三勾が張り巡らされていた。
既に踊り場自体が毒蛇の
呆気に取られていた二人も、徐々に今置かれた状況を把握し始め青ざめる。
二人が叫び出す前に、蛇はそっと口の前に人差し指を立てる。静かに、というジェスチャーだ。
残された二人は押し黙る。これは蛇に従ったのではなく、単に脳が現状を処理しきれていないのかもしれなかった。
蛇がその立てた指を曲げる。
突如、最後尾の男がぐらりと傾く。
勢いそのままに頭を手すりに強かに打ち付ける。これで本当に口の利けない体になった。
男は背後で鳴った音にその身を跳ねさせる。
だが確認もできない。
三勾がその頭を、その口を覆っている。空間に縫いつけたかのように
「あーもう喋っていいな。なぁ聞いてくれよ。──今し方、残業が決まっちまったんだ」
指を二本立て、曲げる。三人──二体と一人が纏められ、蛇の前まで引き寄せられる。ゾッとしない死体のサンドイッチだ。
近づいたその額に煙草を押し当てる。叫びをあげることもできない。今、この場において口を開けるのは蛇のみだ。
「ははっ。根性焼き、って言うけどよ。もう
蛇からすればこんなもの所詮は想定内の予想外。吊るす死体が二、三増えるくらいは織り込み済みの危険だった。
──まず手近の男、次に最奥をやる。その順で処理することで退路を塞ぐ。狭い踊り場で死体に挟まれ、こちらへ向かってくることも、逃げることもできない。
全て想定内。危なげなく済ませられる程度のアクシデントにすぎない。
この三人は、蛇に
これは街の喧嘩ではない。殺し合いでもない。
一方的な殺人だ。
アマチュアが勝てる土俵ではない。
蛇は
その手に犬のリードを持つよう、一緒くたにした男達を三勾で引き連れて。
「あーあ。これ煙草、足りっかなぁ……」
蛇は再び部屋に戻り、その扉を閉める。
既に、日はとっぷりと暮れていた。
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