第13歌 鉄神の胎内に鎖されし英雄と女神

 歌え、ミューズよ。

 ドーナツの冠を戴きし戦車を――穴の哲人より託された環の御使いを。

 炎司と澪は、それに跨りて浜松へ至れり。

 かつて楽器とエンジンの鼓動が交わり、世界に響きを放った都。

 だが今や、鉄を讃える狂信と屍の呻きに覆われし聖域なり。







 浜松は古くから「楽器の町」と呼ばれた。

 幕末期には西洋楽器の修理人が流れ着き、木工と農具鍛冶の技がそのまま楽器製作に転用された。明治の開国以後、輸入ピアノを模倣する工房が乱立し、戦後にはヤマハやカワイといった企業が世界市場を席巻するまでに至った。町工場の職人たちは、木目を読む眼と、振動を計算する耳を持ち、彼らの子どもたちすら音叉の響きで遊んだという。


 同時に、ここは工業都市でもあった。

 オートバイの父・本田宗一郎は浜松の出身であり、戦前には飛行機のプロペラを削っていた。戦後、彼の工房からはホンダ・カブが生まれ、世界で最も普及した二輪となった。トヨタの部品供給、スズキやヤマハのバイク、さらには自動車の心臓部であるピストンやクランクまで、この土地の旋盤と鋳造が担ってきた。

 楽器とエンジン――一見無縁に思えるが、どちらも「振動を制御する」技術である。


 ピアノ線の張力を読み切る計算と、エンジンの爆発を支えるピストンの設計とは、同じ数式に宿る。

 この町の職人たちは、旋律と爆音を同じ炉で鍛え上げてきたのである。

 浜松の工業地帯は、その象徴であった。

 天竜川の河口から西浜名湖へと広がる平野に、旋盤工場と組立工場が林立し、昼夜を問わず金属音が大地を揺らした。煙突の群れはパイプオルガンのように立ち並び、排気の白煙は交響曲のクレッシェンドのごとく空を覆った。

 鉄と油の匂いは浜松の市民にとって日常であり、遠来の旅人にとっては神殿の香炉にも似ていた。


 いまはその残骸だけが残る。

 錆びついた煙突は崩れたオルガンのパイプとなり、折れた鉄骨は風に震えて弦楽器のように唸る。

 楽器の都も工業の都も、いまや死者の群れが歩む「音の墓場」と化していた。







 彼らに授けられたのは――ドーナツ・チャリオット。

 ボディは桃色の錆に覆われ、屋根にはドーナツ・ショップの巨大な看板がなおも戴かれていた。

 かすれたエンジンが咆哮を放つたび、その看板は王冠のごとく揺れ動き、夜気を切り裂く。

 戦車は進む。夜の街道を、古代の叙事詩に記された怪物さながらに、影を振り乱し突き進む。


 やがて、遠くに赤錆の塔が姿を現した。

 崩れ落ちた煙突と、廃鉄を積み上げた祭壇とが、夜空に不吉な聖痕を描く。

 その奥からは鉄を叩く轟きが風に乗り、まるで大地の鼓動のように響いてきた。

  浜松の工業地帯は、夜の帳に沈みながらもなお異様な気配を放っていた。

  かつてここは「楽器の都」と呼ばれ、世界へピアノやオルガンを送り出していた街だった。同時に、自動車やバイクの心臓部を削り出す精密工場がひしめき合い、昼夜を問わず機械音が響いていた。新幹線と高速道路に結ばれた物流の要衝でもあり、町工場の技術者たちは誇り高く鉄と音を生み出し続けてきた。


 その残骸はいまや聖域と呼ばれている。

 近くには新幹線の高架があった。崩れたレールが空を切り裂くように突き出し、宙に浮いたまま停止した鉄の蛇のように夜を支配している。

 ドーナツ・ショップの車のかすれたエンジン音が響く。車窓の外、遠くに錆びた鉄骨群が霞んで見え始めたころ。

 澪がぽつりと口を開いた。


「……多分、あそこが『轟鉄の子ら』っていうカルトの聖域よ」


 運転をしている炎司が返して言う。


「ああ、ジョニー徳川が言ってたあれか」


 澪は言葉を継いだ。


「そう。名古屋へ行くなら浜松の鉄の祭りに近づくなって。あの人が真顔で忠告するくらいだから、相当ヤバいのよ」


 炎司の脳裏に、出発の朝に差し出されたテンガロンハット姿の徳川の横顔がよぎる。『静岡から先は俺の管轄外だ。浜松に踏み込むなら鉄の鐘を聞け。それが鳴ったら、遅かれ早かれ呑み込まれる』――そう言っていた。

 澪は続ける。


「それに……あのあと量販店の避難所で、他の生存者からも聞いたわ。誰かが見たって。鉄で組まれた塔の上に、神の心臓がぶら下がってるって」

「神の心臓?」

「ええ。自動車のエンジンをそう呼んでるらしいわよ。別の人は新幹線の廃線を神殿の柱にしたって言ってたし、もっと盛った話になると――奴らは夜ごと鉄を食らい、血がオイルに変わる、とかね」


 炎司は呆れたように鼻を鳴らした。


「……完全に嘘じゃねえか。鉄喰うとか、ロボットだろ」


 澪は肩をすくめ、わずかに笑みを浮かべる。


「まあ、伝説や神話なんてそんなもん。真実はもっと安っぽい。だけど、生き残った人間にとっては、そういう伝説のほうが支えになるんでしょうね」


 澪が吐き捨てるように言うと、炎司は片眉を上げた。


「……安っぽいって。そんなの言ったら、こっちがこれまで命懸けでやってきたのも伝説とやらになったら駄菓子屋の景品扱いだな」


 澪は呆れたように目を細めた。


「安心して。あんたの伝説なんて、せいぜいやかましいオタクの武勇伝よ」

「ひでぇな。せめて英雄オタクって言え」


 軽口を交わしながらも、〈ドーナツ・チャリオット〉は徐々に廃工場群へと近づいていた。

 本当は通り過ぎたかった。だが前方の国道は崩れた高架に塞がれており、回り道はゾンビの群れで埋め尽くされている。

 さらに燃料計の針は、もう赤いゾーンに沈み込みつつあった。

 炎司は苦い顔でハンドルを握り直した。


「……燃料がもう持たない。その聖域とやらに行くしかない」


 澪が慌てて制した。


「あんた正気? 狂った噂ばかりの場所に突っ込むなんて」


 炎司は唇を吊り上げ、前方を見据える。


「かつては浜松の工業地帯だ。燃料くらいは残ってるかもしれない。どうせ道は塞がれてる。なら、遠目から斥候するだけでも損じゃないだろ」


 澪は渋々ながらも黙って頷いた。

 こうしてドーナツ・ショップの車は鉄の荒野を転がり、やがて月明かりの下、奇妙な残響を運んできた。どこかで鉄を叩く音。それに混じって、人々の狂信めいた叫び声が木霊している。

 炎司と澪は車を止め静かに降り立った。

 炎司は腰から45口径を抜き、銃口を闇へと向け、左右へわずかに振って安全を確認する。

 異常なしと判断すると、銃口を下げ、両手で確実に保持したまま移動姿勢に切り替えた。

 澪は指先に符を挟み、微かに気を込めて歩を進めた。

 どこかで鉄を叩くような音が鳴り、また人々の奇声が夜にこだまする。

 ふたりは足音を殺しながら、崩れた鉄骨の影を縫うように進む。

 廃工場群の影の奥、赤錆に覆われた骨組みの間から、徐々にその聖域の姿が現れてくる。


 月明かりに照らされたその姿は、まるで古代神殿の柱。

 炎司は思わず口をつぐみ、澪もまた息を呑んだ。

 二人はすでに鉄扉の内側――赤錆びた工場跡の聖域へと忍び込んでいた。

 扉の合わせ目から差し込む光はわずかで、足元は油の染みたコンクリート。

 壁際には崩れた作業台やスクラップの山が積まれ、闇の隙間がかろうじて隠れ場所となる。

 息を殺し、鉄の匂いにまみれながら、二人は潜んでいた。

 外で荒ぶる声が響くたび、錆びた鉄板が振動し、薄暗い空間全体が胸郭のように震える。


 ――だが耳を澄ませば、聖域の正体はすぐに露わになる。

 赤錆びた三階建ての工場の奥から、どん、どん、と不規則な轟きが響いてきた。

 それは太鼓の祭祀にも似ていたが、音色は重く鈍い。

 鉄の樽を叩く音だ。


 「テツ! テツ! テツ!」


 人々の声が夜を揺るがす。

 まるで大地を震わせる祈りのコール。繰り返される単語は「鉄」。

 錆に染まった工場の前庭には、数十人の人影がひしめいていた。

 皆、顔を覆うのは溶接面か、あるいは粗雑に打ちつけられた鉄仮面。

 身体にはボルトや鉄片を縫い付けた皮革を纏い、どこか中世の騎士を思わせながらも、その造りは滑稽ながらも歪であった。

 彼らは円を描き、中央に積み上げられたドラム缶を乱打していた。

 鈍重な響きが月夜に拡散し、鉄塔めいた工場の壁に反響する。

 炎司の眼には、それは神殿に響く祭礼の音にも見えたし、同時にただのスクラップ騒音にもしか映らなかった。


 「テツ! テツ! テツ!」


 その響きは夜気を震わせ、廃工場の残骸を共鳴させる。

 崩れた高架の柱すら、その単調な振動に従うかのように見えた。


 「テツ! テツ! テツ!」


 声は重なり、うねり、地鳴りのように続く。

 英雄譚の神殿に響く神語は、スクラップを讃える単音だった。

 途切れることなく繰り返されるその響きに、炎司は苦々しく顔をしかめ、澪は無言で耳を押さえた。

 荘厳な響きは廃工場の残骸を震わせ、崩れた高架の柱すら神殿の石柱のように見せかける

 その単調な詠唱は、いつしか天地を揺るがす神語のように錯覚される。

 ――そこに。



 「ボルトォォォ!」

 「クラッチ! クラッチ!」

 「オイル! オイル!」

 「カムシャーーフトォォ!!」



 機械用語が呪文のごとく叫ばれ、リズムは狂信的に転調していく。

  まるでプログレッシブ・ロックの変拍子、混沌と荘厳の境界を踏み越える響き。

 プログレッシブ・ロック――英国の若者たちが、地下の小劇場でブルースの三拍子を壊し、五拍・七拍・十一拍を組み合わせ、交響曲の衣をまとわせた音楽。

 赤い王の咆哮はジャズと教会音楽を同時に飲み込み、鍵盤の巨人はオルガンを爆撃機のように叩きつけ、あるいは光と闇を裂くギターが壁に耳を生み出した。

 それは単なる娯楽ではなく、異端の典礼であり、近代の聖歌であった。

 変拍子の反復は聴衆の脳波を「同期」と「逸脱」に同時に引き裂き、トランスを誘発する。すなわちプログレとは、理性を超えて恍惚を刻む、数学と幻覚の怪物だった。


 いま浜松の廃工場で鳴る「ボルト」「オイル」の合唱は、その亜流に過ぎない。

 だが鉄仮面の信者たちは、知らぬままに英国の地下室で生まれた異端の遺伝子を継ぎ、溶接火花とスクラップを祭壇にして再演している。鉄の残響は、祈りであると同時にエンジン爆発の模倣でもあった。

 炎司はその光景を見つめ、うっとりと呟いた。


 「……すげえ。これが神話ってやつか……」


  澪は耳を押さえ、ため息をついた。

 その目の先で、鉄仮面の信者たちは狂喜に震えていた。

 ひとりは溶接トーチを天へ突き上げ、火花を散らしながら神火のように振り回す。

 また別の者は巨大なレンチを掲げ、聖遺物のように跪いて祈りを捧げていた。

 そして、ひときわ甲高い声が夜空に突き刺さった。


 「右手を掲げろォォ! スパナァァァ!!」


 どっと歓声が沸き、信者たちのスパナが一斉に月明かりを受けて鈍く光る。

 その群像は、無数の聖剣の林立に見える。

 鉄鼓は狂ったように乱打され ――群衆のスパナが一斉に月を反射した瞬間、そこには奇妙な既視感があった。


 宗教学の記録は語る。人は古来、武器や農具をただの鉄片として手にすることに耐えられなかった。

 カトリックは槍先や剣を reliquia として聖人の血の延長に据え、東欧の農村では収穫祭に鋤や鎌を掲げて天へ感謝を送った。あるいはアフリカの仮面儀礼で、木槌や鉄鎚は霊の声を伝える共鳴体とされ、道具はそのまま神の舌となった。

 この衝動は時代を越えて繰り返される。新興宗派の野外集会では、信徒が聖書を高く振り上げ、一斉に「ハレルヤ」と叫ぶ。その光景は聖典であると同時に、軍旗の林立に似た鉄の森であった。


 つまり人間は、道具を単なる道具として保つことに耐えられず、祈りの器に昇華させずにはいられなかったのである。

 ここ浜松のカルトもまた、その古代的衝動をなぞっていた。

 スパナはただのレンチではなく、鉄神の剣であり、工具屋のカタログはもはや福音書の写本に等しい。鉄鼓の乱打と火花の飛散は、ラテン・アメリカのペンテコステ派の集会で語られる聖霊の降臨に響きが近い。


 祈りと労働、宗教と工具――両者の境界は、人類が火を打った最初の一瞬からすでに曖昧であった。火打石から飛んだ火花は、刃を鍛える炉の火となり、炉はやがて祭壇に転じ、そこに人は神を見た。


 スパナを掲げる群衆は、その長大な歴史のただの反復にすぎなかった。

 炎司は感極まり、とうとう頬を伝う涙を拭いもせず、震える声を漏らした。


 「……マジで神話だろ、これ……」


 澪は横で静かに肩をすくめた。


 「ただの工具屋のチラシが群体化しただけでしょ」


 澪は冷めた声で付け足した。


 「まるでカー用品フェスね」


 なおも信者たちは恍惚と叫び続ける。



 「テツ! テツ! テツ!」

 「ワイパァァァアア!!」

 「アーメンタイヤァァァ!」



 近づくほどに、その荘厳な祈りがただのドラム缶ライブに過ぎないことを思い知らされる。

 だが目を凝らせば、そこに神の造営はなかった。

 赤錆びた三階建ての工場がひとつ。鉄骨がむき出しになり、壁は崩れ落ちている。


 屋上にはスクラップで組まれた「鉄塔(アイアン・スパイア)」が突き立ち、先端には自動車のエンジンブロックが吊り下げられていた。

 それを彼らは鉄神の心臓と呼ぶ。

 さらに壁一面には無数の車のドアが貼り付けられていた。

 遠目には神々しき鱗鎧――しかし近づけば、色とりどりのドアにかつての大手自動車メーカーのロゴが残っている。


 聖域の象徴は、車検の残骸だった。

 正面玄関に至ってはさらに奇妙だ。

 そこに立ちはだかるのは、巨大な鉄鍋をひっくり返して造られた鉄の門。

 荘厳なる神殿の入口は、かつて誰かが味噌汁でも煮ていた鍋だった。


 ――その時だ。

 低く呻く声が夜気を震わせる。

 影の群れが月光を背に迫り、やがて聖域の鉄扉へ押し寄せた。

 無数のゾンビの拳が、一斉に分厚い鉄を叩きつける。


 ガン、ガン、ガン――!


 その轟きは嵐のように壁を震わせ、天地をゆるがす。

 血の匂いに導かれし死者たちの咆哮は、鉄の門を神の祭壇へと変貌させた。


 「来たぞォォ! 神がノックしておられる!!」


 鉄仮面の信者たちは一斉に叫び、地に額ずいた。

 鈍い打音はやがて大地の心臓の鼓動となり、天上へ轟き渡る。

 それこそが彼らの儀式―― 鉄扉叩打アイアンノック

 炎司と澪は、廃墟の影に身を潜めながら、その光景を見ていた。


 「……ただのゾンビのノック音でしょ」


 澪は呆れたように言う。

 しかし、澪が言うように、そう呆れたことでもない。

 扉を叩く音は古来、神意と恐怖の両義を帯びてきた。

 修道院では、死者の祈りを告げる鐘に代えて鉄環が鳴らされ、シャーマンは皮のドラムを打ち、霊界の門を叩いた。


 日本の怪異譚では、夜半に戸を打つ音は必ず「異界からの訪れ」を告げた。

 叩音はいつでも境界を越える合図だった。

 いま、浜松の廃工場でゾンビが扉を打つ響きも、彼らには神の声に聞こえる。

 それは、世界の儀礼史が幾度も刻んできた錯覚の延長にすぎなかった。

 だが炎司の目は涙でいっぱいだった。


 「……涙が出る……人間とゾンビが一緒にリズムを刻んでるんだ……」


 声は震え、拳は小さく震えていた。

 澪は冷めた目で肩をすくめる。


 「カー用品フェスに、アンデッドのドラム隊が加わっただけよ」

 澪の冷めた声に、夜風がひゅうと抜けていった。







 ――ぱしゅっ、と音を立てて火花が散った。

 溶接トーチの炎が、偶然にも陰の壁をなめ、潜んでいた二人を炙り出した。

 闇に紛れていたはずが、たった一瞬の閃光で、まるで舞台照明を浴びた役者のように浮かび上がる。

 沈黙。

 次の瞬間――甲高い笑い声が、空気を切り裂いた。


 「おやおやぁ~~~……?」


 声の主は、鉄仮面ピエロ――クラウン・ボルト。

 ボルトを突き刺したピエロのマスクから、ひび割れたような笑みが覗く。

 彼は火花を散らす鉄パイプを三本ジャグリングしながら、よろめくように前へ出てきた。

 その動きは酔っ払いの道化師のようでいて、目の奥は冴え冴えと光り、背筋を凍らせる。


 「見ぃつけたぁ……異教徒ォ! まるで隠し玉だぁ、夜のピエロショーにようこそぉ!」


 口調はサーカスのリングマスター。

 だが、その声に合わせて飛び散る火花が壁を焼き、じりじりと二人に迫るたび、ただの冗談ではないことを告げていた。

 すでに上階の鉄骨の影からは、64式小銃を無理やり鉄片で継ぎ接ぎした改造ライフルの銃口が、二人に狙いを定めていた。

 さらに足場の上では、プロパンタンクと溶接トーチを繋げただけの火炎放射器が「鉄神の吐息」として掲げられ、赤黒い炎を試し噴きしていた。

 その傍らには、工場用のリベットガンを改造し、高圧空気で鉄釘を撃ち出す即席ボルトシューター――「鉄神の矢」と呼ばれる祭具まで構えられていた。

 火と鉄の両方に狙われた状況で、逃げ場など存在しなかった。


 「さあさあ拍手ォ! 喝采ィ! 囚人芸の開幕だぁぁぁ!!」


 すると、信者たちがどっと沸いた。


 「神の鉄槌だ!」「鉄神の御導きだ!」


 奇声を上げながら一斉に押し寄せ、炎司と澪の腕を掴み、足を絡め取り、あっという間に地面へ引きずり倒す。

 汗と錆のにおい、焼けた鉄の匂いが押し寄せてくる。

 炎司は必死に抵抗したが、後頭部に冷たいスパナの柄が押し当てられ、背筋に嫌な汗が走る。

 澪もまた、両腕をねじ上げられ、火花の群れの中に引きずり出された。


 ――その光景は、恐怖のはずなのに。

 クラウン・ボルトの笑い声が、異様に軽やかで耳に残った。

 「ははっ!ご覧あれ!鉄神さま、きっと今夜は退屈しませんぞぉぉ!」

 恐怖と馬鹿騒ぎがごちゃ混ぜになった祭りの只中に、二人は舞い上げられたのだった。







 やがて、群衆のざわめきが裂けるようにして、一人の男が現れた。

 赤錆をまとった鉄扉の向こうから、ゆっくりと現れたその姿は、夜の残響とともに膨れあがる。

 顔は巨大な溶接マスクに覆われ、ひとつ目のスリットが闇の底のように沈んでいる。

 片手には折れたリベットガンを杖のように突き、歩くたびに乾いた鉄音がこだました。

 彼の前に道が開ける。

 信者たちが左右に割れ、火花を撒き散らしながら跪く。

 澪が思わず眉をひそめ呟いた。


 「……誰よ、あんた」


 その瞬間、信者たちが一斉に振り返り、怒声を上げた。


 「異教徒め! 不敬を働くな!!」

 「この方こそ――鉄扉を叩く音から未来を読み取る者!」

 「鉄の残響を聴き、神の言葉を伝える導師!」

 「我らが預言者、鉄面のバルガス様であらせられる!!」


 鉄面の預言者――バルガス。


 狂った合唱のような紹介が、澪を押しつぶす。

 澪はひとつ鼻で笑い、冷え冷えと呟いた。


 「預言者? ……バカじゃないの。そのナリで」


 一瞬、群衆のざわめきが凍りついた。

 次の瞬間、堰を切ったように怒声が広がる。


 「不敬だ!」

 「異教徒を黙らせろ!」


 鉄仮面たちが一斉にスパナや鉄パイプを振り上げ、地面を叩き鳴らす。

 ガン、ガン、ガン!

 その響きは、まるで処刑前のドラムロール。

 やがて――ひとりの男が飛び出した。

 振り下ろされた鉄拳が、澪の頬を直撃した。

 白い顔が弾かれ、黒髪が宙を舞う。

 頬に走る衝撃で、唇がかすかに割れ、赤い滴が夜の光をひらめかせた。

 血が艶やかに濡れ、濡れた唇が妙に生々しく光った。

 群衆の歓声はそれを「神罰の印」と崇めるように沸き上がる。

 澪は地面に崩れかけながらも、鋭い目を向けて吐き捨てた。


 「……最低の茶番ね」


 信者たちは彼女の声をさらに煽りに変える。


 「見たか! 異教徒の血が、神の赤きオイルとなった!」

 「これぞ神が彼女を罰した証!」


 鉄の波が熱狂し、さらに迫る。

 炎司は喉を裂くように叫んだ。


 「やめろ!」


 だがその声は、金属を叩きつける轟音と熱狂の渦に呑み込まれ、空気の底にかき消された。







 ――そのとき、重い鉄音が鳴り響いた。

 バルガスのリベットガンが、乾いた杖音で床を打つ。


 「……やめよ」


 それだけで、群衆はぴたりと動きを止めた。

 鉄仮面の奥から、息を呑む声が洩れる。


 「……やめよ」


 なぜか再び言う。


 「なんと寛容なお言葉だ……!」

 「預言者様は慈悲深い……!」

 「まさに鉄の父よ!」


 澪は顔に残る鈍痛を押さえながら、冷え冷えとした声音で言う。


 「慈悲? ――笑わせないで。そのマスクの下でニヤけてるんでしょ」


 ざわめきが走る。

 鉄仮面たちは一斉に怒りと熱狂に震え、狂った合唱のように叫び出す。


 「鉄面のバルガス様は、鉄扉を叩く神のノックから未来を読み取られるお方!」

 「その御言葉が外れたことなどない!」

 「九割は的中するのだ!」


 炎司は思わず目を見開いた。


 「九割……ッ!? すげえじゃねえか!」


 澪は呆れ顔で炎司をにらみ、唇から血を拭った。


 「……あんた、なに本気で驚いてんのよ」


 信者たちが鉄パイプを掲げ、合唱のように叫んだ。



 「預言者様はかつて言われた――西より鉄の牛が来ると!」 

 「その翌日、廃工場が崩れ、錆びついたブルドーザーが坂を転がり落ちてきたのだ!」

 「預言は成就した!」


 「また言われた――南の道に赤き牙が立つと!」

 「その夜、トラックのタイヤが爆ぜ、路上に突き立つように残ったのだ!」 

 「預言は成就した!」


 「さらに言われた――北風に鉄の子守唄が響くと!」

 「まさにその晩、トタン屋根がガタガタ鳴り、我らは眠れぬ夜を過ごした!」

 「預言は成就した!」



 涙に濡れた仮面の下から嗚咽すら洩れる。

 鉄屑の広間は熱狂に包まれ、信者たちはひれ伏し、鉄を打ち鳴らし、まるで神話の一節を演じているようだった。

 炎司は思わず拳を握りしめた。


 「……すげぇ……本当に……九割、当たってる……!」


 澪は冷えた視線を炎司に投げた。


 「あんた、本気で泣いてんの? ……全部ただの廃車とパンクとトタンじゃない」


 澪はその横顔を一瞥し、冷え冷えとした声を投げた。


 「……あんた、完全に信者側じゃない」


 ――その時だった。

 聖域の奥から、錆びついたエンジン音がかすかに響いた。

 ぶるるるる……と喉を鳴らし、鉄屑を噛み砕くようなうなり。

 工場の隙間を縫うようにして現れたのは、一台のポンコツ車だった。

 ボディはくすんだピンクに錆び、屋根にはドーナツ・ショップの巨大な看板がなおも居座っている。看板はぎしぎしと悲鳴を上げ、夜風に軋みながら揺れた。


 それは炎司と澪がここまで乗ってきた、ドーナツ・チャリオット。

 捕縛された二人から鍵を奪った信者たちが、歓喜の声を上げながら運転席にしがみつき、無理やり聖域の広間へと乗り込んできたのだ。

 車体は錆びた鉄骨にぶつかりながらも突進し、まるで自ら祭壇を求める獣のように前庭の中央で停まった。

 信者たちは一斉に息を呑み、その場を照らす松明の炎が震えた。

 バルガスのマスクの奥で、息がひゅうと吸い込まれる音がした。

 そして、鉄のこもった声が絞り出された。


 「……これは供物……いや、違う! 違うぞぉ!」


 叫びは唐突にねじれ、群衆の背筋を凍らせる。


 「これは……神が遣わされた御使いだぁぁ!」


 リベットガンが天へ突き上げられ、火花が散った。


 「見よ! 彼らの車はただの車ではない!」


 マスクの隙間から放たれる声は、溶鉱炉の熱に似て圧し掛かる。


 「鉄神の戦車――ドーナツ・チャリオットである!!」


 一瞬の沈黙。

 そして次の瞬間、鉄の聖域は爆ぜた。

 歓声が奔流のように押し寄せ、スパナが掲げられ、鉄鼓が乱打される。

 ゾンビのノック音すらも、熱狂の波に呑まれ、ひとつの轟音の交響に変わっていく。

 炎司はその響きに涙ぐんだ。


 「……やっぱりこの車は、神話だったんだ……」


 バルガスのリベットガンが再び天を突き、火花が夜を裂いた。


 「見よ! 神は戦車を遣わされた! その御使いを導くは、英雄だ!」


 その一声が落ちた瞬間、群衆の熱狂は一気に反転した。

 鉄仮面たちは炎司を振り仰ぎ、まるで千年ぶりに神像を拝むかのように手を伸ばした。


 「英雄だ! 鉄神の御使いだ!」

 「罪を犯した! この方に手を挙げた我らは愚か者だ!」


 さっきまで澪を殴り倒した拳が、今は震えながら地に叩きつけられる。

 床に鉄が鳴り響き、謝罪の音が波紋のように広がる。


 「赦せ! 赦せ!」


 その声は哀願であり、同時に熱狂の讃歌であった。

 炎司は目を見開き、息をのむ。

 血と油にまみれたこの群衆が、自分を英雄と呼んでいる。

 ――それは夢ではなく、狂気に支えられた現実だった。

 胸の奥が熱く膨れ上がり、震える声が漏れる。


 「……俺たちは……選ばれたんだな……」


 澪は口元の血をぬぐい、じとりとした目をした。


 「……さっきまで私を殴ってた奴らに感動してる場合? 普通は『澪、大丈夫か』って心配する流れでしょ」


 炎司は神妙な顔のまま振り返り、胸に手を当てる。


 「いや、俺は信じてた。澪なら多少殴られても平気だって」

 「どんな信頼よそれ!」


 澪は呆れ声を張り上げる。

 その夫婦漫才すら群衆の耳には届かない。

 彼らの心は、すでに英雄を祭り上げる陶酔の中に沈み込んでいた。

 鉄鼓が鳴り、ゾンビのノックが合唱に混じり、夜の工場は狂信の祝祭と化していった。

 鉄鼓の轟きが止むことはなかった。

 バルガスの声がさらに響く。


 「英雄ひとりでは、戦車は動かぬ! そこに寄り添う御使いがあればこそ……!」


 群衆が一斉に振り返る。

 その視線は、血の滲む唇をぬぐう澪に注がれていた。

 鉄仮面の奥から、熱狂した叫びが次々と湧き上がる。


 「女神だ!」

 「戦車を導く鉄の女神だ!」

 「英雄の隣に立つ、慈悲の御使いだ!」


 ついさっきまで拳を振るっていた者たちが、今は膝をつき、涙を流している。

 澪は呆然と人々を見渡し、わずかに肩をすくめた。


 「……いや、私はただの女なんだけど」


 信者たちはなおも熱狂して叫ぶ。


 「謙虚だ! なんと謙虚なお言葉だ!」

 「これぞ真の女神の証!」


 澪は額に手を当て、吐息をこぼした。


 「……アンタたち、頭のネジ全部落としてるわね」


 だが、その誹謗すら群衆には届かず、聖域は「英雄」と「女神」の到来を祝う歓声で埋め尽くされていた。

 次の瞬間、群衆は二人を歓喜のうちに担ぎ上げた。

 スクラップ祭壇も車の屋根も区別なく、まるで神輿のように押し上げられ、炎司と澪は熱狂の波に揺さぶられた。

 それはただの錯乱に過ぎなかったが、鉄仮面の群れには立派な神事のひと幕として映っていた。






 ざわめきは、まるで嵐の前の風のようにざわついていた。

 その渦を割るように、壇上にひとりの少女が歩み出る。

 十五、十六のあどけなさを残した顔立ち。

 切りそろえられた前髪の奥で、片方の瞳は赤い義眼に置き換えられているが、それすら宝石のようにきらめいていた。

 白い頬に埋め込まれた鉄片は、まるできらびやかな飾り石のように並び、光を受けて鈍く輝く。

 細い四肢の一部は鉄板で覆われていたが、鋲やリベットはまるでラインストーンのように装飾的で、動くたびにきらりと反射して舞台衣装のアクセサリーめいていた。


 細い四肢は部分的に鉄板で覆われ、肘や膝の関節からは鋲が突き出ていた。

 ドレスの代わりに身につけているのは、ボルトを縫い込んだ黒革の衣装。

 スカートの裾には小さなチェーンが垂れ、歩を進めるたびに鈍く鳴った。

 その姿は、人形と機械を無理やり継ぎ合わせたようでもあり、同時に、舞台に立つためだけに作られた偶像の完成形にも見えた。


 ――〈アイアン・リリィ〉。


 信者たちが「鉄神の偶像」と呼ぶ存在は、恐怖と愛らしさを同時にまとった、狂気のアイドルだった。

 群衆は息を呑み、松明の炎が揺れる。

 少女――アイアン・リリィが、胸の前に両手を組むと、夜気を震わせるほど澄んだ声が溢れた。


 「♪……鉄神さま、眠れ眠れ……

  ボルトは星、ナットは月……

  オイルの海で夢を見て……

  眠れ眠れ、鉄の御腕に……♪」


 鐘の音のように澄み渡り、どこかで金属を叩くような微かな残響を伴っていた。

 瞬間、聖域に押し寄せていたゾンビの呻きが止んだ。

 分厚い扉を打ち叩いていた拳さえも、静止したかのように沈黙した。

 火花の散る工場跡は、ひとつの巨大な揺り籠に変わった。

 血と油にまみれた信者たちが涙ぐみ、両手を天へ差し伸べる。

 その夜、歌声は死と鉄を同時に眠らせた。







 火花の散る工場跡は、ひとつの巨大な揺り籠に変わった。

 血と油にまみれた信者たちが涙ぐみ、両手を天へ差し伸べる。

 その夜、歌声は死と鉄を同時に眠らせた。

 炎司は口を半ば開け、うっとりとした顔で呟いた。


 「……すげえ……アイドルって、どんな世界でも神になれるんだな……」


 澪はすかさず横目でにらみ、口の端を引きつらせた。


 「アンタ、正気? 歌詞が鉄神さまゴリゴリしかないアイドルなんて、普通は笑うとこでしょ」

 「いやでも、声が……鐘みたいに澄んでるだろ? ほら、Prism†Echoのワンマンライブのアンコールで泣いた時の感じと同じで……」


 炎司は胸に手を当てて真剣な顔をする。


 「Prism†Echoが希望なら……リリィは、その影だ。似てるのに、全然違う……」


 澪は額を押さえてため息をついた。


 「……ゾンビすら静まる声で感動してるの、世界であんたくらいだと思うわ」

 「え、でもゾンビもオタクも、同じく推しに従う生き物ってことだろ? リリィ、マジで救世主……!」


 炎司の目は涙で潤んでいた。

 澪は冷ややかに肩をすくめる。


 「……もう好きにしなさい。ただし私は絶対に推し変しないから」


 その会話を耳にした信者たちは、ますます熱狂した。

 「英雄と女神が、聖なる対話をしておられる!」

 と勝手に解釈し、さらに合唱の声を高めていった。







 歌声が静かに途切れると、工場跡は一瞬、完全な沈黙に包まれた。

 アイアン・リリィは壇上の中央に立ち、義眼の赤をかすかに光らせながら、ゆるやかに両腕を広げる。


 「……鉄神さまはお告げになりました。この御使いを、供物として迎え入れよと」


 その言葉に、信者たちは一斉に地へ膝を折った。

 松明の炎が揺れ、火花が散る中で、床一面に「赦せ」「讃えよ」の唱和が広がっていく。

 彼らにとって供物は死ではなく、選ばれし者に与えられる最大の栄誉だった。


 「鉄神の懐に抱かれるとは、この上なき恩寵!」

 「英雄と女神は、自らの伝説をここに刻まれる!」


 歓声は純粋な祝福の合唱だった。鎖を握る手に悪意はなく、むしろ敬虔な震えがこもっている。

 炎司と澪が壇上へと導かれると、その周囲からは花嫁行列にも似た涙と拍手があふれた。

 炎司は戸惑いながらも、歌声に揺れるリリィの姿に、Prism†Echoのアイドルたちに幻影を重ね、息を呑む。


 「……俺は……本当に選ばれたのか……?」


 澪は冷めきった視線で群衆を見渡した。

 「アンタら、本気でそう思ってるのね。あの人がなんて、ただの偶像崇拝でしょうに」

 だが群衆はその声すら「女神の試練の言葉」と受け取り、熱狂を高めるだけだった。






 祭壇の奥にそびえるのは、かつて鋼を溶かした巨大な高炉だった。

 直径は十メートルを超え、崩れかけた壁を黒々と染め上げている。

 表面は赤錆に覆われ、ひび割れた鉄板の隙間からは油の染みが涙のように垂れていた。

 炉口にはまだ熱が籠もり、暗い吐息をもらすように煙がくすぶっている。

 その煙は甘い鉄臭と油の焦げた匂いを混ぜ合わせ、まるで巨大な獣の寝息のように立ちのぼっていた。

 信者たちはそこを「鉄神の胎内」と呼び、ひれ伏した。


「還れ! 還れ!」

「胎内に抱かれよ!」


 床一面に鉄を打つ音が響き、まるで心臓の鼓動のように儀式を導いていた。

 そのとき、壇上に姿を現したのは――鉄鍋の歌姫メタル・ヴァルキュリア・アヤメだった。

 全身にボルトを縫い付けた皮革衣装は鈍く光り、片側を焼き落とした頭皮から、焦げた髪が煙のように揺れている。

 彼女は巨大な鉄鍋を抱え、バチで叩き鳴らした。


 「テツ! テツ! テツ!」


 リズムは抜群で、信者たちの胸を一斉に揺さぶった。

 ゾンビですら鉄扉の向こうで呻きに合わせて頭を振り、群衆は歓喜の絶頂に達する。

 アヤメの叫びが祭壇に轟いた。


 「最初の供物は――女神だァァ!!」


 群衆が一斉に涙を流す。


 「女神を! 女神を鉄神の御腕に!」


 歓声のなか、澪の身体に鎖が巻きつけられる。

 澪は血走った目で炎司をにらんだ。


 「……ちょっと! なんで私からなの!? 普通こういうのって、無駄に目立つ馬鹿からでしょ!」


 炎司は思わず鎖に繋がれたまま苦笑した。


 「いや……多分、女神枠で優先されたんだと思う」

 「そんな枠いらないわよ!!」


 だが信者たちはその叫びすら「御言葉」と誤解し、さらに感極まって涙を流した。


 「女神は試練のなかでも微笑んでおられる!」

 「御心だ、御心だ!」


 澪は顔を真っ赤にして怒鳴る。


 「笑ってないって言ってるでしょ!! 本気で怒ってるのよ!!」


 信者たちはその怒声すら「鉄神への讃歌」と受け止め、鉄鍋のリズムに合わせて歓喜の拍手を重ねた。

 鎖がきしみ、澪の身体がゆっくりと吊り上げられていく。

 高炉の口は赤く息を吐き、油と錆の匂いが澪の顔をなでた。

 群衆は涙を流し、合掌しながら唱和する。


「女神よ、還れ!」「鉄神の御腕に抱かれよ!」


「どこが胎内に還るよ!? ただのゴミ焼却炉じゃないの!!」


 澪は吊られながらぎゃーぎゃー叫び、鎖を振り回した。


 「うわっ、熱っ! あっついんだけど! ちょっと! この儀式ほんとにバカじゃないの!?」


 信者たちはその必死の抗議すら「女神の御言葉」と受け取り、ますます感涙して頭を垂れた。


 「御言葉だ……!」「女神は熱の試練を讃えておられる!」


 その下で、炎司は鎖につながれたまま、小さく息を吐いた。


 「……すまんな、澪。ちょっとだけ頑張っててくれ」


 彼は鎖に手を回し、静かに力を込める。

 表情はうっとりと群衆を見渡し、「ああ……女神はなんと気高い……」と芝居を打ちつつ、

 実際は鉄環の結び目を少しずつ緩めていた。


 「……すぐ助ける。だから派手に騒いでろ」


 心の奥でつぶやきながら、炎司は目だけで高炉と澪の距離を計った。

 炉口から吹き上がる熱風が、髪を赤くなぶる。

 群衆の讃歌は嵐のように続き、鎖のきしみは時の砂時計の音のように耳へ落ちた。

 ――女神は吊られ、英雄は鎖を解き、鉄神は胎内を開けて待つ。

 その夜の祭壇は、死と救いの狭間で息づいていた。

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