malleability
ニシマ アキト
第1話
あのときは、特に油断していたわけではなかったと思う。確かに気分が浮足立ってはいたけれど、気を緩めていたつもりはなかった。あれだけ人が密集している状況で、まわりが見えなくなるほど浮ついた気分にはなれなかったはずだ。右にも左にも前にも後ろにも、ほんの数センチの距離に人がいた。僕は自分の身が彼らに触れないよう、注意を払っていたつもりだった。
だからあれは、不可避の事故だったのだ。
何度もそう納得しようとした。日々この世のどこかでは交通事故や転落事故や、あるいは無差別殺人なんかで、何の罪もない人が突然命を落としている。その突然死が自分の身にだけは起きない保証はない。必ず誰かが貧乏くじを引かされる。僕はただ運が悪かっただけだ。反省しても意味がない。そもそも反省できる要素がない。何度思い返しても、どのタイミングでどんな行動をとっていればあの事故を回避できたのか、僕には全くわからないのだから。
あのとき――一年半前の、金曜日の夜。僕は定時から三十分を過ぎた頃に日本橋のオフィスを出て、東西線西船橋方面の電車に乗り込んだ。時刻は十八時四十七分、帰宅ラッシュの時間帯。車内は満員というほどではないにしろ、四方が人に囲まれてしまうほどには混雑していた。
その日は、高校二年生の頃から付き合い続けている恋人とディナーに行く予定だった。社会人三年目、彼女との交際は九年目に突入していた。二十五歳、アラサーと呼ばれる歳が近づいてきて、うっすらと結婚を意識し始めていた。彼女も僕との結婚を期待してくれているかもしれない。ある日突然サプライズでプロポーズなんて僕の柄じゃないし、今日、それとなく彼女に結婚の話を振ってみようか。
背負っていたリュックを胸の前に移動させ、片手でつり革を握ると、ポケットの中のスマホが震えた。彼女からのメッセージだった。彼女も仕事が終わり、今電車に乗ったところらしい。待ち合わせの駅には僕のほうが早く着きそうだ。『了解。先に待ってる』と返事をして、音楽を再生してからスマホをポケットにしまう。
正面の座席には白髪の浮いた小太りの男性が座っていて、右隣には僕より身長が高い大学生風の男が立っていて、左隣は小柄な女性だった。両隣の二人とも首を下向けて、手元のスマホ画面を見つめている。イヤホンのノイズキャンセリングを貫通してくるのは、たたんたたんという電車がレールを踏む音と、小さく聞こえる車内アナウンスのみ。目立った迷惑客もおらず、至っていつも通りの、仕事帰りの電車内だった。
そのまま、僕の目的地――西葛西の駅が近づいてきた。ドア付近に移動しようと身体の向きを変えたそのとき、僕の左手首が強い力で掴まれ、上に引っ張り上げられた。
「――この人、痴漢です!」
「え?」
ずっと降りることなく僕の左隣に立ち続けていた小柄な女性だった。彼女の見た目について、「小柄だった」ということ以外は何も思い出せない。彼女に自分の腕を持ち上げられたその光景は、まだ脳裏に焼き付いている。しかし、彼女の顔の部分だけが黒く塗りつぶされてしまったように、はっきり思い出せなかった。
彼女の叫び声に、車内の視線が一斉に集まる。怪訝そうな、戸惑うような、不安そうな、蔑むような――とにかくネガティブな感情を伴った様々な視線が僕に向けられていた。電車が駅に停車し、扉が開く。車内の異様な空気に気圧されたのか、だれ一人乗車してこない。入線メロディが空虚に響く。
その瞬間、僕の視界は一瞬で暗闇に覆われた。背後から身体を組み伏せられた。
「動くな! 押さえろ押さえろ!」
勢いよくうつ伏せに倒れ込み、額を強く打ち付ける。瞼の裏の暗闇が、ちかちかと虹色に点滅した。腕を無理やり捻り上げられ、喉の奥から呻くような悲鳴が漏れた。背中に複数人の体重を感じる。身体を動かそうとするがびくともしなかった。周囲が騒然としているのを肌で感じ取る。「やばくね?」「痴漢?」「初めて見た」「本当にやる奴いるんだ」とか、ひそひそ話す声が聞こえる。僕は歯を食いしばって、それでもこの状況から逃げ出そうと、水揚げされた魚のように床の上で必死にもがいていた。
――なんだこれ。なんなんだよこれ。どうなってんだよ。
僕は何もしていない。隣の女のどこにも触れていない。なのに、なんなんだ、これは。僕は今から恋人に会いに行かなきゃならないのに。どうして電車内の床に這いつくばって、大勢の人に白い目を向けられなきゃいけない?
「いっ――!」
ぐい、と強く腕を捻り上げられ、僕を組み伏せている男に立ち上がるよう指示された。僕は背骨を震わせながらゆっくりと立ち上がる。想像していた通り、車内の人々が全員僕に軽蔑の眼差しを向けていた。まるで現実感のないその光景に、僕は夢見心地のようなふわふわとした不思議な感覚に囚われた。そのまま、僕は駅のホームにやってきた駅員に手首を強く掴まれ、駅員室に連れ込まれた。
背後でぞんざいに閉められた扉の音が聞こえて、僕の記憶はそこで途絶えている。
もちろん僕はその場で、駅員に向かって必死に冤罪を主張したはずだ。そのあと駅を訪れた警察に対しても同様の主張を続けた。だって事実、僕は何もやっていないのだから。あの女が嘘を言っているだけだ、証拠がないはずだ、と僕は自分の無実を言い募ったのだと思う。
けれど、それから一年半が経った今。
僕は全てを失って、生きる屍のように日々を貪っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます