死神は愛を知らない

毒の徒華

第1話 死神と不死の青年




 夜のとばりが降りた海の近くの街の片隅。

 月明かりに照らされる石畳の路地を、死神――――アシュレイザル・ヴェルノワは静かに歩いていた。


 黒曜石のような長髪が腰まで伸び、ルビーのような瞳を持つ死神の青年。

 見た目は青年だが、死神として生きてきた年数は数えるのを辞めるほど長い。


 アシュレイザルは手に持っている大鎌で魂の糸を刈り取っていた。


 数百年の間、この作業を繰り返してきた彼はただ淡々と職務をこなす。

 死神界の最高審問官マグナリオに育てられた彼は、冷徹に一切の感情を排除することを叩き込まれてきた。


 ――……無意味な死だ


 アシュレイザルは死者の身体から魂の糸を刈り取りながら、呆れる。


 目の前の人間は海神に豊漁を願う儀式の一環として、無謀な航海に出て命を落とした漁師だ。

 この辺りでは不漁を回避する為の生贄の文化が色濃くあり、生贄に選ばれることを恐れ、自ら危険な嵐に立ち向かいあっけなく命を落とした。

 打ち上げられた死体は醜く苦しそうな表情のまま死んでいる。


 ――生贄などただの気休めであり、真に海神には届かない


 海神に捧げるという大義名分で厄介払いをする風習も、その恐怖心から自らを危険に晒す愚かで無益な人間の行動も、全くの無意味だとアシュレイザルは感じていた。


 その魂を刈り取り終わった後、次の死の気配を察知して機械的にその方向へとアシュレイザルは向かう。


 海が荒れた日は死神の仕事が多くなる。

 アシュレイザルは小さくため息をついた。


 次の死の気配の場所に飛んで向かうと、まだ生きている人間がひとり海に仰向けで浮かんでいた。

 アシュレイザルはその時点で違和感を覚える。

 確かに死の気配がしてやってきたはずなのに、その場にいるのはその海に浮いている人間だけだ。


 その人間は月明かりを浴び、金糸のように光を弾く金色の髪を持っていた。

 顔立ちはどこか幼さを残しながらも、気高さを漂わせている。

 大きな瞳は深い蒼色で、まるで海そのものを映したようだ。

 肌は不健康的に白く、しなやかな体つきは無駄がない。


 ――確かにこの人間から死の気配がしたのだが……


 アシュレイザルはその人間を凝視して観察する。

 観察していると、ふとその人間がアシュレイザルの方へ視線を向けた。


 本来なら、生者は死神の姿を見ることも気配を感じることもない。

 だがその青年はまっすぐにアシュレイザルを見つめてきた。


 ――……見えている、だと?


 生者が死神の存在を認識できるはずがない。

 摂理に反するそれを前にアシュレイザルはわずかに瞳を細める。

 青年は怯える様子もなく、むしろ不思議そうに首をかしげた。


「君……死神?」


 声音はあどけなさを残しつつも、どこか擦れた調子を帯びていた。


 ――何故死神の存在を知っている……?


 アシュレイザルの正体をすぐさま見抜いたことに、緊張が走った。

 本来であれば人間は死神の存在すら知ることはない。


 アシュレイザルは返答をためらった。

 本来認知されない存在である自らの情報を人間に漏らしてもいいものだろうかと考える。


「答えられないの?」


 青年は小さく笑った。


「まあいいや。どうせ、僕の生命力を狙ってきたんでしょ」


 ――……“また”とは? どういうことだ


「……お前は何者だ」


 死神の威を滲ませた声で問うと、青年はまったくその威圧を意に介さず淡々と答えた。


「知らないの……? 結構僕、死神の間では有名人らしいけどな」


 そう言いながら青年はシャツのボタンをはずして胸元を露わにした。


「それは……!」


 彼の胸元に浮かぶ淡い青い光――――……

 海神の紋様の刻印がちらついて見える。


 海神の加護の証。

 輪廻を乱す存在として、死神界がもっとも警戒する“禁忌”の象徴だった。


 アシュレイザルは浮遊したまま移動し、青年に近づいて更に間近にその海神の加護を観察する。


 やはり間違いない。

 これは海神の加護の証だ。


「海神に縛られた不死者か……そういう者がいるという話は耳にしていたが、お前がその不死者か」


 青年は微かに唇を歪める。


「そうだよ……僕は死ねない。どれだけ望んでもね」


 吐き出す声は淡々としていながらも深い絶望を帯びていた。


「先刻の話に戻るが、何故私がお前の生命力を狙ってきたと思った? 海神の加護を持つ者に死神は干渉を禁じられているはずだ」

「真面目な死神なんだね……これ、見なよ」


 青年は自分の首筋が見えるようにシャツをめくる。


「!」


 そこには死神がつけたと思われる呪印がついていた。

 それもひとつじゃない。

 いくつも異なる呪印が青年の首筋についている。


「どういうことだ」

「僕は不死者だからさ、生命力が無限らしい。その生命力を吸いに死神が結構頻繁にくるんだよね」

「なんだと……それが本当なら死神界において禁忌の重罪だ。誰なのか言え」


 アシュレイザルが真剣にそう言うと、青年は可笑しそうに笑った。


「ははは、本当に真面目な死神だね。そんなに簡単なことじゃないと思うけど」


 青年は少し泳いで陸に上がり、濡れた髪を片手でかきあげながら濡れているシャツを脱いで搾る。


「どういう意味だ?」

「結構偉い立場っぽい死神も来てるよ」


 その言葉にアシュレイザルは違和感を覚える。

 死神の序列など、人間が分かるはずがないからだ。


「何故上位の死神なのか分かる?」

「そりゃ……僕から生命力を得てその死神は強い力を手に入れてるからね。元々は上位の死神じゃなかっただろうけど、それだけ凄いらしいよ、僕の身体」


 そう言いながら青年はゆっくりと自分の身体に指を這わせる。


「…………」


 もしそれが本当であれば、ただの重罪では済まない。

 しかし上の立場の死神がそうしているというのであれば、アシュレイザルが上に報告しても握りつぶされる恐れもある。


 ――最高審問官のマグナリオなら、握りつぶされる心配もないか……――――


「僕、死にたいんだよね」


 アシュレイザルが考えていると、青年は明るくそう言った。

 内容に反して明るい笑顔でそう言う青年に思考が止まる。


「海神の加護は僕が望んだ訳じゃないんだ。僕はあんまり詳しく知らないんだけど、一方的に海神の加護がある状態でさ、どうにもならないんだよ」

「…………」

「死神が僕の生命力を奪い続けたら、もしかしたら僕も死ねるかもしれないって思って僕も死神を受け入れてる。でも、結局死神たちは無限の生命力を持つ僕を殺せないみたい」


 諦めるようにカイエルは悲し気に笑った。

 アシュレイザルはカイエルの言葉にしばし沈黙する。


 死を望む人間。

 だが死ねぬ運命。

 無限の生命力。

 それを得て力を得る死神たち。

 禁忌を侵す腐敗した死神界。

 海神にこのことが知れたらどうなるか……


 彼にとって理解し難い事実が目の前の青年には確かに刻まれている。


 アシュレイザルの胸奥に、ざらりとした感覚が広がる。


 不正を許せない倫理観とは別に、自分でも抗いがたい衝動が湧き上がってくるのを感じた。


 ――この青年の生命力がほしい


 禁忌であり許されないことだと頭では理解しているはずだ。

 だが、この青年を目の前にして露わになっている白い肌を見るとアシュレイザルは自分の理性を保つのがやっとであった。


 アシュレイザルは青年から視線を逸らしてなんとか理性を奮い立たせようとするが、青年の溢れる生命力とそれに混在する死の気配を強く感じ取ってしまい、理性が揺らぐ。


 それに気づいた青年は誘惑するように自分の身体をのけぞらせながら、甘い言葉をかけた。


「我慢しなくていいよ。ほしいんでしょう?」


 青年は自分の少し長い金髪を細い指で払い、自分の首筋を露わにさせた。

 他の死神の呪印がいくつもついている首筋はやけに生々しい。


 その誘いにアシュレイザルの理性はかなり揺さぶられた。

 こんなに抗いがたい衝動に駆られることがあるとは、アシュレイザルもこの瞬間まで知らなかった。


「私はそんな事しない」


 その葛藤になんとか打ち勝ち、アシュレイザルがそう言うとカイエルは不思議そうな顔をした。


「そう? 結構無理してるように見えるけど」


 アシュレイザルは青年の挑発的な言葉に険しい表情をする。

 胸の奥で渦巻く得体のしれない衝動に、彼の冷徹な理性が悲鳴を上げていたが、必死にそれに抵抗する。


 ──許されない


 海神の加護を持つ存在に干渉するどころか、その生命力を喰らうなど。

 それは死神界の掟を根幹から揺るがす、最大の禁忌だ。

 海神にこのことが知れたら死神界、海神界、人間界が揺らぐほどの大事件になるだろう。

 これまで数百年の間、アシュレイザルはただの一度も掟を破ったことはなかった。


 そうであるにも関わらず、目の前のこの青年は彼の全ての理性を揺るがす。


「……私は、そんな死神ではない」


 アシュレイザルは震える声でそう言い放った。

 その声は普段の冷徹な死神の威厳とはかけ離れて、まるで自分の心に言い聞かせているようだった。


「嘘つき」


 カイエルは、そんなアシュレイザルの言葉を戯言だと言わんばかりに一蹴した。

 それでもアシュレイザルは理性を奮い立たせて青年の言葉を強く否定する。


「嘘ではない」


 青年の身体の怪しい生命力は確かに彼を誘っていた。

 無尽蔵の生命力の煌めきが肌から零れ落ち、死神の本能をひどく刺激する。


 だが、彼は目を閉じ己の中に染みついた教えを呼び起こす。


『禁忌を犯すな。感情に飲まれるな。冷徹であれ』


 師であり義父でもあるマグナリオの声が脳裏に響く。


「……欲望に従えば私は終わる。死神としての矜持も、存在も」


 青年はそんなアシュレイザルに呆れたように、小さな溜息を吐いた。


「真面目すぎるよ。君みたいな死神今の時代じゃ珍しいんじゃない?」

「……その“珍しくない死神たち”が、お前を蝕み禁忌を起こしているのだな」


 アシュレイザルは視線を鋭くした。

 青年は笑みを浮かべながらも、その瞳はどこか哀しげだった。


「そうさ。僕の身体は、彼らにとってご馳走みたいなものらしいからね」

「その死神の名を言え。どの死神がお前の生命力を奪った」

「悪いけど名前は知らないよ。顔も隠してるから知らないし。役に立てなくてごめんね」


 素性を全て隠して生命力だけを一方的に搾取するなど、卑劣なやり方であり同じ死神としてアシュレイザルは嫌悪感を抱いた。


「探し出せばいい。必ず裁きを与える」


 アシュレイザルの声は静かだったが、その奥底には固い決意が宿っていた。


 青年は目を瞬かせ、やがて小さく微笑んだ。


「ふふ……変わった死神だね。あ、そうだ。名前……僕はカイエル。家名は知らないんだ。君の名前は?」

「……アシュレイザル・ヴェルノワ」


 アシュレイザルの名前を聞いた青年――――カイエルは「うーん」と首を少し傾ける。


「長い名前だね、長いからアシュでいい?」

「気安く私の名前を呼ぶな」

「ははは、なら名乗らなければ良かったのに」


 明るい笑顔を見せるカイエルに対し、アシュレイザルは更に険しい表情をした。


 アシュレイザルはカイエルと話している間に、また違う場所で死の気配を感じた。

 まだ仕事中であり、魂の回収業務を続けなければならない。


「私は仕事に戻る」

「もう行っちゃうの? 次はいつ来てくれるの? アシュ」


 死神にこんなに軽く話しかけてくる人間は初めてであったので、アシュレイザルはかなり戸惑いを感じる。


「また明日来る」

「そう。僕はこの近くのアウロラって村に住んでるから。じゃあね」


 カイエルが笑顔を見せながらアシュレイザルに手を振るのを横目に、アシュレイザルは魂の回収の仕事に戻った。


 漆黒の外套を翻し、夜の闇へと消える。


「…………」


 カイエルは一人、夜の浜辺に取り残された。


「……久しぶりにまともに死神と会話したなぁ」


 浜辺の砂を一握り掴むと、カイエルはその砂をサラサラと自分の手からこぼれ落とした。


 ――あの死神は他の死神と違うかもしれない。でも、あんまり期待しない方がいいかな


 彼の心は希望と、拭い去れない絶望の間で揺れていた。



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