七條 三葉
8.プレッシャー
県では有名な弁護士の家庭に生まれて、同級生には羨まれているわたし。けれど、わたしは普通の家庭に生まれたかった。
わたしの両親は、この家を「世間が認める理想の家族」として作り上げることに心血を注いできた。父は優秀な弁護士として、母はそんな父を支える完璧な妻として、世間にはそう映っているのだろう。だが、この家の中は、ガラス細工のように脆く、少しでもヒビが入れば、すぐさま修復を強要される場所だった。
「三葉、今月の模試の結果は?」
食卓で父が口を開くたび、わたしは胃がぎゅっと縮むような感覚に襲われる。それは成績のことだけではない。わたしの行動、わたしの言葉、わたしの存在そのものが、両親の評価の対象だった。すべては、「この家の子どもにふさわしいか」というフィルターを通して見られる。
「…先月より、少し下がりました」
正直にそう答えると、母は無言でわたしを睨んだ。その視線は「なぜ完璧でいられないの?」と問いかけているようだ。
「三葉、お前は本当に要領が悪いな。もっと一葉を見習え」
父は冷たく言い放つ。長姉の一葉は、昔からなんでもできた。勉強、ピアノ、習字……。彼女が何かを始めれば、必ず一番になった。彼女は両親にとっての誇りであり、わたしにとっての、乗り越えられない壁だった。
「あら、そういえば、あたしはあの模試で全国一位だったよね?三葉は、そんなに頑張ってないんじゃない?」
一葉はわざとらしく笑いながら、わたしの成績表を覗き込む。隠しているのかもしれないけれど、その口調には、わたしをからかう楽しさがにじみ出ていた。
「でも……でも……わたしも頑張ったもん…」
そう反論しようとすると、一葉はさらに笑みを深めて言う。
「頑張ってるのは、みんな知ってるに決まってるじゃない。でも、結果が出ないんじゃ意味ないじゃない。才能がないってことかな?」
その言葉は、まるで冷たいナイフのようにわたしの心に突き刺さった。わたしは何も言い返すことができず、ただ俯くしかなかった。
そんなわたしの横で、次姉の二葉が心配そうにわたしを見つめる。
「三葉、大丈夫だよ。次のテスト、わたしと一緒に勉強しようよ」
二葉は、わたしの唯一の救いにみえる。彼女はいつも優しく、わたしが辛い時には寄り添ってくれた。両親や一葉と違って、わたしをわたしとして見てくれる人。だからこそ、わたしは二葉のことが好きだった。いや、好きだったはずなのに。
「二葉は本当に優しい子だね。三葉とは大違いだよ」
母は二葉を褒める。その言葉の裏には、「どうして三葉は二葉のように優しくなれないの?」という非難が込められているのは手に取るようにわかる。
「二葉は勉強もできて、性格も良い。お前も少しは見習いなさい」
父もまた、二葉をわたしと比べる。二葉は何も悪くない。ただ優しかっただけなのに、両親はわたしを貶めるために二葉を利用した。そのたびに、わたしの中には、二葉に対する複雑な感情が渦巻いてゆく。
「…二葉と比べないでよ」
わたしは小さく呟いた。二葉は何も言わない。ただ、少しだけ悲しそうな顔で、わたしから視線を逸らした。
わたしは、二葉が嫌いだ。彼女の優しさが嫌いだ。その優しさが、両親にわたしを貶める口実を与えてしまうから。わたしの心が、どんどんひねくれてゆく。二葉の優しさに素直に感謝の気持ちを言えない自分が、心底嫌だった。
学校に行けば、みんなわたしを羨ましがった。
「ねえ、三葉って、超お金持ちなんでしょ?いいなー」
「弁護士の娘とか、かっこよすぎ!」
「三葉の家、お城みたいなんだって?」
そんな言葉を聞くたび、わたしは心の中で叫びたくなった。
「この生活と、あなたの人生、交換してくれない?」
しかし、そんなことは口にできない。わたしは、わたしとして生きるしかない。誰も、わたしの苦しみを理解してくれない。わたしの悲しみは、この羨望という名の牢獄に閉じ込められてしまった。
わたしはたくさんの友達を作った。だが、それは寂しさを埋めるためではなかった。ただ、みんなが羨ましがるわたしを演じ続けるために、必要な存在だったのだ。わたしは、誰とも本音で話すことができなかった。
放課後、わたしは一人で公園にいた。ブランコに揺られながら、ふと携帯の画面を見る。SNSには、今日もたくさんの「いいね」がついていた。それは、わたしの投稿ではなく、七條家の投稿についたものだった。
わたしは、携帯を地面に投げつけたい衝動に駆られた。わたしはここにいるのに、誰もわたしを見てくれない。みんなが羨ましがるのは、わたしという人間ではなく、わたしの背景にある「弁護士の娘」という肩書きだけ。
「もし、わたしが普通の家庭に生まれていたら……」
そんなもしもを考えるたび、わたしは深い絶望に陥る。この人生は、わたしのものではない。わたしは、両親が作り上げた理想の家族の、ひとつのピースに過ぎない。わたしの人生は、わたしが望んだものではないのに、誰とも変わってもらえない。
変わってくれないことへの絶望。
わたしは、もうこの人生を生きることに疲れてしまった。この苦しみから、いつか解放される日が本当に来るのだろうか。
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