顔の見えない妻

Spica|言葉を編む

プロローグ:夢の断片(現代)

あの日、名前を尋ねられて、咄嗟に答えたのは『ニッコロ』だった。


なぜかは分からない。


けれどその音は、ずっと昔、誰かが呼んだ声のように、私の胸を震わせた。」


勿論、私の名前ではない。


けれど、どこか懐かしい音の響きが、口の奥に残った。


灯りの落ちた部屋。


催眠士の低い声が、波のように鼓膜をなでていた。


「もう一度聞きます、あなたの名前を教えてください」


遠くで鐘が鳴っていた。


白くかすんだ海沿いの街。


まぶたの裏に浮かぶのは、ヴェネツィア。


そして私は、確かにそこにいた。


ニッコロという名の男として。

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