本文
「ミサトさん、いるー?」
玄関を開けると冷んやりとした空気と一緒にフワリとこの家の匂いが鼻を掠めた。ミサトさんの匂いだ。
俺の呼び声は届いたらしく、家の奥から
「勝手に入れーっ!」
というくぐもった怒鳴り声が返ってきた。今も手が離せないらしい。一年ぶりのやり取りにジワリと、また来たんだな、夏が始まったんだなと実感する。
俺はたっぷり詰め込んで重たかったボストンバッグを玄関にドカリと下ろす。中身は夏の生活に困らないだけの衣服と夏の課題だ。
夏休みは母の生家で過ごすのが俺の恒例行事となっている。
小学4年の時に祖父、5年の時に祖母が亡くなり、今や住んでいるのは母の歳の離れた妹、叔母のミサトさんだけとなった。それでもこの慣習は続いている。中学に上がった去年からは親の送迎もなくなり、放任されるようになった。
夏休みの間、この港町にある二階建ての家で俺はミサトさんと二人で過ごすのだ。
荷物を置いて身軽になった俺は靴を脱ぎ捨てると廊下の板を踏んだ。床板がミシリと軋む。
俺はこの木造の二階建てが好きだ。もう数年経つというのに祖父母が住んでた時から物の配置は殆ど変わっていない。いつも薄暗く、時間が停まっているような、異世界に迷い込んだかのような、そんな心地に至っていつも少しドキドキする。実際のところ、ミサトさんが物ぐさで片付けを面倒くさがり、窓は殆どカーテンを閉めたままにしているという、ただそれだけなのだけど。
軽くなった身の上で勝手知ったる家を闊歩する。勝手口からスリッパに足を突っ込むと庭を経由して作業部屋と化している物置小屋に入る。
ペンキや油絵の具や画溶液などの入り混じった匂い。そしてミサトさんの汗の匂い。扇風機で換気はしてたけど蒸し暑くて、でもそんな中でも床に胡坐をかいてるミサトさんは大きなキャンパスを睨んでた。汗を吸って色を変えてるブラジャーにパンツ。傍らには2リットルのペットボトルの麦茶。3台のタブレット。今年の髪の色は青で毛先になるほど白かった。ハワイアンブルーのかき氷みたいだった。キャンパスとは対照的である。そちらにはオレンジや黄色がふんだんに塗りたぐってあった。
「ごぶさたミサトさん。今年も世話になるね」
「ああ、うん。ひとまずメシ作って。そうめんがいいな」
「わかった。すぐ出来るから切り上げ始めてよ?」
俺は返事を待たずに家に戻ると台所でそうめんを探す。麺を茹でながら、あれは夕焼けの海だろうかと考える。まあ、本人に聞けばいいか。
「ああー涼しいー。今日からまた人並みな生活が出来るのか―。ナツキ、あんた背ぇ伸びた?」
コロコロ話題を替えながらミサトさんは冷蔵庫から缶ビールを取り出した。最後に俺の横に並ぶと頭上で手の平を水平に揺らす。一年ぶりに会ったミサトさんは俺よりも背が低かった。
「ま、俺ももう中二だし? しかもまだまだ伸びる余地あるし?」
俺の返事に一瞬キョトンとフリーズする。そして笑い出した。
「オ、オレ? アハハハ、似合わねぇ! こないだまで『ボク』だったクセに」
「う、うるさいな。それよりシャワー浴びてきなよ? ついでに服もさ」
「わりぃわりぃ。そっか……そうだよな。中二になったんだよな」
まだ笑いの引かないミサトさんはテーブルに缶を置くと、風呂場に向かった。
「でっかい絵だったね。発注あったんだ?」
「発注っていうか、小規模だけど個展やるんだよね。それの目玉」
「おお、すごいね。夕暮れの海?」
「そそ」
「珍しいよね」
「そ?」
「青系が多い印象」
「そっか」
「夏とか海多いもんね」
「そっかー……」
風呂上がりのミサトさんとそう麺をチュルチュル啜る。シャワーを浴びたミサトさんは意外とTシャツを着ていた。なぜかブカブカで股下ぐらいまで裾があった。しっとりとまだ濡れている澄んで青白い髪。
「また色変えたんだね、髪」
「そそ。涼しげでいいだろー? 南極の流氷みたいでさ」
「あ。そのイメージだったんだ」
気に入ってるようなのでハワイアンブルーを連想したのは黙っておく。ミサトさんは氷たっぷりの麦茶をコクコクと飲んでいる。出してた缶ビールは冷蔵庫にしまった。
その冷蔵庫には缶ビール以外殆ど入っていなかった。ワサビのチューブとめんつゆは入っていたので(どちらも賞味期限切れだったが)、そうめんの体裁だけは辛うじて保てたものの小ネギと青じそ、欲しかったなぁ。
「買い出し行くけど、食べたいものある?」
「カレー。野菜多め」
「毎年それだよね。高くつくなぁ」
「肉じゃなくて野菜なんだけど?」
「今は野菜が高いんだよ。米も」
「へぇーそうなんだ。ナツキと話すと勉強になるな」
「ニュース観れば分かるし、自炊してれば分かるんよ?」
「どっちも興味ねぇなー」
「社会勉強しに一緒にスーパー行く?」
「行かね。暑かったし午後は昼寝したらイラストの仕事、2階でしてるから。
そんな訳でミサトさんから生活費を貰うと、ビール以外で冷蔵庫を埋めるべくエコバッグを持ってスーパーに向かった。
一年ぶりの町並みを記憶との差異を埋めながら歩く。住んでる町と違って海の近いこの町は潮の匂いがどこでもする。肌がべとつく感じがして湿度も高い気がする。べとつきは気持ち悪いけど、潮の香りはミサトさんの町にいるんだなって実感できて好きだった。蝉の鳴き声すら地元と違って聞こえてくる。
「ん?」
坂道に差し掛かったところ、上からコロコロと缶ジュースが3本転がってきた。思わずその缶ジュースを足で堰き止めると拾い上げる。坂の上に顔を向けると陽炎揺らめくアスファルトの上にしゃがみ込んでた女の子がコチラに手を伸ばしていた。
「これ、君の?」
彼女は手を伸ばした姿勢のままコクコクと頷く。
「そ、そうです。あ、ありがとうございます」
俺は缶を持って彼女に近づく。肩まで伸びた黒髪で、白いTシャツに明るいブルージーンズ、スニーカー。焦りの表情を浮かべた彼女の手には底の破れたビニール袋。アスファルトの上には開いたまま転がってる日傘、そして野菜やら潰れた卵のパックやらが落ちていた。
なるほど、状況理解。俺は手持ちのエコバッグに缶や散乱している荷物を詰めていく。
「え、あの……?」
「困ってるんでしょ? 使ってよ」
「で、でも! 卵とかで汚れちゃいます。それに今からお買い物ですよね?」
「平気平気。はい」
困惑中の彼女を余所にホイホイと荷物を詰め終えると、拾い上げた日傘と一緒に彼女に手渡す。それを彼女は申し訳なさそうに受け取った。
「重ね重ねありがとうございます……あ、あの。ちゃんと洗って返しますから! 私、2のBの日向マツリって言います! あの、間違ってたらゴメンなさい。A組、のコじゃないですよね……他の学年、ですか?」
「あー。俺はナツキ。タメだけど俺、地元の人間じゃないんだ」
「あ、そう……なんですね。じゃあ、どうしよう。えーとえーと、返したいんですけど、明日お時間大丈夫ですか? それに近くで分かる場所って……ココで待ち合わせでも良いですけど」
「なら図書館のロビーでもいい? 16時頃で、どう?」
日向さんは俺の提案に何故か一瞬怯んだものの、コクコクと頷いた。
「は、はい。それで大丈夫です。この度は本当にありがとうございました」
日向さんは何度も頭を下げると、坂を下っていった。俺はスーパーで買い物を済ませると、ビニール袋を抱えてミサトさんの待つあの家に帰宅した。
図書館のロビーに行くと、既に日向さんが立って待っていた。緊張した面持ちで入り口の方をずっと一心に見ている。俺は日向さんに声を掛けた。
「日向さん、待った?」
「ひゃぅんっ!?」
声を掛けられて驚いた日向さんがコチラを振り返る。
「あ、いえ。今来たとこです……って、その、あのナ、ナ……スゥ、ナツキ、
日向さんは指先をモゾモゾ動かしながら俺に問いかけた。
「昼過ぎから。ココの図書館、面白い本多くて好きなんだよね」
「そう……なんですね。でもナ、ナツキ、君は地元の人じゃないのに詳しいですよね? なんで……」
「あーーっ、ナツキじゃん! 今年も来たんだ!」
声のした方に顔を向けると、知った顔を見つけた。去年より子供っぽさが抜けてるから断言し辛いけど、確かリンで合ってるハズだ。重そうなトートバッグにミニスカート、キャミソールといったガーリッシュな装いで、パーマのかかった明るいクリーム色の髪を揺らしトトトと近寄ると、肘で俺の体を
「また色々と教えてよね。皆にも来た事広めていい?」
「いいけどさ。リン、去年より一段と派手になってないか?」
「2学期には黒く戻してるって」
「夏しか知らないから黒髪が想像つかねーよ」
するとニヒヒヒと彼女は笑う。
「ならこの格好だけ覚えてくれてればイイよ」
「あ……あの!」
「あれ、転校生ちゃんじゃん」
声を掛けられて
「え、どういう組み合わせ? 何がどうしたら二人が一緒にいるの? え、ナンパした?」
「正解」
「ひゅー、やるじゃんナツキ。さすがのナツキ。可愛い女子には絶対声掛けるもんね」
「さ、されてません! え、ナツキ君、可愛いコよくナンパしてるんですか!?」
「してるよー。私もその一人」
「だってさ、二人とも可愛いかったから」
すると日向さんは真っ赤な顔して手をバタバタと振り、リンは眉を顰めると視線を泳がせパンプスで俺の足をグリグリ踏みつけた。
「で、ですから私ナンパされてないですから! だから、その、可愛くなんてないんです!」
「お前のソレ、そろそろ勘違いするヤツ出てくるから止めろよマジで」
いや、俺が言っても冗談にしかならないと思うけどな?
「あのね、転校生ちゃん。私とナツキは図書館仲間なんだ」
親指を立てるとクイッと本のある方を指差す。その説明に日向さんは首を傾げたので彼女はアハハと苦笑いを浮かべた。
「私みたいなのが図書館常連なのが意外だったかな? うちのチビ共がね、絵本好きでよく借りにくるんだ」
「で、俺は毎年夏休みの間この町で過ごしてるから、この図書館も常連なんだよね」
「他にも図書館常連組結構いるからね、ナツキは有名だよ。夏の風物詩だね。春に来た転校生ちゃんは知らなくて当然だけど」
「春からコッチなんだ、日向さん?」
「え、あ、はい。そうです。それより……そう、なんですね。じゃあ、まだしばらくナツキ君いるんですね?」
「うん、夏の間は」
「図書館っていつ頃来てますか?」
「え? うーん、午後が多いかな」
「そうなんですね!」
「あ。ナツキ君、こんにちわ」
「よ、ナツキ。今日もあついねー。じゃあマツリちゃん、今日はお先に―。バイバイ、ナツキ」
「うん。バイバイ、リンちゃん」
「え? ああ、じゃあなリン、こんにちわ日向さん」
図書館に行くと、談話スペースで日向さんとリンが同じテーブルで談笑をしているところだった。
あれ以来、日向さんとはよく図書館で顔を合せるようになった。七月は一人でいた日向さんだったけども、八月に入ってからはリンや他の人とも話してる光景を何度も目にした。というか、リンに至ってはいつの間にか互いの呼び方まで変わってた。
「リン、もう帰るんだ? 何か用事?」
俺はさっきまでリンの座っていた談話スペースの椅子に座る。生温かった。日向さんは会話をしながらペラッと本をめくる。
「下の子達を海に連れていくんだそうです。リンちゃん偉いですよね、弟さん達の面倒見て」
「ホントそうだよなぁ。一人で?」
「彼氏さんも一緒みたいですよ?」
「今日もおあついねー」
「ホント、ですよね。……あ、あの、ナツキ君は彼女さん、は?」
「いないいない。モテないもん。日向さんこそ、俺なんかと一緒にいたら彼氏さんに誤解されない?」
「そう、なんですね。いえ、私も彼氏なんていません。最近ようやく友達ができたぐらいですから」
そう言って愛想笑いを浮かべる日向さん。
「ふーん、モテそうだけどな。ところで日向さん、何の本読んでるの?」
「あ。その、イラストの教習本です。折角図書館にいるので前から気になってた事を調べようかなと」
「折角?」
「あ、いえ。ほら、その……夏休みで時間、ありますから」
「なるほどね。前から描いてたの?」
日向さんは照れ臭そうに答えた。
「お遊び程度ですけど、なんか好きで。でも折角なら上手くなりたいなって」
「ふーん……あのさ、日向さんはプロの現場って、興味ある?」
「へ?」
「い、いいんでしょうか? 私なんかがナツキ君のおうちに伺ってしまって」
「友達呼んでもイイって叔母さんからは許可貰ってるから。仕事現場の許可はこれからだけど。こっちこそゴメンね、変に期待させといて許可おりなかったら」
日向さんはブンブンブンと大きく首を横に振った。併せて黒髪も左右に揺れる。
「いえいえいえ! ナツキ君のお宅に上がれるだけで十分です!」
「そう? でも資料本とかは貸せると思うから。あ、ココね。ただいまー」
絵を描くのに興味があるそうなので、関心あるかなと日向さんをミサトさん宅にご招待した。とりあえずリビングに案内してお茶を出すと、ミサトさんに許可を貰いに行かないと。今の時間なら2階の仕事部屋のはずだ。そうそう、服も……。
ガチャ
「おーい、ナツキ。ナプキンのストックなんだけど……」
そんな事を考えてたら、ドアが開いて当人が姿を現した。何か言いかけてたみたいだけど日向さんの姿を認めて淀みなくドアを閉めた。ダダダと階段を駆け上がっていく音がする。
「え……今のスポブラとパンツの美人さんは誰……あ、お姉さん、ですか? いえ従妹さん、とか?」
「アレが叔母」
「叔母っ!?」
ガチャ
「やあ、ご紹介に預かりましたナツキの叔母のミサトです。やだなー、ナツキ? お客人が御目見えなら事前に教えて貰わないと、アハハハ」
ミサトさんは今度はTシャツに短パンという、なんとか見せれる格好になって戻ってきた。
「いやその前に普段からあの恰好でうろくつなよ」
「そう……でしたか。あの、ナツキ君の友達の日向マツリと言います。お邪魔してます」
「うんうん。ゆっくりして行ってね。ナツキ、珍しいな。女の子を連れ込むなんて」
「彼女も絵を描いてるんだ。なんでミサトさんの仕事場とか見せてあげたいんだけど。いいかな?」
「いいよ。良かったら本とかも借りてく? それなりにあるよ? 描いた絵見せてくれたら多少は指導も出来ると思うけど」
「あ、いえ。そこまでして貰わなくても」
「そ? ま、折角集めた資料をあたし一人しか読まないのは勿体ないからさ、だからさ、大歓迎だよ。あ、話変わるけどナツキ。あんた高校どこ行くか決めた?」
「え!?唐突過ぎる……いや、まだ決めてないけど。急に何?」
「そう。でも来年受験生だよね。ココには来年来るの?」
「あーどうだろう。来たいけど受験勉強でダメかもしれない」
「え……」
俺の回答に日向さんが青褪めた。
「そ? ま、どこ受けるか知らないけど悔いのないように頑張りな。でも、どの高校を受験するかはあたしには教えてくれるよね?」
「そりゃいいけど?」
「あーそれでそれでマツリちゃん。あたし、絵描き仲間できるの嬉しいんだ。だから、教えて欲しい事があったら遠慮なく聞きにおいで」
日向さんはミサトさんの提案について少し考えたあと、コクンと頷く。
「そう……ですか。そうですよね。ミサトさん、今度描いた絵持ってきます。ところでナツキ君」
日向さんは、今度はクルリと俺の方を振り向いた。
「今度夏祭りがあるそうなんです。一緒に行きませんか?」
日向さんは仕事場を見学した後帰って行った。
「苦い。苦いよこのゴーヤ」
「いや、こんなもんだろ」
今晩の夕飯はゴーヤチャンプルである。二人で黙々と口に運びながら今日の事について話す。
「連れてきたのは俺なんだけどさ、随分と日向さんに親切にしてたね、ミサトさん?」
ミサトさんは口をつけてた缶ビールをテーブルに下ろした。そしてフフフと笑う。
「昔の私に似てたもんだから、ついつい構いたくなって」
「冗談にしても笑えないなぁ」
絶対嘘だ。ちなみに風呂上がりのミサトさんはまた下着姿に戻って片膝をついて食べている。またひと口ビールを飲んだ。さっきは大きなゲップが出て嬉しそうだった。何がどうすりゃ日向さんがこうなるんだ。
「まあ、似てるかどうかはおいておいても、イイコじゃないのマツリちゃん」
「知ってるよ」
「さすがに分かってるだろ?」
「ナンノコトダカ」
「まあ、どうするかはあんた次第だけど。ちゃんと向き合ってあげなよ? ……。好きな人の姿を目で追う機会すら貰えない辛さってのは、経験しないと分からないだろうけど」
「……」
知ってる。痛いくらい。
ミサトさんはその後缶ビール片手にまたひょいとゴーヤを摘まむと「やっぱり苦いよ」と文句を言って尻をボリボリ掻いていた。
夏祭り当日。
「……どこか出掛けるの?」
ミサトさんが服を着ていた。
「やだよ、こんないい天気なのに。くそ暑い」
「でもミサトさん、服着てる」
「おいおい。それじゃあまるで、あたしが出掛ける時しか服を着ない女みたいじゃないか」
少なくとも俺の認識はそうだったよ。黒いTシャツに黒いショートパンツ。丁寧に青白い髪は黒いキャップに仕舞ってあった。外出しないのに帽子かぶるの?
「一緒に夏祭り、行く?」
「おいおい、そんなにあたしは野暮じゃないよ」
「そう?」
「そそ」
俺は戸を開けて、半身を外に晒す。陽は随分傾いていたもの雲一つない青空で、湿った潮風は熱風だった。ただ風は強めだ。
「花火、上がるかな?」
「これぐらいなら大丈夫だろ。煙が流れてちょうどイイって。ほら、楽しんでおいで」
「うん、行ってくる」
待ち合わせ場所には既に浴衣姿の日向さんが待っていた。オレンジ色の浴衣に下駄を履いていて、膝の前に巾着を持っている。黒髪はいつもと違い、編み込まれている。普段は簡素な恰好が多いのでとても新鮮だった。ああ、やっぱり可愛いこなんだよなと改めて思う。そんな彼女は落ち着かない様子で足元に見つめている。
「日向さん」
声を掛けると、俺は日向さんに駆け寄った。日向さんも気がついてコチラを向くとパァッと笑顔になった。そして彼女もたどたどしく小走りでコチラに向かってくる。
「ナツキ君」
「いつにも増して可愛いね」
「そう……でしょうか?」
「うん、可愛い」
「そう、ですか。良かった、気合い入れてきた甲斐がありました」
そう、彼女にしては珍しく強気な事を言ってクルリと回るともう一度コチラに笑顔を向けた。そして静かに安堵のため息を漏らしていた。ほんのりと、石鹸の匂いがした。
「行きましょうか?」
「そうだね。でもゆっくりでいいよ。まだ明るいし」
慣れない下駄でとても歩きにくそうだった。本格的にお祭りが始まるのは薄暗くなってからだし、まだ余裕があった。
「そう、ですね。もう合流できましたもんね。ありがとうございます」
お祭りの会場になっている港に着くと、それなりに人が来ていた。出店は始まっていて、幾つか行列ができている。日向さんとうろついてると、リン達や他の知り合いを発見する。しばらく一緒に行動したけど、暗くなってからは徐々に人数が少なくなっていく。
ふいに、Tシャツの裾が引っ張られた。日向さんの指先がそこにはあって、目が合うと皆の歩いてる方角とは反対を指差すので暗闇に紛れて静かに二人で離れた。
日向さんがコッチコッチと手招きするので、その後を尾いていく。人は疎らになり、着いたのは少し離れたところにある寂れた堤防だった。誰もいない。青白い月と、チラホラ見える星と、黒い海の煌めきと。風は少し弱まっていた。
堤防の上を二人で歩いた。日向さんは乱れるのを気にして髪を抑えている。浴衣の裾がはためいている。花火が打ち上がるまでは、まだ少し時間がある。
「リンちゃんに教えて貰ったんです。穴場だって。少し離れるケド、打ち上げ場所がよく見えるって。何よりも、誰もいない、って」
彼女は歩くのを止めると、クルリとコチラを向いた。
「ホントでした。誰もいませんね」
「うん」
「私、夏休みは一人で過ごすものだとばかり思ってたんです。クーラーの効いた部屋で、興味の薄い動画を観て。でも一緒に遊ぶ友達もいないし。夢中で取り組みたい事も無くて。ただダラダラと過ごして記憶に残らない夏になるんだと、夏休みが始まるまでは思っていたんです」
暗闇の中、月明りを背に彼女は静かに微笑んでいた。
「でも始まってみれば全然違くて。毎日図書館に通って! 毎日絵を描いて! 毎日友達とお喋りをして! 毎日がすっごく楽しくて! こんな夏になるなんて、全然思ってなかったんです」
彼女は大きく腕を広げる。
「これ、ぜーんぶナツキ君のおかげですよ? 道で缶を拾ってくれた時からずっと……」
「買い被りすぎだよ。日向さんはイイコだから、いずれ友達は出来てたし、きっと誰かが助けてたよ」
それでも彼女は首を横に振る。彼女の頬を月明りが照らす。
「だとしても、それは今年の夏ではありません。何よりこの夏一番嬉しかった事は、ナツキ君に逢えた事ですから」
日向さんは寂しそうに花火の打ち上げ場所を見つめる。
「まだまだあると思ってたのに、夏休みなんてあっという間でしたね。あと半月でナツキ君はいなくなっちゃうんですね。でも、私、これでサヨナラなんて嫌です。だから、ナツキ君、私……っ!!」
と、そこでそれまでになく強く風が吹いた。
「……え」
突風に煽られて日向さんがバランスを崩す。慣れない下駄で上手く体勢を整え損ねた日向さんは、海に向かって体が流れていく。
「!?日向さんっ!」
俺は日向さんの手を取り強く引っ張ると日向さんと俺の位置が入れ替わった。日向さんは堤防の上で尻もちをついた。でも逆に俺は……一瞬の浮遊感の後背中から海中に沈む。濡れた衣服が体にまとわりつき泳ぎにくい。それに真っ暗でどちらが上か分からなかった。肺から空気が漏れ水を飲んでしまう。薄れていく意識の中でオレンジ色の閃光を感じそちらに顔を向ける。すると青白い月が見えそちらが海上だったと理解した。必死で手を伸ばしたが、何も掴むことはできず俺は意識を失ってしまった……。
「がはぁっ!!げふぉっげふぉっ!!」
激しく咳き込み、目を覚ました。肺がとてつもなく痛い。鼻の奥がツーンとして気持ち悪い。
口の中が潮の味でしょっぱい。
気がつくと
「……良かった」
ミサトさんがポツリとそれだけ言うと、スクリと体を起こして立ち上がった。
顔を横に向けると涙で顔をグシャグシャにした日向さんが立っていた。手にはミサトさんのスマホがある。遠くから救急車の音が聞こえてきた。
こちらに背を向けているミサトさんの表情が分からない。けれどもミサトさんは顔を少し傾け、未だ泣き止まない日向さんを見てるようだった。ミサトさんは言った。
「良かったな、助かって。あんた、もう少しで一人の女の子の人生、メチャクチャにするトコだったぞ?」
ようやくミサトさんはクルリとこちらを振り向いた。なんだか、憑き物が取れたような、穏やかな笑みを浮かべていた。救急車のサイレンはすぐそこまで迫っている。
「マツリちゃん助けたトコまではカッコよかったのに、まだまだだなナツキは」
でも優しく頭を撫でられる。
「でも良かった。生きて、戻ってきてくれて」
その後救急車で運ばれて一日だけ入院した。日向さんから聞いた話によると呼吸が止まってたらしく、結構危なかったらしい。
退院して戻ってくるとミサトさんの髪が黒く、短くなっていた。随分あの髪が気に入っていたのにと驚いていたが、本人はどこ吹く風で「もう涼しくなるから」とよく分からない説明をしていた。10月ぐらいまでは暑いと思うのだけど。
日向さんには随分恐い思いをさせてしまった。それで敬遠されるかなとも思ったけど、今日も今日とてミサトさんちに遊びにきている。ミサトさんに絵を見て貰うらしい。ああ、それと本人の口から言われた。「同じ高校を受験するから決めたらすぐ教えて欲しい」だ、そう。……冬休みも、こっちに来ようかな。
「手伝ってよ」
とミサトさんが俺と日向さんに言った。
「少し模様替えをしようと思うんだ」
そう言って、ミサトさんはいつも閉ざしてた窓のカーテンを開いた。
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