おののたかむらって知ってる?

大隅 スミヲ

第1話

 私といえば、小野篁である。

 知らない方が見たら「何の話だ?」だとなるだろう。


 そもそも小野篁とは誰なのかということをまずは説明する必要がある。

 小野篁、読み方は「おののたかむら」。小野と篁の間に「の」が入るということでお気づきの方も多いだろう。そう、小野篁は平安時代の貴族なのだ。


 平安時代とひと言でいっても、平安時代は四〇〇年も続いた時代であり、一般的に初期・中期・後期という分け方がされる。小野篁が活躍した時代は、平安初期であり嵯峨さが天皇の時代だ。


 きっとこの時点で、ここを興味本位で読み始めた人の半分以上はいなくなっているだろう。

 歴史の勉強をするつもりで来たんじゃない。と、なるはずだ。


 小野篁は、百人一首にも名前が残されており百人一首では「参議篁」となっている。その歌は島流しにされる際の悲しみを歌ったものである。そう、篁は島流しにあっている平安貴族なのだ。


 ここまで書いても、小野篁についてピンと来ない人は大勢いるかと思う。


 じゃあ、これはどうだろうか。

 小野篁の先祖は、遣隋使でお馴染みの小野妹子であり、小野篁の孫(一説には子)は小野小町だったりする。それを知ると、少しだけ小野篁が身近な存在に思えるだろう。


 ただ、これだけでは小野篁を魅力的に思ったりできないと思う。

 ここからは、私と小野篁の出会いのエピソードを書いていこう。


 小野篁との出会いは、およそ二〇年前のことだった。

 当時、私は京都旅行の計画を立てており、旅行ガイド雑誌を読み漁っていた。まだこの頃はインターネット初期であり、旅行サイトなどは充実しておらず、個人のブログなどがちょっとだけ情報を発信しているような時代だった。

 旅行雑誌をめくりながら、京都のどこへ行こうかと悩んでいた。祇園、三十三間堂、二条城、建仁寺……行きたいところはたくさんある。どこもメジャーなスポットだ。


 そんな時に、ページの隅に書かれていた小さな記事に目を留めた。

『昼間は官吏、夜は地獄の閻魔大王の補佐をした男』

 そんな見出しに私は惹かれた。


 え、なにそれ。

 その紹介文を読んでいくと、六道珍皇寺という場所があり、その寺にある井戸は地獄と繋がっているのだそうだ。そして、その井戸を毎晩出入りしていた人物こそが、小野篁だった。


 歴史のある京都の街の中に現れた、なぞのファンタジースポット。これは行くしか無い。

 そんなこんなで、私は京都旅行で六道珍皇寺に足を運び、小野篁の足跡を辿ったのだった。


 それから二〇年経った。小野篁のことなんて、とっくに忘れていた。

 しかし、なぜか私は彼に呼び寄せられた。


 私の趣味の一つである散歩。その散歩道のひとつに、とある神社が存在した。

 その名は、小野照崎神社。

 聞いたことの無い神社だなと思いながら、いつもその神社に向かう道の前を素通りしていたのだ。

 まさか、この神社が小野篁を祀っている神社だとは知らずに。


 そして、とある自主企画のお題で「地獄の門の鍵」というものがあり、そこから発想する小説を書こうとしていた。そんな時に、私の脳裏に一人の人物が閃いたのだ。そう、小野篁である。昼間は官吏、夜は地獄の閻魔大王の補佐をした男。このお題にぴったりな人物じゃないか。


 私は調べ物をするのが好きだ。調べ始めると、徹底的に調べたくなる性格だ。


 小野篁についても、色々と調べた。しかし、小野篁に関する資料はあまり残されてはいない。

 そもそも平安時代初期の資料というものがあまりないのだ。


 正史として残されているのは、続日本後紀しょくにほんこうきくらいなものである。これは当時の天皇の動向などを書いたものなのだが、ここに小野篁の名前が登場する。ただ、これはあくまで天皇の行動を書いているだけなので、何年の何月に小野篁を従三位にしたとか、そんなことが書いてある程度だった。


 しかし、小野篁はこの続日本後紀にも爪痕を残している。

 小野篁は遣唐使の次官である遣唐副使に抜擢されたにもかかわらず、いざ出港という時になってドタキャンをしてしまうのだ。まあ、ドタキャンの理由は色々とあるのだけれども「やだよ、船には乗らないから」と遣唐副使の任務を放棄してしまった。

 それが当時、上皇として権力を持っていた嵯峨院の耳に入り、嵯峨院は激怒。当時、一番重い刑罰である遠流おんる(島流し)に篁をした。

 そして、百人一首にも詠まれている参議篁の歌が誕生し、篁は隠岐の島へと流罪となったのだった。

 ちなみに、平安時代は死刑が無かった時代。そのため、一番重い罪は、島流しでした。


 犯罪者となってしまった篁。これで終わりかと思いきや、ここからの復活劇が存在するのです。

 元々帝のお気に入りだった篁は、一年ほどで恩赦を得て、平安京へと戻ってきます。

 そして、そこから快進撃をはじめ、出世を繰り返し、最終的には参議の地位まで上り詰めました。

 当時は藤原氏が力を持っており、この時代だと藤原良房が力をつけていっていた時代です。そんな中で篁はその才能を買われて、出世をしていったのでした。


 この一度は無位となり罪人とまでなって復活を遂げて大躍進したことにあやかろうと、小野篁は出世の神様として小野照崎神社に祀られていたりします。


 そして、何よりも小野篁という人物に出会い、私は小野篁を主人公とした小説「TAKAMURA」シリーズを書きました。こちらは平安ファンタジー小説となっていますが、小野篁という存在自体がチートみたいなものなのです。


 なにがチートなのかといえば、若き日の篁は、父親が陸奥守の役職についており、陸奥国へと一緒に赴いています。陸奥国といえば、この頃はまだ蝦夷(朝廷に歯向かう存在)が残っていました。そのため、篁は陸奥国で武芸の腕を磨いていたのです。

 ただの武芸者であれば、まあたくさんいたでしょう。しかし、篁は身長が身長六尺二寸(約188センチ)と長身の偉丈夫だったそうです。


 そんな篁が武芸の腕を磨いているという噂は、当時の帝であった嵯峨天皇の耳に入ります。

 噂を聞いた帝は「篁は武者になろうというのか……」と嘆いたといいます。帝としては、篁に政を行える貴族になってほしかったようです。


 その話を耳にした篁は慌てて平安京に戻って、大学寮の文章生試験を受けて、文章生となります。当時の大学寮というのは、エリート貴族養成学校のようなものであり、難しい試験に合格できた者しか入れなかったといいます(あとは貴族のボンボン)。

 文章生として頭角を現した篁でしたが、その途中で突然、弾正台の役人に抜擢されて、そこから役人人生を送るようになりました。弾正台というのは、当時の警察と検察の役割を持った省庁で、特に貴族の犯罪などを取り締まっていたそうです。

 そんな弾正台の役人になった篁は、持ち前の頭の良さと腕っぷしの強さでどんどんと出世をしていくのでした。


 と、いった感じで俺SUGEEEEEEEE!!な小野篁の人生。

 そんな篁のことを当時の人々が放っておくわけもなく、平安時代後期から鎌倉時代に掛けての創作の対象にもされていたらしく、小野篁の逸話は多く残されていたりします。


 同僚の貴族に百鬼夜行を見せて喜ぶ篁だったり、腹違いの妹と恋に落ちる篁だったり、島流しにあった時に現地の娘とデキちゃった篁だったり、帝に呼び出されて「子子子子子子子子子子子子」ってなんて読むんだ?って一休さんばりのとんち対決を迫られたり……。


 こういった物語は、どこまでが本当であるかわからず、研究の進んでいなかった頃は、実話だと思われていたという話もあります。篁物語などは近代になってようやく、創作だということが判明したとか。


 ちなみに「子子子子子子子子子子子子」は「ねこのこ、こねこ、ししのこ、こじし」と読むそうです。この漢字が読めたことで篁は、帝からの疑いが晴れて、逆に信頼されるようになったとか。


 そんな愛されキャラである小野篁。現代でも、もっともっと皆様に知ってほしい。そう思っております。

 以上、私の愛する小野篁について語らせていただきました。

 長文、失礼しました。

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