第16話 ついていく

 陽だまりで丸くなっていた猫が、突如飛び起き、尻尾を膨らませて逃げ出した。

 その猫を追うように、誰かが坂道を駆け下りてくる。そして、勢いそのままに宿屋の扉を押し開け、中へと飛び込んでいった。


 慌ただしく足音を鳴らし階段を駆け上がり、勢いよく扉を開け放つ。その音に驚き、部屋にいた二人の住人が、ゆっくりと顔を上げた。しかし、反応は鈍く、その表情は抜け殻のように空虚なままだ。

 二人を前に、ロナは肩で息をしながらも、手にした杖を突き出した。

「──これを……、はぁ、はぁ……、見てください!」


 杖先には、鎖に繋がれた聖刻がふわりと宙に浮き、一つの方向を指し示している。


 しかし、まるで魂を抜かれた人形のような二人は、ただ目を向けただけでその表情は動かない。

 その姿に、ロナは胸の奥で熱く溜まっていたものを吐き出して、二人のために声を張り上げる。

「……私たちは、何のためにここに来たんですかっ!」


 その言葉が、乾いた部屋の空気を切り裂き、一瞬静まり返った──。


 やがて、セレーネが顔を伏せたまま、震える声を絞り出すように漏らした。

「……、わたしは……また……大事な人の手を……、放してしまった……。」


 そのか細い言葉に呼応するように、トリウィアは涙も枯れた乾いた顔を上げる。

 涙はもう出ない。だがその目には、失意の奥底に宿る微かな決意があった。

「──そうよ……。イシュチェルちゃんだけは……、絶対に、取り返さないと。」


 その決意は、静かに燃え上がる。三人はその炎の中で、それぞれの想いを胸に身を焦がす。

 絶対に、諦めない。絶対に、諦められない。──それは、もしノクスが望んだことなら、叶えてはならない願い。

 だが、イシュチェルという名の言い訳が、その全てを肯定した。彼女のため、というある意味で純粋な願いが、迷いを焼き尽くしたのだった。


「もう一度、行きましょう」 ロナはまっすぐな瞳で、二人を見つめる。

「「ええ。」」 トリウィアとセレーネは、短く返しながらうなずいた。


 三人は勢いよく扉を開け、足早に宿を後にする。──空は、わずかに赤く染まりはじめていた。


●○●○●


 三人は再び、キュンティアの屋敷を目指し、足早に街を抜けていく。

 日はすでに傾きかけ、狭い路地には長く歪んだ影が差していた。人通りは少なく、ひっそりと静まり返っている。

「このまま抜ければ、家の裏口が見えるはずです。」 ロナが先頭に立ち、皆を誘導していた。


 ──その時だった。

 突如、乾いた空気を裂くような破裂音が響き、足元の石畳が激しく爆ぜた。

 完全な不意打ちだった。それは、この通りを通ることを見越して仕掛けられた起爆魔法だった。先頭を走っていたロナは、察知するよりも早く爆風に巻き込まれ、弾かれるように地面へ倒れ込んだ。


 巻き上がる砂塵の中、崩れ落ちるロナの姿が、セレーネとトリウィアの視界に映る。

「ロナっ! ロナっ!!」 二人は叫びながら駆け寄り、ロナの身体を抱き上げる。

 ロナは意識を保っていたが、呼吸をするにも痛みが走り、息を詰めて顔をしかめた。


 その瞬間、路地に低く響く声が届いた。

『待ってたニャ。……まったく、待ちくたびれたニャ。』

 二人がその声に振り向いた先、砂煙の中からゆらりと現れたのは、猫のように気まぐれな笑みを浮かべる、偽りのない姿を現したイラルギだった。

 

「なんて……卑怯な真似を……。」 トリウィアがロナを背にかばいながら睨みつける。


 そのピリッと走った敵意を、あえて楽しむかのように、イラルギが応じる。

『ここから先に行かせるわけにはいかないニャ。それに──』

 続けざまに、反対側からアタエギナが姿を現し、その言葉を繋げる。

『三対二じゃ、オメーらの方が卑怯だろ。』

 トリウィアが放った敵意に対し、アタエギナからはそれを遥かに上回る殺気が返される。まるで遊びのような口調の裏に、鋭利な刃のような本気が潜んでいた。


 二人は、目の前の敵と、ロナのどちらを選ぶか選択を迫られた。

「わたし…、より、イシュチェルを……。もう一人が、狙っているはず……。」

 胸を抑えながら、ロナは息も絶え絶えにか細い声を絞り出す。しかし、それはむしろ二人を悩ませた。


 もしロナの言う通り、もう一人の敵がイシュチェルを狙っているのなら、状況は極めて危険だ。ノクスがついているとはいえ、あの浮かれた状態のままでは、守り切れるか分かったものではない。

 とはいえ、ここで誰か一人が離れてしまえば、残されたもう一人が、この二人の敵を単独で相手しなければならなくなる。

 いや、そもそも、こんなことを仕込んだ目の前の敵が、それを許すとは思えない。


 セレーネは敵から目を逸らさぬまま、ロナを抱え、じりじりと後退する。

 それを守るように、トリウィアもそばに寄り添いつつ、弓を構えた。


 ──まさにその二人の選択こそが、イラルギたちの狙いだった。

 三人をイシュチェルに近づけさせない。そのためには、こちらへの警戒と迷いを誘い、ここで動きを封じる。倒れる仲間を見捨てられない彼女たちの思考、そして行動はすでに敵の術中にあった。


”光の大地よ、その温もりで我が身を囲み、悪しき者を遠ざけよ。”

 セレーネが詠唱と共に展開したのは、魔族を拒む防壁だった。その意図は明白。敵の攻撃を防ぎながら、わずかでも隙を見つけてロナの治療を試みるためだ。

 トリウィアもその意図をすぐに汲み取り、援護するべく魔力を集中させる。いつでも敵へ攻撃を仕掛けられるよう、身体を低く構え、視線を敵の動きに張り付けた。


 だが、これはイラルギたちには実に楽な展開だった。

 ロナの治療が行われないよう、ただ適度に揺さぶり、妨害し続けるだけでいい。真正面からぶつかる必要はない。焦らずとも、彼女たちをここに釘付けにしておけるのだ。それは、何よりも好都合だった。

 敵を討つことなど、最初から目的にしていない。──それを見抜けないまま、セレーネたちは着実に、追い込まれていった。


 この決定的な差は、情報戦においてイラルギたちが圧倒的に優位に立っているためだった。

 彼女らは、ロナたちの行動原理も、戦力も、そしてそこから導かれる作戦までも、ほとんどすべてを掌握していた。

 対して、ロナたちは目の前の敵が、先日トライアノスで戦った相手であることすら、まだ気づいていない。そのために、敵の目的すら読み違えている。


 ロナたちが危惧する、もう一人の敵によるイシュチェルの強奪は、的外れなのだ。

 そのもう一人であるはずのキュンティアは、魅了によって勇者を篭絡し、すでに彼女たちはイシュチェルと共に旅立った。

 奪われたのではない。自らの意思で、イシュチェルは付いて行った。──目的は、すでに果たされていた。


 そして今、ロナたちには時間こそが最大の敵だった。

 気づかぬままに足止めを喰らい、取り返しのつかない未来へと進んでいる。

 ロナたちは一刻も早く、後を追わねばならなかった。


”ψΣΔǪ∑♄ǪodβgǪ∫ψ”

 呪文が空気を裂くように響いた瞬間、イラルギの姿が風そのものとなって、セレーネへと迫る。

 鋭く伸びた爪が防壁に弾かれるが、その体は嵐のごとく、唸る風を纏いながら荒れ狂い、執拗に壁を叩き続けた。まるで一撃一撃に嵐の化身が宿っているように、魔力の盾を軋ませる。


 トリウィアは即座に反応しようとするが、イラルギの動きがあまりに激しく、狙いが定まらない。しかも、その背後にはアタエギナが殺気を放ったまま控えている。その気配が絶えず漂い、イラルギだけに集中することもできない。

 このままでは、いずれ押し切られる──そんな予感が、トリウィアの背を冷たく締めつけていた。


 しかし、その瞬間だった。トリウィアのさらに背後から──

”雷霆よ穿て…、空を裂き…、鉄槌を下せ──天葬・紫電”

 かすれた声で、呪文が唱えられた。


 その声の主は、ロナだった。血の気の失せた唇をかすかに震わせ、そんな状態で手だけは杖をしっかりと握りしめている。声すらまともに出せぬはずの彼女が、命を削るように紡いだ魔法が、天を貫く。

 雷鳴とともに迸る光が、イラルギの影を追う。いかに速かろうと、その雷からは逃げられない。一瞬で稲妻に焼かれ、彼女から焦げた匂いが立ち込める。


「今──!」 トリウィアは、即座に弓を引いた。

 その衝撃に動きを止めたイラルギの胸元を狙い澄まし、矢を放つ。鋭く空気を裂き、真っすぐ敵の急所を穿った。


 ……かに見えた。


 しかし、その矢が届くより早く、アタエギナがすかさず割って入る。身を挺して矢を受け止め、その勢いのままイラルギの身体を抱え込むようにして後退した。

 トリウィアの狙いは正確だったが、阻まれた矢はアタエギナの肩口を深く穿ち、赤黒い血を滲ませる。


 トリウィアは追撃の矢を構えかけたが、その手を止めた。

 視界の隅に、呪文の反動で激しく咳き込むロナの姿が映ったのだ。無理をさせれば、それこそ命を削る。判断は一瞬だった。

 態勢の立て直しは、どちらにも必要な時間として、平等に配られた。


『……すまんニャ。舐め過ぎたニャ。』

 無力化したと思われたロナから思わぬ反撃を受け、イラルギは反省を口にする。その顔には笑みが消えている。

『今のはしょうがねぇ。』

 アタエギナは唇を歪めると、背に刺さった矢を自らの手で無造作に引き抜いた。血が吹き出すが、彼女は眉一つ動かさない。

 イラルギはそれに軽く触れ止血を施す。その手には、赤い血が滲んだ。それを握りしめると、彼女の目には、再び獲物を追う獣の光が戻っていた──。


 イラルギたちもまた、気づいていない事がある。

 数々の関わりを経て、ロナたちの力を理解し過ぎていることから生まれている恐怖。

 出来れば勝負を早く終わらせたい、という願望から生まれている油断。

 それらが、優位であるはずの彼女たちの行動を狂わせ始めていることに……。


 敵の攻撃が止んだ少しの間に、セレーネはロナに治癒を施した。しかし、防壁を維持しながらの短時間の治癒には限界があった。施せたのは、ほんの応急処置に過ぎない。先ほどの無茶な魔法が、明らかにロナの体を蝕んでいた。

 しかし、それでもロナの目は冴えていた。わずかに顔を上げると、伏せたままセレーネとトリウィアに小さく囁く。

「これを見て……だから……これは……」

 イラルギたちに悟られぬよう密やかに、そして、言葉だけではない信頼をもって二人に伝えた。


 牽制のつもりで間合いを詰めたイラルギだったが、思わぬ反撃に慎重になっていた。また無理に仕掛ければ、再び同じ手を食らいかねない、そう考え別の手を思案していた。

 だが一方で、アタエギナは、そのままでいいとすら考えていた。

 敵が接近戦に対する警戒を強めているのなら、むしろ好都合ですらある。こちらはその逆を突けばいい。遠距離からの攻撃でじわじわと削ればいいだけの話だ。

 たとえそれが魔法と弓の応酬になったとしても、それで十分。こちらの目的は、あくまで足止め。時間さえ稼げれば、それで勝ちなのだ。

 背中に深く突き立った矢の痛みが、焼けつくように疼く。だが、アタエギナの表情に焦りはない。この状況で自分にできる最善とは何か──アタエギナは常にそれを、冷静に見極めていた。


”ψβxg©Δxodψ”

 アタエギナが詠唱を終えると同時に、冷気が裏路地に降りた。すると、無数の薄氷刃が発生し、氷吹雪となって周囲を包む。

 それは、かつてトリウィアを封じたあの氷の防壁。この吹雪に不用意に踏み込めば、たちまち脱出不能の氷牢へと変貌する。

 だが、今それはただの防壁ではない。乱反射する氷片が視界を歪め、イラルギの身を巧みに隠しながら、その動きを援護する。

 アタエギナの放ったこの一手は、まさに彼女たちの最善手だった。


 しかし、それに対して、セレーネは思いがけない動きを見せる。ロナを守っていた防壁を、自ら解いたのだ。

”天の柱よ、光を集め、闇を追い払え”

 そして続いて唱えた魔法は、眩く輝く光によって魔を払う浄化魔法。いやしかし、それは低級の魔族を払うことは出来ても、イラルギたちには効果が薄い。

 ──だが、セレーネの狙いは、そこではなかった。


 放たれた光が氷吹雪に触れると、無数の氷片が光を反射し、眩い閃光が一面に弾けた。

 氷と光が交錯し、視界を完全に奪う。敵も味方も、光の中に呑み込まれ、世界は純白に染まった──。


 ─…やがて、眩い光がゆっくりとその輝きを失っていく。視界が戻った瞬間、アタエギナはその光景に焦りを抱いた。

 セレーネは魔法を唱えたまま立っており、その傍らではロナがまだ体を預けている。それは、なにも変わっていない。

 だが、ただ一つ、トリウィアの姿は光の中に消え去っていた。


『──あんの野郎……。』 アタエギナはこの状況に歯噛む。だが、すぐに切り替えた。

 苛立ちを押し殺し、状況を冷静に考える。

 おそらくは、この光に紛れ、仲間を置いてイシュチェルを追ったのだろう。だが、それがトリウィアの決断だったとすれば、こちらの返答は一つ。


 アタエギナは氷吹雪を解き、氷の障壁を霧のように散らせる。

 そして、イラルギと視線を交わし無言のまま、二人は同時に動き出す。

 狙うは、まだ回復しきっていないロナと、彼女を身を挺し守ろうとするセレーネ。二人を血祭りにあげて、さっさとこちらも後を追うまで。

『悪く思うなよ。』 そう言い放ち、セレーネに迫った。


 ──その瞬間だった。

”Sowilo Ansuz Kenaz Hagalaz!”(雷神駆けよ、風を別て!)

 鋭い詠唱と共に、一本の矢がアタエギナとイラルギの背後から放たれた。それは、音すら追いつけぬほどの速度で虚空を駆ける、まさに色を持たない雷だった。


 矢が描いた軌道から、爆風のような衝撃波が炸裂し、周囲全域に広がる。

 敵も味方も区別なくその余波に巻き込まれ、突如として襲いかかった重圧と振動に三半規管を狂わされ、誰もが身体の自由を奪われた。

 だが、それも長くは続かない。


『待つニャ!』

 他の誰よりもいち早く回復したイラルギが、再び動き出す。

 視界の端に姿を現したトリウィアを捉えると、彼女は地を這うように低い姿勢を取り、まさに獣のように構えた。その眼光は、獲物を絶対に逃さない狩人のそれと化す。

 追いかけっこでは、トリウィアには勝ち目はない。イラルギの一方的な狩りが、始まろうとしていた。


 ──だが、その瞬間を狙う狩人がもう一人。

”烈火よ唸れ、敵を貫け、灼熱の刃と成れ──獄葬・焔刃!!”

 咆哮のような詠唱とともに、地を裂く炎刃がイラルギの背へと襲いかかる。灼熱の刃が轟音と共に空を裂き、赤熱の残光を残して奔る。

「あなたたちに、追わせはしない……。」

 それは、もはや立つことすら難しいはずのロナの声だった。だが、その声音には怯えも迷いもない。焼けつくような闘志をまとい、彼女はしっかりと杖を構え、まっすぐに敵を見据えていた。


 イラルギは、大きく宙に身を跳ねて、その炎刃を躱す。そして、トリウィアか、ロナか獲物をどちらにするか、刹那の空中で考えた。

 しかし、狩りの本能が告げていた。どちらにも背後を見せるのは、得策では無い。

 イラルギは、結局どちらも選ばない選択をする。──その決断が、トリウィアの進路を開いた。

 

 すべての作戦は、あの最初のやり取りの直後に決めていた。

 浄化魔法での目くらまし、トリウィアの奇襲、その隙を縫ってのロナへの応急治療。そして最後に、ロナの杖先の聖刻をトリウィアへ託し、彼女をイシュチェルのもとへと走らせる──

 そのすべてが、描いたとおりに運んだ。


 しかし状況は最悪の一歩手前から、ようやく五分に戻ったところだ。一人で向かったトリウィアには、的の罠がまだ待ち構えているかもしれない。逆転にはほど遠く、やっと、均衡を取り戻したに過ぎなかった。


 そして、その代償も小さくはなかった。

 ロナの身体は、まだ治りきってなどいない。戦闘などもってのほか、魔法が使えるのも、もはや限られているだろう。

 彼女は、それを絶対に気取られぬよう、虚勢を張って耐えていた。


 戦いは、まだ終わっていない。

 だが、戦士たちの運命が、イシュチェルを中心に、徐々にひとつの意志に絡め取られつつある。

 勝利の女神がどちらを向くか──それは、まだ誰にもわからない。

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