第37話 指揮官対指揮官

 ちりちりとした痛みが、脇腹から思考の表面へと浮かび上がる。

 薬草を練り込んだ軟膏が傷口に染みて、治癒が促進されている証拠なのだろうが、この鈍い痛みは、先日の失態を執拗に責め立てているかのようだった。


 ベッドの上で身を起こしたまま、俺は膝に広げた羊皮紙へと視線を落とす。

 そこには、インクで描かれたいくつもの歪な円と、それらを結ぶ無数の矢印が、まるで抽象画のようにひしめき合っていた。


 ゴブリンナイト。あいつらの、恐ろしく統率の取れた動きを、記憶の限り書き出したものだ。

 盾を持つ個体が前衛を固め、その隙間から槍を持った個体が正確無比な突きを繰り出す。


 後方からは弓兵が牽制し、こちらの動きを的確に制限する。

 まるで、一人の指揮官が、手足のように兵士を操っているかのようだ。


 個々の能力は、三階層で戦ったオークに毛が生えた程度。しかし、それが「部隊」という一つの生命体になった時、その脅威度は指数関数的に跳ね上がる。


「まるで、チェスだな……」

 思わず、乾いた笑みが漏れた。


 痛みと、それ以上の知的な興奮が、思考を加速させる。

 そうだ、これは盤上のゲームだ。ならば、必ず定石があり、そして必勝法があるはずだ。


 羊皮紙に記された図形を、指でなぞる。

 何度も記憶の中で反芻した戦闘の流れ。


 その中で、一点だけ、常に変わらない動きをする駒が存在した。

 他のゴブリンたちよりもわずかに後方、全体の動きを冷静に見定め、時折、甲高い声で指示を飛ばしているように見えた個体。


 あいつこそが、この部隊の「王」だ。


「ルチア」

 部屋の隅で、心配そうにこちらを見ていた少女の名を呼ぶ。


 俺が負傷したことに、彼女は責任を感じているようだった。その瞳には、不安と悔しさが滲んでいる。


「少し、話を聞いてくれるか」

「……はい、先生」

 彼女をベッドの脇に座らせ、俺は新しい戦術――「指揮官狙撃作戦」の概要を説明し始めた。


「いいか、ルチア。次の戦い、俺は徹底的に囮になる」

「囮、ですか?」


「ああ。俺が派手に動き回り、敵部隊全体の注意を引きつける。その隙にお前がやるべきことは、ただ一つだ」


 俺は羊皮紙の中心、ひときわ大きく描かれた円を、人差し指で強く叩いた。

「敵の指揮官。そいつだけを狙え。お前の『火球ファイアボール』で、確実に仕留めるんだ」


 ルチアが息を呑むのが分かった。

 彼女の魔法の威力は、すでに俺の剣技を遥かに凌駕している。


 だが、それはあくまで静止した目標に対しての話だ。

 乱戦の中、無数の敵の中から、たった一体の目標を正確に射抜く。それは、並大抵の集中力では不可能だろう。


「俺を信じろ。必ず、お前に絶好の機会を作ってみせる。お前は、ただ一点だけを見つめ、その瞬間を待てばいい」


「…………」

「王を討てば、兵は自ずと崩れる。これは、古今東西の戦における鉄則だ」

 俺の言葉に、ルチアの瞳に宿っていた不安の色が、少しずつ決意の光へと変わっていく。


 彼女は、俺の揺るぎない視線を受け止めると、こくりと、小さく、しかし力強く頷いた。


「はい、先生。……やってみます」

 その返事に、俺は満足して頷き返した。


 この少女は、俺が信じて託せば、必ずそれに応えてくれる。

 最初の授業で『光』の魔法を灯した、あの夜から、ずっとそうだ。


 再び、俺たちは迷宮ダンジョンの五階層に立っていた。

 ひんやりとした空気が肌を撫で、どこか遠くから、獣の咆哮のようなものが微かに響いてくる。


 数日前、ここで負った脇腹の傷が、疼くようにして存在を主張していた。

「行くぞ」

 短く告げると、ルチアは無言で頷く。


 以前のような恐怖トラウマの残滓は、その横顔にはもうない。

 あるのは、先生から与えられた役割を全うするという、戦士としての覚悟だけだ。

 通路の角を曲がった瞬間、それ・・は現れた。


 カチャカチャという金属音と共に、通路の奥から姿を現す、緑色の肌をした騎士の一団。


 その数、八体。盾兵が四、槍兵が三、そして後方に、特徴的な意匠の兜を被った指揮官が一体。


 完璧な布陣だ。

「来るぞ、ルチア! 位置につけ!」


 俺の号令と同時に、ルチアが身を翻し、通路の脇にある岩陰へと姿を消す。

 彼女の仕事は、ここからではない。


 俺は剣を抜き放ち、ゆっくりと敵部隊へと歩み寄る。

 一体、また一体と、ゴブリンナイトたちの憎悪ヘイトを、その視線を、俺という一点に集めるために。


「さあ、始めようか。二回戦だ」

 盾を構えた前衛が、一糸乱れぬ動きで突撃してくる。


 俺はそれを真正面から受けず、通路の壁を蹴って、横方向へと跳んだ。

 狙いは、陣形の側面。


 奴らの統率力を、ほんの少しだけ乱すための、小さな揺ぶりだ。

 槍が、空を切る音が耳を掠める。


 盾による強烈な打撃を、剣の腹で受け流す。

 衝撃が腕を痺れさせ、傷口が悲鳴を上げた。


 だが、思考はあくまで冷静に、盤面を俯瞰していた。

 俺は踊るように立ち回り、攻撃を避け、受け流し続ける。


 決して、反撃には転じない。

 ただひたすらに時間を稼ぎ、敵の意識を釘付けにする。


 まるで、猛牛をあしらう闘牛士のように。


 奴らの焦りが、その単調な攻撃リズムから手に取るように分かった。

 そして、その瞬間は訪れた。


 苛立った指揮官が、陣形を維持したまま、わずかに前に躍り出た。

 全体の士気を高めるための、威嚇行動だったのだろう。


 その一瞬の突出が、命取りだった。

「――今だ、ルチアァッ!」


 俺の絶叫が、迷宮の壁にこだまする。

 刹那、岩陰から灼熱の光が迸った。


 紅蓮ぐれんの塊が、唸りを上げて宙を駆け、寸分の狂いもなく、指揮官ゴブリンの兜を捉える。


 轟音。

 爆発。


 指揮官の上半身が、文字通り消し飛んだ。


 その瞬間、それまで完璧な機械のようだったゴブリンたちの動きが、ぴたりと、止まった。


 統率者を失った兵士たちは、もはやただの烏合の衆でしかない。

 ある者は狼狽えて逃げ出し、ある者は意味もなく武器を振り回す。


 そこに、先ほどまでの脅威は、もはや一片たりとも存在しなかった。

 俺は、残ったゴブリンたちを、一体ずつ、冷静に処理していった。


 その日を境に、俺たちの五階層攻略は、劇的に安定した。

 何度も、何度も、俺たちは新戦術を反復した。


 俺が囮となり、ルチアが王を討つ。

 初めはぎこちなかった連携も、数をこなすうちに、まるで呼吸をするかのように自然なものへと昇華されていった。


 指揮官を失い、混乱したゴブリンの群れを殲滅する作業は、もはや戦闘というよりも、ただの「処理」に近かった。

 経験値が、爆発的に蓄積されていく。


 レベルアップを告げる、あの独特の浮揚感を、俺もルチアも、何度も味わった。

 ――レベルが18になり、19に到達する。


 そして、ついに、一つの大台へと、俺たちは足を踏み入れた。

 数週間後。

 俺たちの前には、もはやゴブリンナイトの部隊は敵ではなかった。


 奴らの陣形を見て、指揮官の位置を特定し、ルチア切り札がそれを撃ち抜く。

 その一連の流れは、もはや芸術の域に達していた。

 俺たちは、この階層のゴブリンたちを、完全に支配下に置いていた。


 そして、その日は、唐突に訪れた。


 いつものようにゴブリンナイトの部隊を殲滅し、通路を進んでいた俺たちの目の前に、今まで見たこともないような、巨大な石造りの扉が現れたのだ。


 扉には、禍々しい文様が刻まれており、その隙間からは、濃密な血の匂いが漂ってくる。


 五階層の、最深部。

 この先にいるのは、間違いない。この階層の主だ。


「準備はいいか、ルチア」

 俺の問いかけに、隣に立つ少女は、力強く頷き返した。


 その瞳には、もはや欠片の恐怖もない。

 あるのは、先生と共に幾多の死線を乗り越えてきたという、絶対的な自信と信頼だけだ。


 俺たちは、顔を見合わせると、巨大な扉に手をかけた。

 ぎ、ぎぎ……と、重い音を立てて、扉がゆっくりと開いていく。


 その奥に、それ・・は、いた。

 俺たちの身長の、倍はあろうかという巨体。


 醜く歪んだ顔に、知性の欠片も見られない、濁った瞳。

 手には、人間を丸ごと叩き潰せそうな、巨大な棍棒が握られている。


 食人鬼オーガ

 階層主は、ゆっくりとこちらに顔を向け、地獄の釜が開いたかのような、獰猛な笑みを浮かべた。


【ステータス】

【名前】ケイ・アキヤマ

【レベル】20

【HP】205/205

【MP】198/198

【EXP】0 / 6800

【筋力】98

【耐久力】97

【敏捷性】96

【知力】100

【精神力】99

【スキル】

 ・剣術 Lv.4 (288/500)

 ・スラッシュ Lv.3 (295/400)

 ・パリィ Lv.5 (43/600)

【ユニークスキル】

 ・『言語理解』

 ・『????』


【ステータス】

【名前】ルチア

【レベル】20

【HP】200/200

【MP】215/215

【EXP】0 / 6800

【筋力】97

【耐久力】98

【敏捷性】99

【知力】105

【精神力】107

【スキル】

 ・ライト Lv.3 (0/300)

 ・ファイアボール Lv.6 (112/700)

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