第35話 若返る男

 四階層を完全に支配下に置いて以降、俺たちの生活水準は、劇的に向上した。

 その変化は、日々の食事や装備の質だけでなく、もっと些細な部分にも現れ始めていた。


 その日、俺は市場の雑踏の中で、一枚の小さな手鏡を手にしていた。


 露店に並べられた、入念に磨き上げられた銅板。そこに映る自分の姿は、この数ヶ月の過酷な迷宮生活で、土埃と汗にまみれ、ひどく薄汚れていた。


「先生、そんなもの、どうするんですか?」

 隣で、真新しいローブの着心地を楽しんでいたルチアが、不思議そうに問いかけてくる。


「身だしなみだ。俺たちは、もはやただの駆け出しではない。人前に出る以上、最低限の清潔さは保つべきだ」


 そう言って銅貨を数枚支払い、俺はその手鏡を購入した。それは、俺たちがこの世界で、ただ「生存」するだけでなく、「生活」を営み始めたことの、ささやかな証だったのかもしれない。


 ◇


 俺たちの日常は、もはや揺るぎないルーティンとなっていた。

 四階層のトロルは、俺たちにとって、もはや脅威ではなく、安定した収入源、つまり「資源」へと変わっていた。


 繰り返す中で最適化される「作業」。しかし、その作業の中で俺たちの戦術はさらに磨かれていった。


 そして地道で、しかし確実な日々の積み重ねの中で、俺たちのレベルは、16、そして17へと、着実に上昇を続けていた。


 ◇


 その夜も、俺は、いつものように迷宮探索から戻り、宿の部屋で、汗に濡れた身体を拭っていた。


 ふと、日中購入した、あの手鏡の存在を思い出す。麻袋から取り出し、布で表面を軽く磨く。


 そして、何気なく、その鏡を覗き込んだ。

「…………」

 俺は、言葉を失った。


 そこに映っていたのは、俺であって、俺ではない、見知らぬ男の顔だった。


 いや、正確には、見知らぬわけではない。それは、確かに俺の顔だ。だが、その顔は、俺の記憶の中にある「俺」とは、明らかに、決定的に、異なっていた。


 俺は、震える手で、自分の頬に触れた。鏡の中の男も、同じように、自分の頬に触れる。


 四十代半ば。それが、俺が知る、秋山 慧の姿だったはずだ。

 目尻には、教師という仕事の心労が刻み込んだ、深い皺があったはずだ。


 頬は、不規則な生活とストレスで、少しこけていたはずだ。

 そして、髪には、数えるのも億劫になるほどの、白いものが混じり始めていたはずだった。


 だが、鏡に映る男は、どうだ。

 目尻の皺は、ほとんど目立たない。


 頬は、血色良く、引き締まっている。

 そして、黒々とした髪には、白髪の一本も見当たらない。


 そこにいたのは、二十代後半から三十代前半だろうか。体力も、気力も、人生で最も充実していた頃の、俺自身の姿だった。


 レベルアップが、肉体に影響を及ぼすことは、知識として知っていた。疲労や傷が全快することも、身をもって体験している。


 だが、これほどまでに、根源的な、不可逆なはずの「時間」そのものを、巻き戻すなどとは。


 俺は、愕然として、鏡の中の自分を、ただ見つめ続けることしかできなかった。この異世界は、俺の精神だけでなく、その肉体すらも、俺の知る「秋山 慧」という存在から、全く別の何者かへと、静かに、しかし、確実に作り変えようとしている。


 その、抗いようのない事実に、俺は、これまで感じたことのない、新たな種類の畏怖を覚えていた。


 ◇


 翌日、俺たちは、いつも通り、ギルドの換金所を訪れていた。

 俺は、周囲の視線から逃れるように、フードを目深に被っていた。自分の、変わり果てた(あるいは、戻りすぎた)顔を、他人に見られることに、奇妙な抵抗があったのだ。


 だが、そのフード越しに聞こえてきた、冒険者たちのひそひそ話に、俺は、足を止めそうになった。


「おい、また『若旦那』たちのお出ましだぜ」

「若旦那、ね。言い得て妙だ。見た目は、どう見ても俺たちより若いが……」


「ああ。あれは、絶対、レベルの高さで若返ってるクチだろ。本当は、俺たちの親父くらいの歳なんじゃねえか?」


「ありえるな。じゃなきゃ、あの異常な強さ、説明がつかん。あの歳まで、迷宮の最前線で生き抜いてきた、本物のベテランなんだろうよ」


 俺は、その会話に、愕然とした。

 彼らは、俺の異常な成長速度を、疑ってはいない。


 それどころか、「高レベル者は、その肉体が全盛期へと最適化される」という、この世界の「常識」に、俺というイレギュラーな存在を、当てはめようとしているのだ。


 四十代の男が、数ヶ月でレベル17になる、という異常。


 それが、実は五十代、あるいは六十代のベテランが、レベルの高さ故に三十前後に見えているだけ、という「常識」的な誤解。


 皮肉なことだ。

 俺の、この世界からの逸脱は、この世界の法則という名の、都合のいい「誤解」によって、完璧に隠蔽され始めている。


 だが、それは、決して安堵を意味するものではなかった。

 誰もが、その「誤解」で納得するだろうか?


 俺は、新たな、そして、より質の悪い種類の危機感が、自分の背筋を、冷たく這い上がってくるのを感じていた。


【名前】ケイ・アキヤマ

【レベル】15 → 17

【HP】175/175

【MP】168/168

【EXP】0 / 5200

【筋力】83

【耐久力】82

【敏捷性】81

【知力】85

【精神力】84

【スキル】

 ・剣術 Lv.4 (12/500)

 ・スラッシュ Lv.3 (55/400)

 ・パリィ Lv.4 (221/500)

【ユニークスキル】

 ・『言語理解』

 ・『????』


【名前】ルチア

【レベル】15 → 17

【HP】170/170

【MP】185/185

【EXP】0 / 5200

【筋力】82

【耐久力】83

【敏捷性】84

【知力】90

【精神力】92

【スキル】

 ・ライト Lv.2 (198/200)

 ・ファイアボール Lv.5 (450/600)

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