第32話 再生の壁
四階層の、青白く揺らめく光の中、俺たちは、しばし無言のまま立ち尽くしていた。
トロルの
「どうすれば……いいんですか、先生……」
ルチアが、絞り出すような声で言った。彼女の表情は、焦りと不安で硬直している。
「私の、一番強い魔法が……全く、通用しませんでした。あんなの、どうやって倒せばいいのか、私には……」
彼女の自信が、音を立てて崩れていくのが分かった。これまで、どんな強敵であろうと、彼女の『ファイアボール』は、常に俺たちの最強の切り札であり続けた。
その絶対的な拠り所が、初めて、明確に「無力」だと証明されてしまったのだ。その衝撃は、察するに余りある。
だが、俺は、そんな彼女の動揺を、あえて静かに見守っていた。
やがて、彼女が言葉を尽くし、俯いてしまったのを見計らい、俺は、静かに口を開いた。
「落ち着け、ルチア」
その声は、教師が、パニックに陥った生徒を諭す時のような、冷静で、そして、どこまでも平坦な響きを持っていた。
「まずは、問題を正確に把握するんだ。パニックは、思考を停止させるだけだ。俺たちが直面している問題の核心は、ただ一つ。『我々の与えるダメージが、奴の再生速度に追いつかない』。そうだろ?」
俺の問いかけに、彼女は、こくりと小さく頷いた。
「ならば、答えは、論理的に考えて二つしかない」
俺は、人差し指を一本立てる。
「一つは、再生速度を上回る、圧倒的な超火力を、瞬間的に叩き込むこと。だが、今の俺たちに、あれ以上の火力は出せない。つまり、この選択肢は、現時点では棄却すべきだ」
そして、俺は、二本目の指を立てた。
「となれば、残る答えは、もう一つだ」
俺の言葉に、ルチアが、はっとしたように顔を上げた。その瞳に、わずかに、希望の光が宿る。
「――あるいは、再生そのものを、させなければいい」
その、コロンブスの卵のような、あまりにも単純な発想の転換。
ルチアは、目から鱗が落ちたような表情で、俺の言葉を反芻している。彼女の思考が、「どうすればもっと大きなダメージを与えられるか」という一点から、ようやく解放された瞬間だった。
俺は、彼女に、教師として、新たな問いを投げかけた。
「ルチア。お前の『ファイアボール』について、詳しく教えるんだ。あれは、ただの爆発による衝撃が主体の魔法か? それとも、対象を高温で『焼く』という、熱エネルギーそのものが、効果の根幹にあるのか?」
俺の問いの意図を、彼女はまだ完全には理解できていないようだった。だが、自分の魔法について問われたことで、彼女の意識は、焦りから、分析へとシフトしていく。
「えっと……衝撃もありますけど、一番の効果は、熱で……燃やすことです。オークを倒した時も、その身体は、真っ黒に焦げていましたから」
「そうか。それで、十分だ」
俺の脳裏で、バラバラだったパズルのピースが、カチリ、と音を立てて組み上がっていく。
俺は、まるで講義を始める大学教授のように、ゆっくりと、しかし、確信に満ちた声で、俺が導き出した一つの仮説を語り始めた。
「生物の再生能力には、必ず限界があるはずだ。特に、トロルのような高度な再生には、正常な細胞組織が、再生の『基点』として必要となるだろう。人間の怪我が、かさぶたの下から、新しい皮膚が盛り上がるように治っていくのと同じ原理だ」
俺は、ぬかるんだ地面に、剣の先で、簡単な図を描いて見せた。
「では、もし。その傷口の断面そのものを、お前の魔法の高温で焼き、細胞ごと、完全に炭化・壊死させてしまったら、どうなる?」
「細胞を……焼く……?」
「そうだ。再生の『基点』となるべき細胞を、機能不全に陥らせる。かさぶたの役割を、人為的に、炎で作り出す。そうなれば、奴の再生能力は、大幅に阻害されるはずだ。これが、俺の立てた仮説だ」
ルチアの瞳が、俺の言葉を追うごとに、大きく見開かれていく。絶望に覆われていた彼女の表情に、驚きと、そして、確かな光明が差し込んでいくのが分かった。
俺は、その光に向かって、最後の一押しとなる、具体的な戦術を熱弁した。
「俺が、スキル『スラッシュ』を使い、奴の身体に、可能な限り深く、鋭い傷を作る。お前は、俺が剣を振り抜く、その寸分の遅れもなく、その傷口そのものを、ピンポイントで『ファイアボール』で焼くんだ」
それは、言葉にすれば単純だ。
だが、その実行難易度は、これまでの比ではない。
「いいか、ルチア。タイミングが、コンマの一秒でもずれれば、傷は、その瞬間から再生を始めてしまう。お前の魔法の狙いが、数センチでもずれれば、ただ表面を焼くだけで、何の意味もない。これは、俺とお前の、これまでの連携の全てが試される、最高難易度の『合わせ技』だ」
俺の言葉に、ルチアは、ゴクリと息を呑んだ。
その表情に浮かんだのは、希望だけではない。それと同じくらい、その超精密な連携を、果たして自分に実行できるのか、という、当然の不安だった。
「そ、そんなこと……私に、できるでしょうか……」
その、震える声に、俺は、静かに、しかし、力強く首を横に振った。
「できる」
それは、根拠のない激励ではない。俺が、この数ヶ月彼女を指導し、その才能を、その成長を、誰よりも間近で見てきた者としての客観的な評価だ。
「お前は俺が指示した座標に、寸分の狂いもなく魔法を『設置』できる。あのレイス戦で見せた、驚異的なまでの集中力と、制御能力。それがあれば、必ず可能だ。お前自身を疑うな。俺を信じろ」
俺の、真っ直ぐな視線と揺るぎない言葉が、彼女の最後の不安を打ち砕いたようだった。
彼女は、一度きつく唇を結ぶと、やがて、その瞳に鋼のような決意の光を宿らせた。
「……はい、先生!」
「よし。ならば、練習するぞ。敵は、俺の動きを待ってはくれない。完璧に、呼吸を合わせる」
俺たちは、その場で向かい合った。
俺は、剣を抜きゆっくりと、『スラッシュ』を放つための一連の動作を、何度も何度も繰り返す。踏み込み、腰の回転、そして、剣を振り抜く、その軌道。
ルチアは、その俺の動きに合わせ詠唱のタイミングを、一言一句調整していく。
俺の剣が、振り下ろされるその頂点で、彼女の詠唱が完了する。
何度も何度も、互いの呼吸と動きの「癖」を身体に染み込ませていく。
やがて、俺たちの動きから一切の無駄が消えた。
俺は、剣を鞘に収めルチアへと視線を送った。彼女もまた、杖を握り直し俺を真っ直ぐに見返してくる。その表情に、もはや不安の色はない。あるのは、新たな難問に二人で挑むことへの静かな高揚感だけだった。
俺は、短く、告げた。
「行くぞ」
彼女は、これまでで、一番力強い声で、応えた。
「はい!」
俺たちは、再び、あの醜悪な巨鬼が待つ、洞窟の奥へと、確かな足取りで、歩き始めた。
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