第24話 レイス・リベンジ①

 最後の一段を、踏みしめる。

 そこは、一階層とはまるで異質の空間だった。


 洞窟特有の湿り気は同じはずなのに、肌にまとわりつく空気の密度が違う。まるで、澱んだ水の中に全身を沈めたかのような、重苦しい圧迫感。魔力、というものの正体は未だに掴めないが、もしそれが濃度として可視化できるものならば、この空間は深い霧に包まれていることだろう。


 そして、音がない。


 一階層であれば、どこかしらから聞こえてきたはずの、ゴブリンの唸り声や、正体不明の物音が一切しない。ただ、自らの心臓の鼓動と、隣に立つルチアの浅く速い呼吸の音だけが、不気味なほど鮮明に耳に届く。


 彼女は、極度の緊張から、全身を鎧のように硬直させていた。フードの奥から覗く瞳は、一点を見据えたまま瞬きも忘れている。その小さな手が握りしめる白樺の杖が、カタカタと微かな音を立てて震えていた。


 無理もない。俺自身、背筋を這い上がってくる悪寒に、柄を握る手が汗でじっとりと濡れていた。ここは、明らかに俺たちが知る世界の法則が通用しない、異界の最前線だ。


「ルチア」

 俺は、囁くような声で彼女の名を呼んだ。


「俺から離れるな。だが、三歩分の距離は常に保て。いいな」

「……は、はい」

 かろうじて絞り出された返事は、ひどくかすれていた。


 俺たちは、壁に背を預けるようにして、慎重に歩を進めた。空間は、一階層よりも明らかに広い。巨大な地下聖堂を思わせる、だだっ広い空洞だった。点在する石筍が、まるで墓標のように影を落としている。


 そして、その空洞の中央で、俺たちは『それ』と遭遇した。


 ふわり、と。

 何もない空間から、黒い染みが滲み出すようにして、それは現れた。


 半透明の、ぼろ切れをまとった人影。フードのようなものの奥には、顔があるべきはずの場所が、ただ暗く揺らめいているだけだ。確かな輪郭を持たず、陽炎のように常にその姿を揺らしている。


 レイス。

 その姿を視界に捉えた瞬間、脳天を氷の杭で打ち抜かれたかのような、凄まじい衝撃が全身を襲った。


 寒い。

 物理的な温度の話ではない。生命活動の根源を直接握り潰されるような、絶対的な冷気が、思考そのものを凍てつかせる。生きる意志を根こそぎ奪い去ろうとする、純粋な悪意の塊。それが、レイスという存在の本質だった。


「―――ッ!」

 隣で、ルチアが息を呑むのが分かった。いや、呼吸そのものが止まっていたのかもしれない。恐怖で、完全に金縛りにあっている。杖を取り落とす音だけが、やけに大きく響いた。


 まずい。このままでは、戦う前に心が折られる。


「ルチア!」

 俺は、腹の底から声を張り上げた。


「俺を見ろ! 俺だけを信じろ! お前の敵は、目の前の影じゃない! お前の心の中にいる、恐怖だ!」


 俺の怒声が、彼女を縛り付けていた見えない枷を破壊したようだった。彼女の肩が大きく震え、はっとしたように俺へと視線を向ける。その瞳には、まだ怯えの色が濃く残っている。だが、同時に、俺の言葉を拠り所としようとする、必死の光が灯っていた。


「杖を拾え! 構えろ! お前の仕事は何だ!」

「……わ、私の仕事は……先生が稼いだ時間で、魔法を……」

「そうだ! なら、やるべきことは一つだろ!」


 彼女は、震える手で杖を拾い上げ、再び固く握りしめた。それでいい。思考が麻痺している時は、身体に染みついた手順を反復させるのが一番だ。


 レイスが、ゆらり、とこちらへ向かって滑るように動き始めた。音もなく、ただ空間を移動してくるその様は、悪夢そのものだった。


 戦闘開始だ。

 俺はルチアの前に立ちはだかり、盾を構える。物理攻撃が意味をなさない以上、この盾に防御能力はない。だが、これは俺とルチアの役割を明確にするための、象徴的な壁だ。そして、俺自身の覚悟の証でもあった。


 レイスから放たれる精神攻撃の波が、間断なく押し寄せてくる。


 脳裏に、様々なイメージが明滅した。娘の美千花との、些細なことで口論になった日の記憶。妻の理恵が、俺の生き方を「非合理的だ」と静かに断じた時の、冷たい瞳。教師として、救えなかった生徒の後悔。忘れていたはずの、あるいは、忘れたふりをしていただけの過去の失敗が、心の傷口に塩を塗り込むように、次々と抉り出される。


「くっ……!」

 歯を食いしばる。これは、ただの幻覚ではない。俺の記憶と感情に介入し、内側から精神を破壊しようとする、高度な攻撃だ。


 だが、耐えるしかない。俺がここで崩れれば、ルチアはなすすべもなく殺される。

 その背後で、か細く、震える声が聞こえてきた。


「……赤き焔の御子よ、我が声に応え……」

 詠唱だ。ルチアが、恐怖と戦いながら、魔法を組み立てようとしている。彼女は、自分の役割を果たそうとしている。ならば、俺が、俺の役割を果たさずにどうする。


 ただ、耐えるだけでは駄目だ。このままでは、精神が削り切られる方が早い。何か、何か手はないのか。


 思考を回せ。分析しろ。


 この精神攻撃は、無差別な範囲攻撃ではない。明確な指向性を持って、俺一人を狙い撃ちにしてきている。つまり、そこには「流れ」のようなものが存在するはずだ。


 物理的な剣で、非物理的な攻撃をどうこうできるはずがない。常識的に考えれば、そうだ。だが、俺が持つスキル『パリィ』は、単に敵の攻撃を弾く技術ではない。力の流れを読み、受け流し、逸らす技術だ。もし、この精神攻撃の「流れ」を、剣で逸らすことができたなら――。


 馬鹿げた発想だ。だが、他に打つ手がない以上、試す価値はある。


 俺は、盾を構えたまま、剣を逆手に持ち替えた。そして、意識を極限まで集中させる。レイスが放つ悪意の波動を、「見る」のではなく「感じる」。冷気の流れ、精神を蝕む力のベクトル。


 ――来た。


 俺は、その見えない力の流れに合わせ、呼吸を止め、剣を薙いだ。


 確かな手応えはない。だが、剣が空を切った瞬間、脳を締め付けていた万力のような圧力が、ほんの一瞬、和らいだ気がした。


 いける。


 完全な防御は不可能でも、受け流し、ダメージを軽減させることはできる。


 俺は、ひたすらその作業に没頭した。押し寄せる絶望の波濤を、一本の剣で受け流し続ける。それは、まるで嵐の海で、小舟の櫂を必死に漕ぎ続けるような、あまりにも孤独で、終わりが見えない戦いだった。


「……炎の円環リングとなりて、彼の者を撃て……!」

 ルチアの詠唱が、佳境に入ろうとしている。もう少しだ。もう少しだけ、俺が持ちこたえれば。


 だが、レイスは、ただそこにいるだけの的ではなかった。

 それまで直線的に向かってきていたレイスが、突如、ふわりと横に揺らめいた。不規則な、まるで木の葉が舞うような動きで、左右に移動を始める。


 その動きが、ルチアの狙いを大きく惑わせているのは、火を見るより明らかだった。詠唱は続いているが、その声に焦りの色が混じり始める。


「くそ……!」


 レイスの動きに合わせて、俺も立ち位置を変え、常にルチアとの間に割って入る。だが、その度に、精神攻撃の角度が変わり、受け流しきれない悪意が、俺の意識を少しずつ蝕んでいく。


 視界が、じわりと狭まっていく。思考に、靄がかかったように鈍くなっていく。盾を構える腕が、鉛のように重い。


 まずい。想定以上に、精神力の消耗が激しい。

 このままでは、彼女が魔法を完成させる前に、俺の心が折れる。


「……ルチア、まだか……!」

 声に出したつもりの言葉は、ただの悲痛な呻きとなって、俺自身の唇から漏れた。意識が、朦朧とし始める。絶望という名の冷たい水が、足元から、ゆっくりと、しかし確実に、俺の全てを飲み込もうとしていた。

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