第22話 才能の開花

 ゴブリンが霧散した後の静寂の中、俺たちはしばし動けずにいた。


 俺の荒い息遣いと、ルチアの浅く速い呼吸だけが、洞窟の冷気の中で白く形作られては消えていく。彼女は、まだ杖を握りしめたまま、ゴブリンがいた場所を呆然と見つめていた。


「……見たか、ルチア。今のが、連携だ」


 俺は剣に付着した粘液を無造作に拭いながら、努めて冷静に声をかけた。興奮を冷まし、今の戦闘を客観的な事実として彼女に認識させる必要がある。


 俺たちは近くの岩陰に身を寄せ、短い休息を取ることにした。水袋を彼女に渡し、まずは乾いた喉を潤させる。


「さて、反省会だ」

 教師の癖、というものだろう。授業の後には、必ず振り返りの時間を設ける。成功体験は、言語化し、論理的に理解することで、初めて再現可能な「技術」として定着するのだ。


「なぜ、さっきの連携は成功したと思う?」

 俺の問いに、ルチアは戸惑ったように視線を彷徨わせた。


「えっと……先生が、合図をくれたから……です」

「それも一因だ。だが、もっと重要なことがある」

 俺は、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。


「お前は、恐怖に支配されなかった。敵の動きではなく、俺の指示という『情報』に集中し、それを正確に実行した。つまり、感情ではなく、理性がお前の身体を動かしたんだ。それが最大の勝因だ」

 俺の言葉を、彼女は一つ一つ噛みしめるように聞いている。


「俺が壁となり、お前が剣となる。役割を理解し、互いを信頼し、手順通りに実行する。それができれば、俺たちは格上の相手とも渡り合える。……よくやったな、ルチア」


 最後に付け加えた労いの言葉に、彼女の強張っていた表情が、ふっと和らいだ。頬に、わずかに朱が差す。その小さな変化が、俺にとってはどんな戦果よりも価値のあるものに思えた。


 短い休息の後、俺たちは再び迷宮の探索を再開した。


 目的は、連携の精度を高めるための反復演習だ。一度の成功は、ただの偶然で終わらせてはならない。無意識に、呼吸をするように連携が機能するレベルまで、身体に叩き込む必要がある。


 二匹目のゴブリンと遭遇。


「右!」

 俺の指示が飛ぶ。ルチアは、前回よりもコンマ数秒早く、淀みない動きで指定された位置へ移動した。


 ゴブリンの攻撃をいなし、体勢が崩れる。


 カキン!

 合図と共に、寸分の遅れもなく光の矢が放たれる。それはまたしてもゴブリンの足元を照らし、完璧な隙を生み出した。俺はその隙を逃さず、的確に急所を貫く。


 戦闘時間は、明らかに短縮されていた。

 三匹目、四匹目と戦闘を重ねるにつれて、ルチアの動きはさらに洗練されていった。


 最初は恐怖に強張っていた彼女の表情から、次第に真剣な集中力が浮かび上がってくる。彼女はもう、ゴブリンの醜悪な姿を見てはいない。見ているのは、俺の背中、俺の剣筋、そして俺が作り出す「合図」の瞬間だけだ。


 恐怖を、信頼と目的意識が上回っていく。その確かな成長を、俺は自分のことのように誇らしく感じていた。


 そして、五匹目のゴブリンを危なげなく仕留めた時、俺は判断した。

 次のステップに進む時が来たと。


「ルチア、少し休憩を挟んで、次の授業を始める」

「次の、授業……ですか?」

「ああ。次の段階に進む。お前が本当の意味で強くなるための、本当の授業だ」


 俺の言葉に、彼女は不思議そうな顔をした。無理もない。こんな血生臭い迷宮の中で、授業もないだろう。

 俺たちは再び岩陰に腰を下ろし、息を整えた。


「いいか、ルチア。お前が今使っている『ライト』の魔法は、いわば『光』という一つの『単語』だ」

「たんご……」

「そうだ。単語だけでも、意味は通じる。今の連携のように、十分に武器になる。だが、もっと複雑な意思を伝え、より大きな力を発揮するためには、単語を組み合わせて『文章』を作る必要がある」


 俺は、彼女が理解しやすいように、身振り手振りを交えながら説明を続けた。

「これからお前に教えてもらうのは、攻撃魔法の初歩、『ファイアボール』だ」


 その名を聞いた瞬間、ルチアの顔が微かにこわばった。攻撃、という言葉が、彼女の古傷を刺激したのかもしれない。


 俺は、彼女の不安を払拭するように、ゆっくりと言葉を続けた。

「難しく考えるな。これも、文章を作るのと同じだ。『熱い』という形容詞と、『丸いもの』という名詞。この二つの単語を組み合わせて、『熱くて丸いもの』という一つの短い文章を組み立て魔力を集め放つ。それが、ファイアボールの正体だ」


 俺は、破壊や攻撃といった、彼女のトラウマに繋がりかねない言葉を意図的に避けた。これは、暴力ではない。あくまで知的な、言語的な構築作業なのだと、彼女の意識を誘導する。


「イメージしろ、ルチア。空気中には、目に見えないだけで、たくさんの『熱』の素が漂っている。それを、両手で優しく掬い上げるんだ。砂場で砂を集めるようにな」

 俺は自分の手のひらを、器のようにして見せた。


「集めた熱の素を、今度はこねて、形を整える。粘土でボールを作るのと同じだ。ただひたすらに、綺麗な球体になるように意識を集中させる。そして最後に、完成したボールを、目標に向かって『届けて』やる。投げるんじゃない。そっと、押し出してやるんだ」


 破壊のイメージではなく、構築と送達のイメージ。制御不能な力の暴走ではなく、制御可能な技術。それこそが、彼女が過去を乗り越えるために必要な、新しい魔法の捉え方だった。


 ルチアは、目を閉じ、俺の言葉を反芻するように、小さく頷いた。彼女の前に、俺は自分の掌を差し出す。


「やってみろ。まずは、あの壁の黒い染みに、小さな温かいボールを『置く』ことからだ。攻撃するんじゃない。優しく、そっと届けるんだ」


 彼女は、おずおずと両手を前に出した。その小さな手のひらに、意識が集中していくのが分かる。周囲の空気が、僅かに揺らいだ。


 数秒の沈黙。彼女の額に、玉のような汗が浮かぶ。


 やがて、彼女の掌の上に、陽炎のようなものが揺らめき、そして、ピンポン玉ほどの大きさの、小さな火の玉が形作られた。


「……できた」

 驚きと喜びに、彼女の声が震える。


 火の玉は、頼りなく揺らめいていたが、確かにそこに存在していた。

「そうだ、その調子だ。慌てるな。ゆっくりと、それを黒い染みに」


 彼女は、こくりと頷き、その火の玉をそっと押し出した。火の玉は、ふわりと宙を漂い、黒い染みに触れたと思ったら静かに消えていった。じんわりとした、心地よい熱だけを残して。


 その瞬間、ルチアの中で、何かが確かな形を結んだのが分かった。今まで漠然としか感じられなかった魔力の流れが、一つの明確な「術式」として、彼女の魂に刻み込まれたのだ。


「……よし。授業は終わりだ。実戦に移る」

 俺たちは、再び立ち上がった。


 そして、遭遇した。今までのゴブリンよりも一回り体格が良く、目つきも鋭い。おそらく、この辺りの縄張りの主のような個体だろう。


「グルオオォォ!」

 咆哮と共に、そいつが突進してくる。


 俺は、これまでで最も強く、盾を構えた。

「ルチア! 授業の成果を見せてみろ!」


 背後で、彼女が深く息を吸う気配がした。恐怖はない。あるのは、一点の集中力だけだ。


 ゴブリンの棍棒が、盾に叩きつけられる。凄まじい衝撃が、腕から全身へと突き抜ける。歯を食いしばり、一歩も引かずに耐える。俺の仕事は、壁に徹すること。彼女のための、絶対的な時間を稼ぎ出すことだ。


「できる! お前なら!」

 俺の叫びが、最後の一押しとなった。


 ルチアの両手の前に、先ほどとは比べ物にならないほど大きく、そして安定した火の玉が形成されていく。それは、まるで小さな太陽のようだった。


 そして、放たれる。

 オレンジ色の軌跡を描き、火球はゴブリンへと吸い込まれるように直撃した。


 炸裂音はしない。ただ、ジュッ、という肉の焼ける音と共に、ゴブリンが短い悲鳴を上げた。胸部に直径三十センチほどの焦げ跡を作り、その場に崩れ落ちる。


 絶命したゴブリンが黒い霧に変わっていくのを、ルチアは呆然と見つめていた。

 初めて自分の意志で、自分の力で、敵の命を奪った。


 その事実が、彼女の小さな肩に重くのしかかっているようだった。

 俺が彼女の顔を覗き込むと、その翠色の瞳は大きく見開かれ、複雑な光を宿して揺れていた。


 驚き。

 自分の力への、戸惑い。


 そして、恐怖を乗り越え、新しい力を手に入れたことへの、確かな喜び。


 それら全てが入り混じった表情で、彼女はただ、自分の掌をじっと見つめていた。その手の中に、確かに宿った「攻撃」という名の、新しい可能性を確かめるように。

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