第17話 ルチア
果てしない道のりだ。
羊皮紙に記された「数千体」「数ヶ月」という数字は、ただの記号ではなく、俺の未来に重くのしかかる、具体的な時間の質量を伴っていた。
やるしかない。そう覚悟を決めたところで、この途方もない現実が変わるわけではない。
俺は、息苦しさを覚える部屋の空気に耐えきれず、当てもなく宿の外へと足を踏み出した。
街は、いつものように活気に満ちていたが、その喧騒は、まるで厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のように、俺の耳には届かなかった。
心は、静かな諦観に支配されていた。
ゴブリンを狩り、銅貨を数え、またゴブリンを狩る。その単調な反復作業を、これから何か月も、あるいは何年も続けなければならない。
その先に、本当に「帰還」というゴールはあるのだろうか。
そんな自問が、思考の沼のように、俺の足取りを重くする。
ぽつり、と額に冷たい雫が落ちてきた。
見上げると、いつの間にか灰色の雲が空を覆い、街に冷たい雨を降らせ始めていた。
人々が、足早に軒下へと駆け込んでいく。俺は、その流れから取り残されたように、ただ一人、雨に打たれながら立ち尽くしていた。
このまま、雨に溶けて消えてしまえたら、どれだけ楽だろうか。
そんな、らしくない感傷が頭をよぎった、その時だった。
雨宿りの場所を探して、ふと視線を向けた路地裏の暗がりに、人影がうずくまっているのが見えた。
まさか。
俺の脳裏に、以前見かけた、あの少女の姿が蘇る。
関わるべきではない。今の俺に、他人を気遣う余裕など、精神的にも、経済的にも、ひとかけらも残ってはいない。
俺は、一度は踵を返そうとした。
だが、できなかった。
まるで、見えざる力に導かれるように、俺の足は、その路地裏へと向かっていた。
そこにいたのは、やはり、あの少女だった。
だが、以前見かけた時よりも、明らかに衰弱している。雨に濡れたぼろ布をまとった身体は、人形のようにぐったりと地面に横たわり、動く気配もない。
死んでいるのか?
俺は、思わず駆け寄り、その小さな身体の前に膝をついた。
かろうじて、浅く不規則な呼吸が続いている。だが、それも、今にも消えてしまいそうなほどに弱々しい。
俺は、生存を確認するため、そっとその額に手を触れた。
冷たい。だが、それだけではなかった。
――ぴりり。
指先に、まるで微弱な静電気が走ったかのような、かすかな刺激。
なんだ、これは。
俺は、その正体不明のエネルギーの感触に、眉をひそめた。
そして、次の瞬間。
俺の脳裏に、あの忌々しい記憶が、鮮烈なまでにフラッシュバックした。
二階層の暗闇。半透明の亡霊。そして、俺の生命力と精神を、芯から凍えさせた、あの得体の知れない攻撃。
そうだ、これだ。
今、この少女から感じ取った微弱なエネルギーは、俺を完膚なきまでに叩きのめした、あの「レイス」が放っていた精神攻撃のエネルギーと、その「質」が、完全に同じものだった。
――魔力。
この少女、魔法の素養があるのか……!
その気づきは、諦観という名の分厚い氷に閉ざされていた俺の思考を、内側から爆破する、強烈な起爆剤となった。
俺の頭脳が、教師としての、分析者としてのそれへと瞬時に切り替わり、猛烈な速度で回転を始める。
現状の問題点。
第一に、物理攻撃が通用しないレイスの存在。
第二に、ソロでは攻略不可能なオークの壁。
第三に、それらを克服するために必要な、途方もないレベル上げと資金稼ぎの時間。
俺は、ゴブリンを狩り続けるという、戦略的な行き詰まりに陥っていた。
だが、もし。
もし、この少女が「魔法」という、物理法則とは異なるルールで動く力を使えるとしたら?
レイスの霊体を、その魔力で霧散させることができるのではないか。
オークの分厚い脂肪を、物理的な防御を無視する魔法で貫けるのではないか。
そうなれば、俺が費やすはずだった、あの絶望的なまでの「時間」を、大幅に短縮できる可能性がある。
この少女は、俺が直面している全ての課題を、たった一人で覆しうる、唯一無二の「解」かもしれない。
これは、感傷ではない。同情でもない。
この少女を保護することは、俺がこの世界で生き残り、そして故郷へ帰るための、最も合理的で、最も効率的な「投資」なのだ。
俺の行動に、もはや一切の迷いはなかった。
俺は、少女の軽い身体を慎重に抱き上げると、雨の中を、確かな足取りで宿へと引き返した。
部屋に着くと、俺は手早く少女を介抱した。
濡れた身体を乾いた布で拭い、毛布でくるみ、宿の主人に頼んで分けてもらった温かいスープを、スプーンで少しずつ口へと運んでやる。
しばらくして、少女はゆっくりと意識を取り戻した。
その瞳には、深い警戒心と、怯えの色が浮かんでいた。
厄介なことになったな、と俺は内心で呟いた。
このまま、名前も何もわからない身元不明の少女を部屋に置いておくわけにはいかない。宿の主人に、どう説明したものか。
問い詰められれば、面倒なことになるのは火を見るより明らかだ。
「……名前は?」
俺が尋ねると、少女は力なく首を振った。
ないのか? 捨てたのか?
俺は、あくまで事務的に、合理的な判断としての一つの提案をすることにした。
「名前がないと、何かと不便だろう。俺が宿の主人に説明するにしても、呼び名が必要だ」
俺は、一呼吸置いた。
「ルチア、というのはどうだ。とりあえずの、仮の名前だ」
なぜ、その名を選んだのか。
俺自身にも、はっきりとはわからなかった。
ただ、この膠着しきった俺の状況を、そして、この絶望的な世界そのものを、この子の持つ未知の力が、一筋の「|光|≪ルチア≫」となって照らしてくれるかもしれない。
そんな、計算ずくの期待があったのは、確かだ。
それは、俺の冷静な判断と、捨てきれない俺の甘さが両立した、ぎこちないながらも、誠実な申し出のつもりだった。
ルチアは、驚いたように、大きく目を見開いた。
その唇が、かすかに震える。
「……るちあ」
彼女は、まるで失っていた何かを取り戻すかのように、その響きを、ゆっくりと、そして確かめるように反芻した。
そして、今まで俺から決して逸らそうとしなかった警戒心に満ちた視線を、一度だけ床に落とし、再び、ゆっくりと俺の顔へと戻した。
その瞳に、初めて、ほんのわずかな変化が生まれた。
それは、凍てついた大地から、ようやく顔を覗かせた若葉のような、小さな、小さな光だった。
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