第15話 分析と再評価

 オークに叩きつけられた背中が、鈍い痛みを訴え続けていた。


 一歩進むごとに、全身の骨が軋むようだ。だが、俺の意識は、その肉体的な苦痛よりも、はるかに明確な知的渇望に支配されていた。


 なぜ、セオリーは通用しなかったのか。

 その「なぜ」を解き明かすことだけが、今の俺を突き動かす唯一の燃料だった。


 二度目となる資料室の扉は、簡単に開いた。

 埃っぽい空気も、乱雑に積まれた羊皮紙の山も、今は思考を妨げるノイズにはならない。


 前回とは、目的意識の解像度が違う。

 漠然と「レイス」の情報を探していた時とは違うのだ。


 俺の頭の中には、明確な問いが設定されていた。

「三階層のオークを、安全に、かつ効率的に討伐するための、前提条件は何か?」


 この問いに対する答えを、この情報の海の中から探し出す。ただ、それだけだ。

 俺は、前回読んだベテラン冒険者の手記や、モンスター図鑑のような、いわば「概論書」には目もくれなかった。


 俺が必要としているのは、より専門的で、より実践的な、「各論」だ。


 俺は、書架の奥深く、ほとんどの冒険者が見向きもしないであろう一角へと向かった。そこには、古びた討伐日誌や、武具屋、道具屋がギルドに提出したであろう、業務報告書のようなものが無造作に積まれていた。


 一冊の、表紙が擦り切れた日誌を手に取る。

 文字は拙く、誤字も多い。だが、そこには、あるパーティーが三階層に挑んだ数日間の記録が、生々しく綴られていた。


 俺は、教師が答案を採点するように、その記述の中から必要な情報だけを、冷静に、かつ正確に抜き出していく。


『……三日目。斥候のアルフが先行し、オークを一体発見。遂に、初のオーク戦。こちらの平均レベルは5。作戦通り、戦士のゴードンが正面から引きつけ、俺と魔術師のリナが側面から攻撃を仕掛ける……』


 平均レベル、5。

 俺は、その数字を頭に刻み込む。


 別の討伐日誌を開く。そこにも、似たような記述があった。

『……斥候がレベル6に上がったことで、オークの群れを事前に察知できるようになった。これで、ようやく三階層での狩りも安定してきた……』


 やはり、そうか。


 俺は、いくつかの日誌を読み比べて、一つの結論に達した。

 三階層でオークと渡り合うための最低ラインは、パーティー平均でレベル5以上。それが、この世界の暗黙の了解なのだ。


 今の俺は、レベル3。単純計算で、戦力が足りていない。いくらステータス上昇が異常でも文字通りレベルが足りない。


 次に、俺は武具屋が提出したと思われる、羊皮紙の束に手を伸ばした。

 それは、武器の修理依頼に関する報告書だった。


『……三階層からの帰還者による、鉄製ロングソードの修理依頼が後を絶たない。特に、刀身の刃こぼれや、ひどい場合は折損するケースも散見される。オークの強靭な筋繊維と分厚い脂肪層は、並の鉄製武器の斬撃を容易に減衰させるものと推察される。三階層へ挑む冒険者には、鋼鉄製の武器、あるいは、戦鎚などの打撃系武器を強く推奨する……』


 鋼鉄の剣。戦鎚。

 俺の脳裏に、自分の鉄の剣が、まるでゴムの塊に吸い込まれたかのような、あの不快な感触が蘇る。


 原因は、明白だった。俺の武器では、そもそもオークに有効なダメージを与えることすら、できていなかったのだ。


 推奨レベル。有効な武器。

 パズルのピースが、一つ、また一つと埋まっていく。


 だが、まだだ。

 まだ、最も根本的な、決定的なピースが欠けている。


 俺は、今まで読んできた全ての日誌を、もう一度頭の中で反芻した。

 そして、ある共通点に気づき、はっと息を呑んだ。


『斥候のアルフが』

『戦士のゴードンが』

『俺と魔術師のリナが』


 どの記録も、主語は常に複数形だった。「俺たち」が、どう戦ったか。

 斥候が敵を発見し、戦士が壁となり、後衛が攻撃や支援を行う。


 役割分担。連携。

 そうだ、この世界のセオリーは、その全てが、暗黙の内に『パーティープレイ』を大前提として構築されているのだ。


 俺は、焦燥感に駆られて、書架を漁った。

「ソロ」で、単独でオークを討伐したという記録はないのか。


 しばらくして、俺は一冊だけ、それらしき記述を見つけ出した。

 それは、英雄譚として綴られた、一人の高名な冒険者の武勇伝だった。


『――人呼んで“竜殺し”のギデオン。当時、既にレベル25に達していた彼は、単身三階層へと赴き、十数体のオークを、まるで赤子の手をひねるように屠ったという……』


 レベル25。


 俺は、乾いた笑いを漏らすしかなかった。

 次元が、違いすぎる。


 ソロでオークを狩るというのは、そういうレベルの冒険者が行う「偉業」であって、俺のような新人が挑むべき領域では、断じてなかったのだ。


 俺は、セオリーを読んだのではない。

 ただ、その表面に書かれた文字を、なぞっていただけだった。その行間に隠された、最も重要な前提条件を、完全に見落としていたのだ。


 全ての答えが、出そろった。

 俺は、近くに落ちていた羊皮紙の切れ端と、燃えさしの炭を拾い上げた。


 そして、まるで黒板に板書するように、自分の現状を、そこへ書き出していった。

 思考を、整理し、客観視するためだ。


 問題点1:レベル不足

(現在Lv.3 / 推奨:パーティー平均Lv.5以上、ソロ討伐はLv.10以上が目安か)


 問題点2:装備不足

(現在:ボロボロな鉄の剣 / 推奨:鋼鉄製の剣、または戦鎚などの打撃系武器)


 問題点3:戦術的限界

(現在:ソロ / 推奨:斥候、戦士、後衛など役割分担されたパーティー)


 書き終えたリストを、俺はただじっと見つめた。

 そこには、言い訳の余地のない、冷徹な事実だけが並んでいた。


 今の俺は、レベルも、装備も、そして戦術も、全てが圧倒的に不足している。

 オークに敗けたのではない。


 三階層という「試験」の、受験資格すら、俺は有していなかったのだ。

 だが、不思議と、絶望はなかった。


 むしろ、逆だ。

 自分の現在地と、目的地までの距離、そして、そこに横たわる障害物の正体が、完全に明らかになった。


 やるべきことは、明確だ。

 俺は、そのリストを懐にしまうと、静かに資料室を後にした。

 その足取りには、もはや一切の迷いはなかった。

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