第4話 見知らぬ天井

 最初に感じたのは、身体の軽さだった。


 ここ数年、まるで肩に鉛の板が縫い付けられているかのように重く、鈍い痛みを伴っていた全身の倦怠感が、嘘のように消え去っている。昨夜までの、精神をすり減らすような疲労も感じられない。むしろ、十分すぎるほどの睡眠をとった後のような、奇妙な爽快感すらあった。


 ゆっくりと目を開ける。


 視界に飛び込んできたのは、見慣れた自宅の天井ではなかった。太く、黒光りする木製の梁が何本も渡され、その間は漆喰か何かで無骨に塗り固められている。


 俺は誰だ。秋山慧だ。昨夜は、学校で残業をしていたはずだ。そして、窓の外にありえない光景を――二つの月を――見て、意識を失った。


 そこまでの記憶をたぐり寄せ、俺は勢いよく体を起こした。


 ここは、どこだ。


 俺が寝かされていたのは、簡素だが頑丈そうな木製のベッドだった。掛けられている毛布は、少しごわごわしている。部屋を見渡せば、同じく木で作られたテーブルと椅子が一つずつ。壁には、油でも入れて使うのだろうか、ガラスのホヤがついた金属製のランプがかけられている。


 日本の規格ではない。自宅でも、ホテルでも、病院でもない。まるで、映画で見た中世ヨーロッパの宿屋の一室のような、生活感と異質さが同居した空間だった。


 誘拐か? しかし、手足に拘束具はなく、部屋の扉にも内側から開けられそうな簡素なかんぬきがかかっているだけだ。監禁されているにしては、あまりに不用心すぎる。


 俺はベッドから降り、慎重に窓へと近づいた。厚い木の窓枠に嵌められた、少し歪んだガラスの向こうから、柔らかな光が差し込んでいる。その光は、俺が知っている日本の朝日とは、どこか色合いが違っていた。白く澄んでいるというよりは、もっと金色が強く、空気に溶け込んでいる塵をきらきらと輝かせている。


 窓の外には、信じがたい光景が広がっていた。


 眼下には石畳の道が走り、その両脇には木と石を組み合わせた、見知らぬ様式の建物がずらりと並んでいる。道を行き交う人々は、革鎧のようなものを着込んだ男や、簡素なローブを羽織った女など、現代日本ではまずお目にかかれない服装をしていた。


 荷馬車を引く馬のいななき、威勢のいい男たちの怒鳴り声、どこかの店先から聞こえる金属を叩く音。全てが活気に満ちている。


 ここは、日本ではない。

 その事実が、否定しようのない現実として、俺の脳髄に叩きつけられた。


 どうしようもない焦燥感に駆られ、俺はスーツの内ポケットを探る。指先に、冷たく滑らかな感触があった。最後の希望。俺と元の世界を繋ぐ、唯一の糸。スマートフォンだ。


 電源ボタンを押すと、見慣れた待ち受け画面が点灯した。安堵したのは一瞬。画面の左上に表示されているのは、絶望的な「圏外」の二文字。電話も、インターネットも、ここでは何の役にも立たない。充電の残量もあと少ししかない。


 次に、時刻表示に目をやる。


 午前三時四十七分。


 俺が、学校の教室で意識を失ったのであろう、あの時刻のままで止まっていた。しかし、窓の外は活気に満ちた朝だ。この矛盾は、この機械がもはや時計としてすら機能していないことを示している。


 ただの、思い出が詰まった文鎮。


 画面には、数年前に家族旅行で撮った写真が映し出されていた。少し気まずそうに笑う俺と、その隣で穏やかに微笑む妻の理恵。そして、まだあどけなさが残る、小学生の頃の娘・美千花。


 この繋がりが、今、完全に断たれた。


 持ち家がある。三十五年ローンも、まだ半分以上残っている。帰らなければならない場所。帰りたいと願う家族。その全てから、俺は引き剥がされてしまったのだ。


 圧倒的な孤独感が、冷たい波のように足元から這い上がってくる。ここは、知り合いの一人もいない、異質な文化と法則で動く、未知の世界。四十を過ぎた中年男が、何の知識も技術もなく、一人で生きていける場所ではない。


 絶望に、思考が塗りつぶされそうになる。


 その時だった。


 窓の外から聞こえてくる喧騒の中に、はっきりとした「言葉」があることに気づいた。


「おい、聞いたか? 昨夜、ギルドの連中が西の森でワイバーンの雛を見つけたらしいぜ」

「本当かよ! そりゃ高く売れるぞ!」


 それは、日本語ではなかった。発音も、文法も、俺が知るどの言語とも違う。


 それなのに。


 まるで、長年使い慣れた母国語を聞いているかのように、その会話の意味が、完璧に、滑らかに、俺の脳に流れ込んでくるのだ。何の違和感もなく、思考の遅延もなく、ただ「理解」できてしまう。


 この現象は、なんだ。


 混乱する頭で、必死に思考を巡らせる。教室で見た、教科書の古代文字。廊下で聞こえた、獣の声。あれらは、疲労による幻覚ではなかった。この世界が、俺の日常を「侵食」していた、前兆だったのだ。


 そして、この言語を理解する能力。これは、この理不尽な状況に叩き込まれた俺に与えられた、唯一の力なのかもしれない。


 教師として、言葉を教えてきた俺が、言葉によって救われる。皮肉な話だった。だが、もしそうなら、これはこの未知の世界で生き抜くための、強力な武器になる。


 絶望の淵に、小さな希望の光が差し込んだ気がした。


 コンコン、と。


 不意に、部屋の扉が控えめにノックされた。俺は我に返り、スマートフォンをポケットにしまい込む。


「……どうぞ」


 ぎぃ、と軋む音を立てて扉が開かれ、恰幅のいい、人の良さそうな中年男性が顔を覗かせた。赤い鼻に、見事な口髭をたくわえている。


「おお、旦那、気がついたかい。昨日の夜、店の前で倒れてたから、うちの娘がびっくりしてな。大した怪我もなさそうで、何よりだ」


 男は、やはり俺の知らない言語で、にこやかに話しかけてくる。だが、その言葉は一つ一つ、明確な意味を持って俺の耳に届いた。


 俺は、この異常な状況にまだ戸惑いながらも、最も重要な問いを口にした。


「……すみません、助けていただいたようで、ありがとうございます。一つ、お聞きしたいのですが……ここは、どこなんでしょうか?」


 俺の質問に、男はきょとんとした顔で、数度まばたきをした。


「あんた、記憶でも混乱してるのかい? 無理もねえか。ま、しっかり飯食って休めば思い出すだろ」


 男はそう言って、豪快に笑った。


「ここは冒険者たちの夢と墓場、『迷宮都市アークライト』だよ」


 アークライト。


 その、聞き慣れない言葉の響きだけが、俺の頭の中に、いつまでも空虚にこだましていた。

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