第21話

◆視点:星野 命


大講堂の特設制御室で、天沢要が静かに宣言した。

「プロジェクト『ジェネシス』、第一次起動実験を開始する」

彼の指が端末の起動ボタンを押した瞬間、舞台袖にいた私の周りの空気が変わる。

どこからともなく、森の奥深くで夜明けを迎えるような澄み切った空気が流れ込んできた。

日野が作り出した、ただの音ではない。空間そのものを支配する音響だ。

耳には聞こえないはずの朝露の匂いや、土の湿り気まで感じられる気がした。


舞台の上では、鉄が作った二体のからくり人形が、村の少年と少女としてぎこちなく動き始めている。

そして私の脳裏には、風間が送り込んできたのだろう、平和だがどこか閉塞感のある村の風景が淡い映像として浮かび上がった。

すごい。

これが、私たちの創り出す世界。

観測室で語り合っただけの夢物語が、今、目の前で形になっている。


観客役として最前列に座っている詩織は、すでに物語の世界に完全に没入しているようだった。

彼女の隣では小鳥遊さんが連れてきた動物たちが静かに行儀よく舞台を見つめている。双葉さんの育てた植物たちも、まるで観客の一員であるかのように舞台の光に向かってわずかに葉を揺らしていた。


物語は進み、村の少女が賢者と冒険家、どちらと共に旅に出るかという最初の選択の時を迎えた。

舞台上のからくり人形の動きが止まる。

講堂の全ての照明が落ち、スポットライトだけが二つの分かれ道を示すように舞台の上を照らし出した。

制御室にいる要の端末に、詩織からの投票結果が届いたのだろう。

一瞬の静寂の後、舞台が再び動き出す。


『選択:冒険家と共に旅に出る』


その瞬間、日野の音響が穏やかな村の朝から、嵐の海を突き進む船のような勇壮で荒々しい音楽へと切り替わった。

風間の記憶投影が、まだ見ぬ広大な世界、切り立った崖や燃えるような夕焼けの砂漠といった刺激的なイメージを私の脳裏に次々と映し出す。

舞台上のからくり人形も、戸惑いながらも一歩を踏み出す冒険の始まりを見事に演じきっていた。


「……すごい」

舞台袖で、私は思わず声を漏らした。

「すごいじゃないか、みんな!」

私が振り返ると、舞台装置を操作していた月島や、音響を調整していた日野、記憶投影に集中していた風間たちが、一斉にこちらを見て安堵の表情を浮かべた。


「まあ、まだまだこんなもんじゃないけどね」

月島が自慢げに鼻を鳴らす。

「は、はい! もっと、もっとすごくなります!」

日野も興奮で顔を上気させていた。


リハーサルは順調に進んでいく。

詩織の選択によって物語は次々と姿を変え、その度に私たちのシステムは完璧に応答し、全く新しい世界を舞台の上に創り出していった。

これならいける。

橘の言う古臭い歴史と伝統なんて、私たちのこの革命的なエンターテイメントの前では霞んで見えるはずだ。


そう確信した、その時だった。

突然、講堂の全ての照明が激しく明滅を始めた。

日野が流していた勇壮な音楽が、不協和音のような耳障りなノイズに変わる。

舞台上のからくり人形も動きがおかしくなり、同じ場所をぐるぐると回り始めた。

「な、何だ!?」

私が叫ぶ。

舞台袖にいたメンバーたちも、突然の異常事態に混乱していた。


「システムに異常発生! 日野、音響を切れ!」

制御室から要の冷静だが緊迫した声がイヤホンを通して響いてきた。

「む、無理です、天沢さん! 操作が効きません!」

日野が悲鳴のような声を上げる。

「こっちの舞台装置もだ! 勝手に動き出したぞ!」

月島も、制御盤を前に叫んでいた。


「……来たか」

風間だけが、忌々しそうに舌打ちをしながら冷静だった。

「奴らの妨害工作だ」

橘征四郎。

彼がただ指をくわえて私たちの成功を見ているはずがない。

リハーサルの段階から、私たちのシステムを潰しに来たのだ。


「どうするんだ、命!」

詩織が、観客席から不安そうな顔でこちらを見ている。

舞台は完全に停止し、不気味なノイズと明滅する照明が講堂全体を不穏な空気で満たしていた。

このままではリハーサルは失敗に終わる。

いや、それ以上に私たちの計画そのものが根本から揺らいでしまう。


「……面白いじゃないか」

私はマイクを握りしめ、舞台の中央へと躍り出た。

「アドリブの時間だ!」

私は混沌の女王の役柄になりきり、高らかに宣言した。

「見よ、我が混沌の力を! この世界が私の誕生を祝福し、狂喜乱舞しているではないか!」

私は明滅する照明を自分が操っているかのように両腕を広げ、不協和音のノイズを世界の産声であるかのように全身で受け止めてみせた。


私の突然の行動に、舞台袖の仲間たちも、観客席の詩織も、そして制御室の要も、一瞬呆気にとられたようだった。

だが、すぐに彼らは私の意図を理解した。

これはトラブルじゃない。

私たちの物語の、新しい一ページだ。


「そうだ! 女王様の誕生だ!」

月島が即座に反応し、手元の制御盤を操作して暴走する舞台装置から虹色の煙を噴出させた。

それはまるで、混沌の女王の誕生を祝う魔法の煙のように見えた。

「女王様の産声だ! 全ての世界が今、生まれ変わる!」

日野も制御不能なノイズを逆手に取り、それをさらに増幅させて荘厳な儀式のような音響空間へと作り変えていく。

そして、風間。

彼は観客席にいる詩織の脳裏に、直接語りかけた。

『さあ、選べ。この混沌の女王の誕生を、祝福するか、それとも拒絶するか』


舞台の上で、私はただ不敵に笑い続けていた。

私たちの物語は、観客の選択だけじゃない。

予期せぬトラブルさえも、物語の一部に変えてしまう。

これこそが、私たちのプロジェクト『ジェネシス』の真の力だ。


◆視点:天沢 要


制御室のモニターが、無数の赤い警告で埋め尽くされていた。

橘征四郎。

奴の妨害工作は、俺の予測を遥かに超えて巧妙かつ執拗だった。

彼は俺がシステムの裏口から侵入したことを逆手に取り、その裏口を罠として利用したのだ。

俺が構築した『ジェネシス』のシステムと、学園のメインシステムを繋ぐ細い経路。

彼はその経路に、強力な汚染データを流し込んできた。


それは、システムの制御を直接奪うような単純な攻撃ではない。

全ての命令系統に、ごくわずかな遅延と誤作動を引き起こさせる悪質なウイルスのようなものだった。

日野の音響、月島の舞台装置、風間の記憶投影。

それら全てが、ほんの少しずつ設計図からずれていく。

その小さなずれが積み重なり、やがてシステム全体の調和を崩壊させる。

まさに、秩序を重んじる彼らしい陰湿で計算され尽くした攻撃だった。


「くそっ……!」

俺はキーボードを叩きながら、悪態をついた。

汚染データを完全に駆除するには、一度システムを停止させるしかない。

だが、そんなことをすればリハーサルは完全に中断し、俺たちの敗北を意味する。

ならば、方法は一つ。

この汚染されたデータごと、システムを制御し続けるしかない。

暴れ馬を、力ずくで乗りこなすのだ。


俺は思考のギアを一段階上げた。

橘が送り込んでくる汚染データのパターンをリアルタイムで解析し、そのデータが引き起こすであろう誤作動をコンマ数秒単位で予測する。

そして、その誤作動を相殺するための逆の命令をシステムに送り込み続ける。

日野の音響が0.1秒早く鳴りそうなら、俺は0.1秒遅らせる命令を送る。

月島の装置が5度左にずれそうなら、俺は5度右にずらす命令を送る。

それはもはや、人間の思考速度を超えた領域での戦いだった。


モニターの中では、星野が舞台の上で圧倒的な存在感を放ち、このシステムトラブルを演出の一部へと昇華させている。

彼女が、時間を稼いでくれている。

その間に、俺はこの盤上のチェスに勝利しなければならない。

だが、橘もまた俺の対応を読んでさらに攻撃のパターンを複雑化させてくる。

まるで、俺の思考を先読みしているかのようだ。

違う。

こいつは、俺の思考を読んでいるんじゃない。

俺が最も大切にしてきた『論理』と『秩序』、そのものの思考を読んでいるんだ。

俺がシステムを安定させるために最も合理的で効率的な手を打とうとすればするほど、彼はその合理性の裏をかくような非合理的な攻撃を混ぜてくる。


俺は、追い詰められていた。

額から冷たい汗が流れる。

このままではジリ貧だ。

俺の思考が、俺自身の得意としてきた論理性に縛られている。

その時だった。

イヤホンから、星野の楽しそうな声が聞こえてきた。

「どうした、参謀! 守ってばかりじゃつまらないだろう! もっと派手に、めちゃくちゃにやってやれよ!」


めちゃくちゃに?

馬鹿を言え。今、俺はこの崩壊しかけた秩序を必死に守っているというのに。

だが、彼女のその一言が、俺の頭の中にあった分厚い壁を破壊した。

そうだ。

なぜ、俺は橘が作った土俵の上で律儀に戦っている?

なぜ、俺はこのシステムを『正常な状態』に戻そうと必死になっている?

正常である必要など、ない。

俺たちの創り出す世界は、そもそもが混沌なのだから。


俺は、笑った。

そして、これまでとは全く違う種類の命令をシステムに打ち込み始めた。

守らない。

安定させない。

むしろ、この汚染データを利用して、さらにシステムを『暴走』させる。

俺は日野の音響システムに入り込んだノイズを、除去するのではなく美しい旋律へと変換する命令を送った。

不協和音は、荘厳なコーラスへと変わる。

俺は月島の舞台装置の誤作動を、止めるのではなくその動きを予測不能な美しいダンスへと作り変える命令を送った。

暴走する機械は、生命を宿したかのように舞い始める。

そして、俺は風間の記憶投影システムに、これまでとは全く違う指示を出した。

『観客の脳裏に、このシステムの内部、俺と橘の盤上の戦いのイメージを、抽象的な光の戦いとして投影しろ』と。


観客席の詩織が「わっ」と声を上げるのが見えた。

彼女の脳裏には今、白銀の光と漆黒の光が目まぐるしくぶつかり合う、美しい映像が流れているはずだ。

「どうだ、橘征四郎」

俺は、誰に言うでもなく呟いた。

「これが、俺たちのやり方だ。お前の秩序ごと、俺たちの混沌は飲み込んでやる」


システムはもはや俺の、そして橘の制御すらも離れ、一つの巨大な生命体のように自律的に美しい混沌を生み出し始めた。

舞台の上では、星野がその混沌の全てを支配する真の女王として君臨していた。

彼女は即興の歌を歌い始める。

それは、どんな楽譜にも書かれていない、その場で生まれた魂の歌だった。

リハーサルは、俺たちの誰一人として想像していなかった神話のような領域へと突入していく。

これはもはや演劇ではない。

一つの世界の、創生と破壊の物語そのものだ。

俺は、制御室でその光景を見ながら、静かにキーボードを叩き続けた。

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