第20話

◆視点:星野 命


星創祭の本番まであと数日。

私たちのプロジェクト『ジェネシス』の準備は佳境に入っていた。

観測室はもはや革命軍の秘密基地のような熱気に包まれている。


壁には要が書きなぐったシステムの設計図。

床には月島が開発した不思議な輝きを放つ小道具の数々。

天井からは日野が調整している無数の小型スピーカー。

そして部屋の隅では詩織が新しい仲間たちと共に、分岐する物語の膨大な台詞を必死に書き出している。


学園中が私たちの出し物の噂で持ちきりだった。

『新生評議会の連中が何やらとんでもないことをやろうとしているらしい』

『観客が結末を選べる演劇だって?』

『失敗するに決まってる』

『いや、もしかしたら歴史が変わる瞬間を見られるかもしれない』

期待と不安と好奇心が入り混じった巨大なうねり。

その中心に私たちがいる。

最高に気分が良かった。


そんなある日の午後。

私たちが本番で使う予定の大講堂でリハーサルを行っていると、その男は現れた。

講堂の一番後ろの席。そこに橘征四郎が一人、腕を組んで座っていた。

いつからそこにいたのか。誰も気づかなかった。

彼は私たちの荒削りなリハーサルの一部始終を、静かに見ていたようだった。

私たちがその存在に気づいて動きを止めると、彼はゆっくりと立ち上がった。

そして舞台の上で呆然と立ち尽くす私たちを見下ろし、静かに口を開いた。


「……なるほど。これが君たちの言う『新しい世界』か」

彼の声はマイクも使っていないのに、講堂の隅々までよく響いた。

「奇抜で刺激的だ。観客を巻き込むという発想も面白い。だが」

彼は一歩前に踏み出した。

「そこには何の指針もない。ただの刹那的な興奮だけだ。そんな中身のないお遊びで、生徒たちの未来を導くことなどできはしない」


「あんたたちの言う『指針』は、ただの押し付けだろ」

私が言い返すと、彼は静かに首を横に振った。

「押し付けではない。道標だ。我々がこれから見せる舞台は、君たちのような奇をてらった仕掛けなど一切ない。ただひたすらに我々が信じる美しさを追求した、王道の物語だ」


「王道、ねえ。古臭くて退屈なだけの間違いじゃないのか?」

私の挑発的な言葉にも彼は動じなかった。

「君にはそう見えるのかもしれんな。だが我々は、この学園の『歴史』と『伝統』の重みを見せる。星命図という偉大な道標を与えられ、悩み、苦しみ、それでも自分の運命を受け入れ、輝かしい未来を勝ち取っていった偉大な先人たちの魂の物語を。観客は知るだろう。真の感動とは小手先の仕掛けから生まれるのではなく、人間の崇高な精神から生まれるのだと」


彼の言葉には揺るぎない自信と、そして旧体制の守護者としての誇りが宿っていた。

こいつは本気だ。

本気で自分たちの正義が勝つと信じている。


「新生星創祭、本番の舞台ではっきりさせようじゃないか。星野命。君たちのその軽薄なお祭りと、我々のその荘厳な儀式。どちらが真に生徒たちの心を掴むのかを」

そう言うと、橘は私たちに背を向けた。

彼が去った後も講堂は静まり返っていた。

メンバーたちの顔に緊張の色が浮かんでいる。

橘の圧倒的な存在感と、彼の言葉の重みに当てられてしまったのだろう。


だが私は、むしろ笑いがこみ上げてくるのを止められなかった。

「……は、ははは! 面白くなってきたじゃないか!」

私が大声で笑うと、みんなが驚いたようにこちらを見た。

「何びびってるんだよ、みんな! あのお固い生徒会長様がわざわざ私たちのために最高の舞台装置を用意してくれたんだぞ! 受けて立ってやろうじゃないか、歴史と伝統の重みとやらを! そして私たちの新しい時代の熱狂で、そんなもの木っ端微塵に吹き飛ばしてやるんだ!」

私の言葉に、メンバーたちの顔に再び闘志の炎が灯った。

そうだ。これでこそ面白くなってきた。


◆視点:天沢 要


橘征四郎が去った後も、俺は舞台の上で展開された彼と星野のやり取りを冷静に分析していた。

橘の言うことにも一理ある。

いや、論理的に考えれば彼の主張の方が正しいとさえ言えるかもしれない。

俺たちがやろうとしているプロジェクト『ジェネシス』は、あまりにも革新的で刺激が強すぎる。

一過性の熱狂で終わり、観客の心に何も残らないという可能性も否定できない。


観客の心により深く長く残る何か。

ただ面白いだけではない。

観劇の後、観客が自分の未来について考え始めるようなきっかけ。

それが必要だ。


俺は観測室に戻ると再び白板の前に立った。

そしてプロジェクト『ジェネシス』の設計図に、最後にして最も重要な一つの機能を書き加えた。


「……要? 何をしているんだ?」

俺のただならぬ気配を察して、星野が後ろから声をかけてきた。

「……システムの最終調整だ」

俺は振り返り、彼女に、そして集まってきた他のメンバーたちに説明を始めた。

「このプロジェクト『ジェネシス』は、演劇が終わっただけでは終わらない。本当の物語はそこから始まる」


「どういうこと?」

詩織が不思議そうに首を傾げる。

「演劇が終わった後、観客一人ひとりの端末に一通のショートストーリーが送られる。それはその人が劇中で選択したルートに基づいて自動生成された、その人だけのオリジナルの『未来の可能性の物語』だ」

俺の言葉に、その場にいた全員が息を飲んだ。


「例えば『秩序の王』を支持する選択を多くした観客には、『あなたは安定した世界の中で着実に評価を高めていくでしょう。あなたの誠実な働きぶりはやがて多くの人々の信頼を勝ち取り、あなたは大きな組織のリーダーとなるかもしれません』……といった物語が」

「逆に『混沌の女王』を支持した観客には、『あなたの前には予測不能な冒険が待っています。あなたは何度も失敗し道に迷うでしょう。しかしその旅の果てに、あなたは誰にも真似できないあなただけの宝物を見つけるはずです』……といった物語が送られる」


これは単なるおまけの機能ではない。

観客が劇中で無意識に下した選択を、改めて物語という形で可視化する。

そして自分は本当はどんな未来を望んでいるのか。

自分の価値観と深く向き合うきっかけを与えるための仕組みだ。

私たちのエンターテイメントを、観客一人ひとりの『未来創造』へと繋げるための最後の仕掛けだった。


「……すごい」

日野がうっとりとしたような声で呟いた。

「そんなことまで考えていたのか、天沢……。あんた、やっぱりとんでもない奴だな」

風間が呆れたような、しかしどこか感心したような声で言った。


「だが、要」

星野が真剣な表情で口を開いた。

「そんな膨大な数の物語、どうやって用意するんだ? 自動生成って言ったって、ただの機械が作った味気ない文章じゃ人の心は動かせないぞ」


「……その通りだ」

俺は頷いた。

そしてこの最後のピースを埋めることができる唯一の人物へと視線を向けた。

「……鈴原。君の力が必要だ」


「え……? わ、私?」

俺に真正面から向き合われ、詩織は狼狽えている。

「そうだ。俺が作ったこの物語生成の骨組みに、君の魂を吹き込んでほしい。君の『物語の紡ぎ手』としての優しさと温かさで、何千通りにも及ぶ物語のパターンに命を与えてくれ。君にしかできない仕事だ」


俺の真剣な言葉に、詩織はしばらく戸惑っていた。

だがやがて彼女は、自分の目の前に差し出されたそのあまりにも大きく重要な役割の意味を理解したようだった。

彼女は俯いていた顔をゆっくりと上げた。

その瞳にはもう迷いの色はなかった。


「……わかったわ、天沢くん。私、やる。やってみせる」

彼女は強く頷いた。

自分の力がこの革命の最後の、そして最も重要な核となることを知り、彼女は一人の『物語の紡ぎ手』として覚悟を決めたのだ。


その日から詩織は、まるで何かに取り憑かれたかのように物語を紡ぎ始めた。

寝る間も惜しんで。

観測室の机の上には、彼女が書き上げた物語の断片が山のように積み上がっていく。

月島は彼女のために、飲まず食わずでも集中力が続く特殊な栄養ドリンクを開発した。

日野は彼女が最もリラックスして物語を書けるという、森のせせらぎの音を一日中観測室に流し続けた。

風間は黙って彼女の肩を揉んでいた。

そして星野は。

彼女はただ詩織の隣に座り、時々「面白い!」「最高だ!」と声をかけながら、彼女が紡ぎ出す全ての物語を世界で最初の読者として楽しんでいた。


私たちのチームは完全に一つになっていた。

そしてついに、星創祭の前日がやってきた。

大講堂では最後の通しリハーサルが行われようとしていた。


全ての準備は整った。

舞台装置も音響も映像も、そして俺が作り上げた巨大なシステムも完璧だ。

俺は講堂の最後列に作られた特設の制御室で、無数のモニターを見つめていた。

舞台の中央には混沌の女王の衣装を身に纏った、星野命が立っている。

彼女がスポットライトを浴び、大きく息を吸い込むのが見えた。

観客席には私たちの仲間たちが固唾を飲んで彼女を見守っている。


俺はメインシステムの起動スイッチに手を伸ばした。

いよいよ始まる。

俺たちの全てを懸けた、新しい世界の創造が。

モニターの中で、星野がゆっくりと口を開く。

彼女の最初のセリフが、世界に放たれようとしていた。

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