第2話
◆視点:星野 命
『古代紋様学』の初授業は、波乱の幕開けとなった。私が聴講生として席に着いたことで、教室内の空気はどこか張り詰めたままだった。特に、最前列に座る天沢要から突き刺さるような視線を感じる。面白い。その完璧な仮面を、いつまで保っていられるか見ものだ。
老教官は、私の存在など意に介さない様子で、淡々と授業を進めていく。内容は、予想通りちんぷんかんぷんだった。古代文明の系統樹、紋様の構造分析、力の流れの位相幾何学。他の生徒たちは、必死にメモを取っているが、私には異国の呪文にしか聞こえない。
だが、それでいい。私は知識を求めてここに来たわけではない。この学園のシステム、その根幹に触れるために来たのだ。
授業の終わりに、教官は一枚の石板の複製画を全員に配布した。そこには、複雑に絡み合った茨のような紋様が描かれている。
「次の授業までの課題だ。この『束縛の茨』と対になる紋様を、学園の資料の中から探し出し、その二つの関係性について考察を述べよ」
対になる紋様。ヒントは一切なし。まさに、才能がなければ手も足も出ない課題だ。周囲の生徒たちがざわめき、絶望的な表情を浮かべる中、私は配られた複製画をじっと見つめた。
茨の中心に、小さな空白がある。まるで、何かをはめ込むのを待っているかのように。これと対になるもの。知識ではわからない。だが、私の直感が告げていた。答えは、普通の場所にはない、と。
「詩織、行くぞ」
授業が終わるや否や、私は隣の席で頭を抱えている詩織の腕を掴んだ。
「え、ええ? どこに行くの、命ちゃん?」
「決まっているだろう。図書館だ」
「図書館って……。こんな膨大な資料の中から、どうやって見つけるのよ……」
詩織は半泣きだ。彼女の『物語の紡ぎ手』という才能は、既存の物語を読み解く力はあるが、ゼロから何かを探し出すのは苦手なのだろう。
「普通の書架にはない。もっと奥だ」
私は詩織を引きずるようにして、学園の巨大な図書館へと向かった。吹き抜けの天井まで届く本棚が、迷路のように立ち並んでいる。ここにある蔵書の数は、百万を超えるという。
通常の課題であれば、司書に申請し、関連資料を検索してもらうのが筋だ。だが、私の求める答えは、そんな表層的な場所にはない。
「ここだ」
私が足を止めたのは、図書館の最も奥まった場所にある、重厚な鉄の扉の前だった。『禁書庫』と刻まれたプレートが、鈍い光を放っている。
「き、禁書庫!? だめに決まってるよ、命ちゃん! ここは、特別な許可がないと入れない場所だよ!」
詩織が顔を真っ青にして私の腕を引っ張る。
「だからいいんだろう。特別な場所には、特別なものが眠っている」
「規則違反だよ! 退学になっちゃうかもしれないんだよ!」
「退学になるかならないかは、見つかるか見つからないかで決まる。見つからなければ、違反にはならない」
私の無茶苦茶な理論に、詩織はついに泣きそうな顔になった。
「そんな……!」
「大丈夫だ。私に策がある」
私は自信満々に胸を叩いた。もちろん、具体的な策など何もない。いつものことだ。行動を起こせば、道は開ける。
まずは、この扉をどう開けるか。最新の認証システムが導入されており、指紋、声紋、そして星命図の情報を照合するらしい。真正面からの突破は不可能だ。
私は扉の周りをうろうろし、何か手がかりがないか探した。すると、扉の少し離れた壁際に、小さな通気口があるのを見つけた。大人一人がギリギリ通れるかどうか、といった大きさだ。
「詩織、あれを外すぞ」
「む、無理だよ! あんなの、どうやって……」
「お前の星命図の力を使え。『物語の紡ぎ手』は、物の構造を分解し、再構築することも得意なはずだ。この通気口の格子を『分解』しろ」
「そ、そんなこと、したことないよ!」
「今、やればいい。初めては誰にでもあるものだ」
私は詩織の背中を押し、通気口の前まで連れて行く。彼女はぶるぶると震えながらも、恐る恐る格子に手を触れた。
「……イメージするんだ。ネジが緩み、金属の結合が解けていく物語を」
詩織がごくりと唾を飲み込み、目を閉じて集中する。すると、キィ、という小さな音がして、頑丈に見えた格子が、あっけなく壁から外れた。
「で、できた……」
詩織自身が一番驚いているようだった。
「やるじゃないか。さあ、行くぞ」
私が先に、狭い通気口へと体をねじ込んだ。中はひんやりとしていて、埃っぽい匂いがする。詩織も、おずおずと後から続いてきた。
暗いダクトの中を、手探りで進んでいく。しばらく進むと、下の方から光が漏れている場所に出た。禁書庫の内部に通じる格子のようだ。
「よし、ここから降りるぞ」
私が格子を外し、下の様子をうかがった、その時だった。
「――そこで何をしている」
氷のように冷たい声が、下から響いた。見下ろすと、そこには天沢要が立っていた。片手には、正規の許可証らしきものを持ち、呆れたような、軽蔑するような目で、こちらを見上げている。
しまった、鉢合わせか。
「見ての通りだ。近道をしていた」
私は悪びれずに答えた。
「近道? それは、一般的に不法侵入という。星野命、君の行動は常に私の予測の斜め上を行くな。もはや、バグというより災害に近い」
「最高の褒め言葉だ。ありがとう」
私はひらりと床に飛び降りた。詩織も、小さな悲鳴を上げながら、後から降りてくる。
「鈴原まで。君は常識のある人間だと思っていたが」
要の冷たい視線が詩織に突き刺さり、彼女は蛇に睨まれた蛙のように固まってしまった。
「詩織は関係ない。私が無理やり連れてきた」
私が庇うと、要はふん、と鼻を鳴らした。
「どちらにせよ、同罪だ。今すぐここから立ち去り、教官に報告しろ。そうすれば、退学だけは免れるかもしれない」
「断る。私には、ここで探さなければならないものがある」
「課題のことか。君のような知識のない人間に、禁書庫の資料を読み解けるはずがない。無駄な足掻きはよせ」
彼の言葉は、どこまでも正論だった。だが、私の心には少しも響かない。
「知識がないから、ここに来たんだろう。あんたみたいに頭でっかちな優等生には見つけられないものが、私には見える」
「……面白い。そこまで言うなら、見せてもらおうか。君のその根拠のない自信が、何を生み出すのかを」
意外にも、要はそれ以上私たちを追い出そうとはしなかった。むしろ、面白がるような光を瞳に宿して、腕を組んでいる。
「ただし、条件がある。もし君が、一時間以内に『束縛の茨』と対になる紋様を見つけられなかった場合、潔く罪を認め、私の指示に全面的に従ってもらう。どうだ?」
「いいだろう。だが、もし私が見つけたら?」
「その時は、今回の件は見逃してやる。そして、君の存在を、単なるバグではない、観測すべき対象として認めよう」
「望むところだ」
私は不敵に笑い、禁書庫の奥へと足を踏み入れた。
◆視点:天沢 要
星野命という存在は、俺の理解の範疇を完全に超えていた。
正規の許可を取り、禁書庫へと足を踏み入れた俺が目にしたのは、通気口から現れる彼女たちの姿だった。常識では考えられない。規則は、彼女の前では何の意味もなさないかのようだ。
俺は、彼女を排除すべきバグだと認識していた。秩序を乱す異物。だが、同時に、得体の知れない存在への興味が湧き上がってくるのも事実だった。
『始まりの渦』の本質を看破した、あの直感。あれは、まぐれではなかったのではないか。だとしたら、彼女のその力は、この禁書庫で何を見つけ出すのだろうか。
俺は、自分でもらしくないとは思いながら、彼女に賭けてみることにした。俺の論理と知識、そして彼女の正体不明の直感。どちらが先に答えに辿り着くか。
星野命は、膨大な書物が並ぶ棚には目もくれず、まっすぐに禁書庫の中央へと進んでいく。まるで、最初から目的地が決まっているかのように。鈴原は、不安そうに彼女の後をついて行っている。
禁書庫の中央には、巨大な球体の装置が置かれていた。占星盤の、初期モデルの一つだ。今はもう使われていない、歴史的な遺物。
「これだ」
星野は、確信に満ちた声で言った。
「何がだ。これは、ただの古い装置に過ぎない」
「いや。この中に、何かがある」
彼女はそう言うと、装置の表面に手を当て、目を閉じた。何をしようとしているのか、全く理解できない。
「……鈴原、手伝え」
しばらくして、彼女は鈴原に声をかけた。
「この装置が作られた時の物語を、読み取ってくれ。設計者が、どんな思いでこれを作ったのかを」
「む、無理だよ、こんな大きなもの……!」
「できる。お前ならできる」
星野の言葉には、不思議な力があった。鈴原は、おずおずと装置に手を触れる。彼女の瞳が、かすかに光を帯びたように見えた。
「……見える。たくさんの人の、想い。未来を、知りたい。道を、示したい。でも……怖い。未来を縛ってしまうのが……」
鈴原の口から、途切れ途切れに言葉が紡がれる。
「そうだ。だから、設計者は『鍵』を残した。決められた運命を、書き換えるための鍵を」
星野が、鈴原の言葉を引き継いだ。そして、装置のある一点を、強く指で押した。
カチリ、と小さな音がして、球体の表面の一部がスライドした。中には、小さな空洞があり、そこに一枚の古びた羊皮紙が収められていた。
羊皮紙には、一つの紋様が描かれていた。それは、中心から外へと、無限に広がっていくかのような、柔らかな光を放つ花の紋様だった。
「『解放の花』……」
鈴原が、震える声で呟いた。
「これだ。『束縛の茨』と対になる紋様」
星野が、羊皮紙を手に取り、勝利を宣言した。
信じられない光景だった。俺が、これから何日もかけて文献を漁り、論理的に答えを導き出そうとしていたものを、彼女は、わずか数十分で、直感だけを頼りに見つけ出してしまった。
これが、星野命。これが、『白紙』の星命図を持つ者の力だというのか。
俺は、初めて心の底から戦慄を覚えた。彼女は、俺が信じてきた秩序も、論理も、完璧な未来予測すらも、根底から覆しかねない存在だ。
「どうだ、天沢要。約束通り、私の勝ちだな」
得意げに笑う彼女を前に、俺は言葉を失っていた。
「……ああ。君の勝ちだ」
絞り出すようにそう答えるのが、精一杯だった。
この瞬間、俺の中で、何かが決定的に変わった。星野命は、もはや単なるバグではない。俺の未来にとって、最大の変数。そして、おそらくは――。
俺が倒すべき、真のライバルだ。
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