十七年目の散歩道

39ra

笑顔だったあの頃

 玄関のドアを開けると、夕方の匂いが流れ込んできた。洗い立てのシャツの湿り気と、どこかの家の煮物の甘い香り、遠くで雨上がりの土が息をする匂い。

 リードを見せると、彼は耳を少しだけ持ち上げた。もう跳ねはしない。それでも、立ち上がるときの、前足に力を集めるあの癖は変わらない。


 廊下の床板に爪が触れて、控えめな音が続く。

 首輪の名札は真ちゅうが擦れて角が丸くなり、文字は半分ほど薄れていた。私の手に馴染んだリードの革は、17年という時間を吸いこんで柔らかい。


 外は、季節の境目のような空だ。西の端にだけ残った橙色が、家々の屋根をかすかに照らし、東のほうはすでに藍の気配を帯びている。

 歩き出す。影が二つ、私と彼の前へ伸び、やがて舗道の凹凸に砕けて消えた。


 最初の角を曲がると、古いパン屋の前に出る。

 夕方はいつも、店の奥で食パンが一本だけ焼き上がる時間だ。ガラス越しに見えるオーブンの灯りは小さな夕陽みたいで、香りが風に混ざる。

 若い頃の彼は、ここでいつもパンの耳をもらった。店主が笑って紙袋に入れ、私に「塩分は控えめなやつな」とウインクした。

 今日は素通りする。彼はガラスを一度見ただけで、前へ進んだ。歩幅は小さく、でも、まっすぐだ。


 川沿いに出ると、欄干の低い橋が見えた。

 初めての散歩の日、ここで彼は思い切り走った。小石につまずいて転んだとき、泥まみれの顔でこちらを振り向いて、尻尾だけで「もう1回」と言った。

 あの頃の私には、時間が無尽蔵にあるように感じられた。走るたび、彼の胸の中で心臓が跳ねる音が手のひらに伝わり、そのたびに、世界が大きくなる気がした。


 橋の欄干に手を置く。冷たさが指先に沁みる。

 彼は水面を覗き込むように立ち、鼻先をわずかに下げた。流れていくものを目で追う。葉、紙切れ、光。

 幼い頃は、この光を追って川へ飛び込みそうになったことがあった。私が慌てて抱き上げると、彼は濡れた鼻で私の頬を押し、満足げにあくびをした。


 坂道をのぼる。

 昔はこの坂を駆け上がって、上で振り返り、わざと「置いていくよ」と私を急かした。今は、3歩ごとに小さな休憩を挟む。

 息は少し荒い。それでも、私の目を一度見上げて、「大丈夫だ」と言うように尾を振る。


 角をもうひとつ曲がると、古い団地の前に着いた。

 大学を出て、最初にふたりで暮らした場所だ。狭くて、夏は暑くて、冬はすきま風の音が賑やかだった。

 ある冬の夜、彼が初めて高い熱を出した。冷たい台所で水を張り、濡らしたタオルを小さな体に当てると、彼は震える体で私の手首を舐め、眠るまで私を離さなかった。

 翌朝、病院に連れて行くと、獣医は「よく朝まで頑張ったね」と言って、温めた点滴をゆっくり落としてくれた。帰り道、彼はキャリーの中から時々鼻を鳴らし、私の靴音に合わせて呼吸を整えていた。


 公園が近づく。入り口の銀杏は葉を半分落とし、ベンチの影に黄色い波紋を作っている。

 ここで、私たちはたくさんの季節を見た。春、彼は花びらの匂いを不思議そうに嗅ぎ、くしゃみをした。夏、蝉の声に首をかしげ、木陰を選んで昼寝を覚えた。秋、落ち葉に顔から飛び込み、得意げに葉っぱまみれで立ち上がった。冬、初めての雪に足を取られ、転んでもまた立って、白い息を吐いた。


 ベンチに腰を下ろすと、彼は私の足元に体を横たえた。

 背中の毛はところどころ白く、触れると毛皮の下の骨の形が手のひらに伝わる。それでも、その温度は確かなものだ。

 風がひとつ、顔を撫でていく。遠くで子どもがボールを蹴る音。自転車のブレーキ音。鳥の羽音。

 世界は相変わらずたくさんの音でできていて、その全部の中心で、彼の呼吸が小さく上下している。


 ポケットから、古びた赤いボールを出す。

 表面は歯型でざらつき、色はすこし褪せている。私が指で弾ませると、彼は目を細めて、それでもちゃんと目で追った。

 若い頃、私が投げると、彼は地面を蹴って走り、ボールより先に笑顔で戻ってきた。時にはボールを忘れて私の足元に座り、「褒めて」と言う顔をした。

 いまはボールを投げない。手の中で、17年分の遊びの気配だけを転がす。

「ほら、覚えてるか」

 私は笑って見せる。彼は息をひとつ吐き、のどの奥で小さく鳴いた。それで充分だった。


 日が傾く。公園の砂に光が斜めに差し、ベンチの影が長く伸びる。

 私は彼の首もとに指を滑らせ、名札のあたりを軽く掻いた。彼は安心したように目を閉じる。

 昔、失恋して帰ってきた夜があった。部屋の灯りをつけずに床に座り込むと、彼は暗い廊下を走ってきて、私の胸に頭を押しつけた。何も言わないということが、あんなにも救いになると、その時初めて知ったのだ。


 立ち上がろうとすると、彼は私を見上げた。

「帰ろうか」

 小さく問いかける。彼は一度だけ尾を振り、前足に力を入れて立ち上がる。

 足取りはゆっくりで、草の上を選んで歩く。私は歩幅を合わせ、時々、首もとを撫でながら、ふたりの影を追う。


 帰り道のパン屋は、シャッターを半分下ろし始めていた。店主がこちらに気づいて手を振る。

「まだ歩けるか?」

「ゆっくりなら」

 店主はうなずき、紙袋をひとつ差し出した。中には塩抜きの小さなビスケットが数枚。

 彼は袋の匂いを嗅ぎ、ほんの少しだけ舌を出した。店主は笑って、「また明日」と言った。

 明日、という言葉は、こんなにもやさしく重たい。


 家に着くと、玄関灯が灯っていた。

 タオルをぬるま湯で湿らせ、足をひとつずつ拭く。前足、後ろ足。肉球は柔らかいが、縁は少し硬くなっている。

 廊下の端に置いた水のボウルに、波紋がゆっくり広がる。彼は顔を上げたり下げたりしながら少しずつ飲み、やがて寝床へ向かった。

 寝床の毛布は、角がすり減り、ところどころほつれている。彼が初めて家に来た日に買って以来、何度も洗って、何度も干した。


 私は赤いボールを、そっと寝床の隣に置いた。

 もう遊ばない。けれど、傍にあるだけでいい。

 私が寝室の灯りを落とすと、廊下の小さな常夜灯だけが、金色の小さな円を床に作った。

 彼の寝息は、規則正しく、ほとんど風の音と紛れるくらい静かだ。私は床に座り、背中を壁につけ、彼の呼吸のリズムに自分の呼吸を合わせた。


 夜更け、夢と現の縁を行き来するあいだ、私は昔の散歩道を歩いた。

 桜の季節、彼の鼻先に花びらが乗って、くしゃみをする。

 夏の川で、光を追いかけて滑り、私が抱き上げると、濡れた鼻で頬を押す。

 秋の落ち葉に飛び込み、冬の雪に足跡を二列並べる。

 振り返るたび、彼はいつだってそこにいた。息が上がると私を見上げ、私が立ち止まると前へ進むように尾を振った。


 明け方、鳥の声が最初の音として部屋に降りた。

 窓の向こうで空が薄く明るくなる。常夜灯の金色が、白い朝に溶けていく。

 私は眠っていたのか、起きていたのか、自分でも分からない。

 彼の寝床へ目をやる。

 そこに、彼はいた。丸くなり、前足を鼻の前に重ね、まぶたを閉じている。

 呼吸の上下は、見えなかった。

 時間は、止まっても歩いても、同じ重さで降りてくる。私はしばらくのあいだ、その重さを両手で受け止めていた。


 涙は、すぐには出なかった。

 代わりに、胸の奥で何か温かいものが広がっていく。

 私は彼の背中に毛布を少し掛け直し、首もとをそっと撫でた。名札の金属は、まだ体温を宿していて、指先に少しだけ熱かった。

「ありがとう」

 小さく言うと、自分の声が自分の骨に響いた。


 その日、赤いボールを寝床の枕元に置いたままにした。

 水のボウルはそのまま。タオルも、玄関のリード掛けも。

 生活の形を急に変えることはしない。形が先に残り、心があとから追いつく時間が必要だ。

 夕方、私はひとりで散歩道へ出た。リードは持たない。ポケットに名札だけ入れて、歩く。

 街路樹の影が斜めに伸び、パン屋からはいつもの香りが流れる。店主は私を見ると、何も言わず、軽く会釈した。

 川の欄干に手を置く。水面はいつも通り流れ、葉も紙片も光も、順番に遠ざかる。

 坂道の途中で一度だけ振り返る。そこに彼はいない。けれど、私の胸の内側には、確かに足音が重なる。


 あの赤いボールは、今日も寝床の枕元で変わらぬ色をしている。

 名札はポケットの中で、歩くたびに小さく触れ合い、音を立てる。

 耳を澄ますと、その音はかすかな鈴の音に似ていた。呼べば返事が返ってくるような、そんな確信を、私は持っている。


 帰り道、夕暮れが夜へ変わる境目で、私は立ち止まった。

 影はひとつだけ。けれど、足元の風がそっと足首をめぐり、もうひとつの影の形をつくる。

 私はその風へ向かって、いつかと同じ言い方で声をかける。

「行こう」

 そして、歩き出す。歩幅はゆっくりと、でも、まっすぐに。

 17年目の散歩道は、終わらない。

 これからも、何度でも、心の中で歩ける。

 赤いボールが転がる音を、名札が触れ合う小さな鈴の音を、私はきっと聞き分けられる。

 たとえ手の中の温もりがもうなくても、私の歩く速度は、あの日から何ひとつ変わっていない。

 夕暮れの匂いは今日も同じで、私たちの影は胸の中で寄り添い、伸びて、重なり、やがて夜の色へと溶けていく。

 そのたびに私は、心の奥でそっと呟くのだ。

 ——また明日、同じ道を。

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十七年目の散歩道 39ra @39ramochi

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