第8話 突然の異動

星夜は31歳で結婚した。

相手は高校の同級生で、3年生の時はクラスメイトでもあった。正直、高校生の時の妻の印象は強く残っていない。特別仲が良かった訳でもないし、一緒に何かをした事もない。

『ジャイアンツが好きで良く笑う子』

記憶に残っているのはそれぐらいだ。

お互いに大人になってからSNSで友達になり、気づけば連絡を取るようになっていて、飲み会をした事で再会を果たした。そこからあれよあれよと発展していき付き合う事に。この時、妻の年齢も30歳だった事もあり、

『付き合うのであればちゃんと責任も取らないと』と思っていた星夜は、約1年後に入籍した。


一緒に住むようになり、式もあげて3年後ぐらいに第1子の娘が生まれた。長女が生まれた時のことは、今でも昨日の事のように覚えている。

これまでの人生のどの瞬間とも違う特別な瞬間だった。

ありきたりな言い方ではあるが、とにかく可愛い。妻は出産後に実家に帰省していたが、ちょうどGWが重なっていて仕事が休みだった事もあり、星夜は毎日娘に会いに行った。

1日1日、成長を感じる。元々割と子供に好かれるが、特別子供が好きな訳でもなかった星夜は、すっかり我が子に夢中になっている事に少し驚いていた。これは今も変わらないが、子供の存在は自分の人生を大きく変えた。

妻と子供と離れ、1人での帰り道はいつも寂しいと感じた。こんな感情はいつ以来だろうか。

どこかのお店で夜ご飯を食べている時も、娘の写真を見て微笑んでいる。周りから見ればただのキモい男性だろう。家で自分で作った晩御飯も、その日の娘の写真や動画に夢中になり、

箸が進まない。これまで恋人ですらこんな事をした事もないのに何だか不思議だ。

大人になってから、『早く明日が来ないかな』と心の底から思ったのは、この1週間だけだった。


娘が生まれてからの3年間は、妻が娘と付きっきりでそばにいてくれた。慣れない子育てに毎日が葛藤の日々だっただろう。

女性は妊娠したらもう親になる。

約10ヶ月の間、どんどん大きくなるお腹。

星夜は、1度だけ『マタニティ体験』というのをした事がある。単純に言えば妊婦さんの重さを体感する体験になるが、想像以上に体が重いのだ。毎日これで生活するの?階段とか登るの?トイレもお風呂もキツそう…。

勿論、この体験で全ての苦労がわかるはずもない。しかし、たったこれだけの事でも、夫となる男性には是非、やってみる事をおすすめする。男性は痛い思いも苦しい思いもしないし、情緒不安定になったりする事も無い。

妊娠したら子育ては、『夫婦一緒に』始まる。気持ちを理解は出来ないが、寄り添う事は男性にも出来る。妊娠、出産の時の妻の心の安定は、夫婦で作り上げるもので、そこが協力出来れば少なからず子供にも良い影響を与えると先生や助産師さん達も言っていた。

出産してからの3年間、妻と娘はどの様な日々を過ごしたのだろう。娘には記憶がないだろうが、妻が平和であったならば良いと願う。


星夜は相変わらず疲弊していて、精神が安定しない日々が続いていたが、マネージャーというポジションは営業部の数字に責任を持たないといけない。今月数字を作れなければ、自分から降格を申し出ようと考えていた。

しかし、自分が降格したからと言って玉田支店長の顔がたてられる訳ではない。出来なかったから降りますは、結局は1番簡単な方法だ。

この時の星夜は覚悟を決めていた。チームで数字を作れないのであれば、自らが契約を取ってでも公約を守る。そう考えていた為、密かに自分自身も勝負案件を抱えていた。

本音を言えば降格したかった。

と言うのは、やはり自分のモチベーションがあまりにも下降線を辿っている事に自ら気づいていたからだ。

しかし、支店も長らくノルマ未達が続いていたし、何より玉田支店長にはこの支店にいて欲しかった。その為には、結局数字だ。

星夜は自分の契約に大手をかけていた。

自信もあった。絶対に決める。

契約日も決まり契約業務を進めていた。

そして、契約日の前日にある大きな出来事が起こる。


支店に本社の営業管理局から営業管理局長が突然来た。

『営業管理局長』とは、この会社で営業部のトップに立つ、とても偉い人だ。

星夜も何事か?とは思ったが、契約業務で慌ただしい為、それどころでもない。しかし、作業の途中ではあったが玉田支店長と星夜は支店のプレゼンルームに呼ばれた。

【墨田(すみだ)局長】から、日々の労いの言葉を頂いた後に、人事の話が切り出された。

玉田支店長は、関西のエリアの支店長として異動が言い渡された。人事権を持っている局長の直の通達の為、当然断る事は出来ない。

玉田支店長もどう思ったかはわからないが、

「承知しました。」と言って頷いた。

「次に成田マネージャーだけど。」

そう言った後、数秒だっただろうか?沈黙があった後に、

「東京のど真ん中、23区の世田谷に行ってもらう。」

…。え?東京?世田谷?星夜は、墨田局長が来た時点で誰かの人事の件だろうと言う察しはついていた。当然、その誰かには自分も含まれている事まではわかる。ただし、23区に行くという想定は全くしていなかった。

『寝耳に水』。この言葉がピッタリ当てはまるだろう。そもそも23区には4支店程しか無いはずだ。そんな星夜を遮る様に、墨田局長が続ける。

「成田マネージャーには、入社以来活躍を続けて良くやってくれているのは知っている。入社してからずっとこの支店にいるという現状をここで打破したい。会社としても、今正に首都圏に力を注いでいるところだ。まだ若いが経験豊富な能力を向こうで発揮して貰いたい。宜しく頼んだよ。」

星夜は、玉田支店長と同じく承知しましたと言う他ない。この人事には今でも色々と思う事はあるが、決まった事は変えられない。

別れというのは本当に突然やって来るものだ。その日帰宅すると、星夜は早速人事の報告を妻にした。妻は驚いてはいたが、会社員である以上仕方がない事は理解している。もちろん、環境が変わる事に不安が全く無い事はないだろうが、割と前向きに捉えてくれた。


翌日、星夜は自らの契約を終え、オーナー様に異動の報告も丁重に行った。この短期間で本当によくご決断頂いたと思う。東京勤務になっても、月に2回は帰省出来る許可が出ている。

とてもハードにはなるが、オーナー様にはこれまでと変わらず、今後の業務も自らが行うのでご安心くださいと星夜は伝えた。

そして、玉田支店長と支店の皆さんに別れを告げた。この日頂いた契約で、星夜の営業部も、支店もノルマを達成した。何とか最後に置き土産が出来てホッとした。

入社以来ずっとお世話になって来た。

思えばここで沢山の経験を積ませてもらった。感慨深いものがあり、ぼんやりと支店全体を眺めていると、猪熊さんからプレゼントを渡された。中身は高級なボールペン。支店の皆さんがお金を出し合って用意してくれた物らしい。

皆の前であらためてお礼と異動のご報告を行った。星夜自身も何を話したか覚えていない。

最後は、「ありがとう。」

デスクにそっと手を置き、星夜はそう呟いた。

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