第3話 氷の微笑

「おはようございます!」

元気な声で挨拶し、星夜は支店に入ってきた。支店の営業は6チーム制になっていて、

各課のリーダーが営業課長。

1チームに大体5人前後で構成されている。

この営業課長の上に営業部管理責任者、

通称『マネージャー』が2人いる。


このうちの1人が『副支店長』と呼ばれる

【神島さん】だ。

実質、営業部の長はこの神島さんで、営業・建築・仲介管理部の全ての長に立つのが久藤支店長という組織になる。

この神島さんは、後に星夜がこの会社で尊敬する何名かのうちの1人となる。

神島さんには、『クローザー』という言葉がよく似合う。言わば、お客様に最後に決断させ、契約を決めてくる人だ。星夜は、横田課に所属する事になった。

 【横田課長】は、メガネをかけたベテランの営業課長だ。自分の決めた営業エリアをマメにコツコツ訪問する真面目な営業スタイル。小柄で割と痩せ型の体型だが、見た目の割にとても体力がある。後に振り返ってみた時、1番最初の営業課長が横田課長で良かったと星夜は思うのだった。

 今では信じられないかもしれないが、この当時は休みが無かった。営業は通常、日・月が休みだが、火曜日は営業会議というものがある。

この会議では、1人1人が現状の見込み客の状況を説明し、それに対して、営業マネージャーや支店長が質疑応答をし、いつまでにどうするのかを詰めて行く。この会議に案件を持っていない営業は、厳しく叱責されるのだ。

これが長時間に及ぶ為、結構きつい。

火曜から土曜日迄働いて何もない人は、日曜も月曜も当たり前に営業に出るのだ。

そして、新人はもう一つ、『お茶汲み係』をしなければいけない。お茶汲み係とは、毎朝、全営業課長とマネージャー2人、支店長にお茶を出す役目だ。名目上は、コミュニケーションを取る為だそうだが、これが結構大変なのだ。

というのも、1人1人飲むものが違う。温かいお茶がいい人もいれば冷たいお茶がいい人もいる。コーヒーはブラックがいい人もいれば、ミルクを入れたい人、甘めがいい人、甘さ控えめな人。これは季節によっても変わる。最初は数人で分担していたのが、星夜が入ってからは毎日1人で行う事となった。

 それが終わったら毎日トイレ掃除が待っている。この環境がキツく辞めていった営業もいるだろう。それでも人間は環境に順応する。5人いる新人の中でも勉強の成績は圧倒的な最下位だった星夜も、根性だけはズバ抜けている。

星夜は不平不満を言わず、毎日黙々とこの朝の業務をこなしていった。

因みにこれは、ここから7ヶ月間続いた。


 1ヶ月程が経ち、他の新人たちの正気がみるみる失われていく。成果が上がらない事に対しての焦りと、上司からの叱責。これで帰りも23時を過ぎるのは当たり前なので無理もない。

ある日、新人達が集まって何やら話していた。「毎日これだけ頑張っても契約が取れる気がしない。」

「私、実は転職考えてる。」

という様な声が聞こえてきた。ある人が、

「明日は休みだから今日は皆んなで飲みに行かない?」

と声をあげた。すると「いいね!」と皆が賛同していた。たまたまそこに通りかかった星夜に、その中の1人が声をかけてくれた。

「成田さんも一緒に行きましょう!」

すると星夜は答えた。

「お誘いありがとうございます。折角ですが、僕は明日休みじゃないので、やめておきます。誰かが契約をとった時のお祝いなら参加させて頂きますので、またの機会によろしくお願いします。」

当然その場の空気はあまり良くない。だが、それは仕方ない。星夜はこの会社に自分の人生を賭けて入社している。そうでなくてもこれまでパッとしない人生。まだ体も動く20代のうちに歯を食いしばっておかなければ、未来は無いと感じていた。同僚と仲良く馴れ合う為に来たわけでは無いのだ。

 因みに星夜は、先輩達の誘いにも乗らなかった。営業に出て成果を上げ続け、契約をとる迄はそれ以外の事を排除したかったのだ。

当然、アイツは生意気だとか、付き合いが悪い等と言われていた。それでも星夜は我が道を進んだ。

 10月も終わりが近づき、朝晩は肌寒く、暗くなるのも随分早くなってきた。ずっと休みが無い。流石の星夜にも疲れが見える。

11月から下期が始まる事もあり、支店内では営業のチーム編成が行われようとしていた。3ヶ月間、横田課長の下で歩いて歩いて歩き抜いて来たが、残念ながら横田課に貢献する事は出来なかった。チームが変わる。星夜は、結果を出せなかった謝罪と感謝を横田課長に伝えた。

「チームが変わっても訪問し続ける様に。」

横田課長からも激励の言葉を頂き、新しい課長が誕生したチームに星夜は異動する事となった。

 そしてこの日の朝は、ある衝撃の出来事があった。久藤支店長が突然、朝礼で退職の挨拶をしたのだ。星夜は、あまりに突然の事で言葉が出なかった。

とても恐ろしく、相対すれば背筋が伸びる存在感だった。星夜は一度だけ同行してもらった事があり、久藤支店長の車の中で2人で雑談した日の事を思い出した。

支店内で見せる『氷の女王』のオーラは一切無く、普通の気さくな女性が隣にいた。久藤支店長は元々引っ込み思案で、とても人見知りな人間だと言う。新人時代は、社用車から降りるのが怖くなり、インターフォンを押すのが怖くなり、毎日泣いていたのだそうだ。それでも自分で作った自己紹介チラシを雨の日も雪の日も配り続け、年賀状、お中元、お歳暮は毎年欠かさなかった。話すのが得意なわけでも、人より長けた特徴がある訳でもない中で生き残っていく為には、

『普通の事を人よりちゃんとやる』

必要があったと話してくれた。

星夜は、久藤支店長の車を自分が運転し、隣にその支店長がいる状況の中だった為、緊張感を感じていた。何を話したのかはあまり覚えていなかったが、

この『普通の事を人よりちゃんとやる』

という言葉を今もハッキリと思い出す。今思えば最初で最後の同行で、時間にして2時間程度ではあったが、かけがえのない特別な時間を過ごし、とても良い『課外授業』だったと言える。

 ぼんやりと過去の記憶を辿っていた星夜が営業に行く為、支店を出ようとする際に、久藤支店長が声をかけてくれた。ものの1分程の時間だっただろうか。

「3ヶ月しか見られなくて悪かったわね。私が面接した時の事を覚えてる?このままじゃだめよ。今、歯を食いしばって頑張りなさい。本当の嬉しいや楽しいは、苦しい事の後にしか来ないわよ。自分の未来を変えなさい。私、あなたには結構期待してるのよ。必死でやりなさい。」

星夜は、この言葉を一言一句間違える事なく今も覚えている。あぁそうだ。面接もこの人だった。あの時は今まで言われた事ないぐらいに自分を否定され、手加減無くけちょんけちょんにダメ出しされた。入社初日は、公衆の面前で怒鳴り散らかされた。なのに今この瞬間は、これ以上無い温かい言葉をかけてもらい泣きそうだ。星夜はこの時、本当の意味で覚悟が決まった。

「絶対に契約を獲ってみせる!」

そう自分に決意したのだった。

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