魔王の息子は勇者の卵

@tanakasatoshi48

1話 魔王様とエスカちゃん

 巨大なドラゴンの背の上、魔王である父の腕の中で、エスカは今日もご機嫌だった。


 空は夕焼けに染まり、黄金色の光が雲海を照らしている。風が頬を優しく撫で、遠くから聞こえる鳥の鳴き声が、まるで子守唄のようだった。エスカは、その心地よい揺れの中で、カチャカチャと音を立てる白い指の骨を大事そうに握りしめている。それは、息子専属の世話係であるリッチから拝借したものだ。そのリッチは、ドラゴンの後方で、骨と骨をぶつけ合いながら、宙に浮いたままエスカの様子を温かい眼差しで見守っていた。


「あらあら、エスカちゃん、そんなに骨がお気に入りなのねぇ」


 魔王は、息子を抱きかかえ、その柔らかい頬に優しく自分の硬い角をこすりつけた。その隣では、お供の子鬼、ゴブとマブが、魔王が息子のためにおやつとして用意した血の滴るような赤いゼリーを巡って、醜い喧嘩を続けている。ゼリーの甘い香りが、ほんのりと鼻をくすぐった。


「キーー!」  「ギーー!」


 子鬼たちの甲高い声が耳障りだ。翼をバタつかせながら、お互いの角を突き合わせる。マブが我慢の限界に達し、口から小さな炎の玉を放つと、硫黄の匂いが辺りに立ち込めた。炎の玉はゴブの顔めがけて飛んでいくが、ゴブは間一髪でそれを避ける。


 炎の玉は無防備な魔王の顔面に直撃した。


「あああつ!!」


 魔王は思わず絶叫し、顔の半分を焦がされ、焦げ付いた肉の匂いが鼻につく。角からは煙が上がり、熱で歪んだ空気が視界をぼやけさせた。


「どこの馬鹿者が、この私に炎をぶつけた!」


 魔王は激怒し、子鬼たちを睨みつけた。ゴブとマブは怯え、小さく震えている。


「お前ら!愛しいエスカちゃんのお顔を汚されるところだったではないでちゅか!お前たちには、今日のおやちゅは抜きだ!」


 魔王が子鬼たちを叱りつけていると、エスカは魔王の腕からするりと抜け出した。リッチの指の骨を掴んだまま、ドラゴンの背の上でよちよちと歩き始めた。


「坊っちゃま、危のうございます!」


 リッチが骨を鳴らしながら、慌ててエスカに近づく。魔王も焦り、息子に手を伸ばした。


「エスカちゃーん、そっちは危ないよぉ!」


 エスカは、そんな二人の心配をよそに、満面の笑みで魔王を見つめていた。その手には、リッチの指の骨がしっかりと握られている。

 

 しかし、その時だった。子鬼たちの喧嘩は、まだ終わっていなかったのだ。ゴブは、マブが放った炎の玉を思い出し、怒りを爆発させ、体中から雷を放った。ビリビリと空気が震え、雷鳴が鼓膜を激しく叩く。それはマブだけでなく、ドラゴンの背の上にも降り注ぎ、激しい爆発を引き起こした。


ドォォォォォン!!


 爆音と共に、ドラゴンは大きく揺れ、魔王たちはバランスを崩す。そして、魔王たちがその爆発の衝撃に耐えている間、エスカの小さな体は、ドラゴンの背から宙へと投げ出されてしまった。


「エスカちゃーーーん!!」


 魔王の悲痛な叫びが、空に響き渡る。エスカの小さな体は、ただ一筋の光のように、眼下に見える人間界の遥か彼方へと、まっすぐに落ちていった。その小さな手には、まだリッチの指の骨がしっかりと握られている。


 魔王は、ドラゴンの背から飛び降り、ものすごい速さで落下するエスカを追いかけた。風が全身を叩きつけ、焦げ付いた顔から涙が乾く。必死に手を伸ばし、エスカの名を叫び続けた。


 エスカの体が地面に激突する寸前、ついに魔王の手が届いた。優しくその小さな体を捕まえようとしたその瞬間、エスカは口元をモゴモゴと動かし、誰も聞き取れない小さな呪文を唱えた。


「ゴニョゴニョ…」


 すると、エスカの体が淡い光を放ち、すっと消えてしまった。


「え…?」


 呆然とする魔王の視界から、愛しい息子の姿が消えた。その驚きで、魔王は落下する勢いを制御できなくなり、そのまま地面へ激突してしまう。


ズドドォォォン!!


 爆発音と共に、地面が大きく揺れ、土埃が舞い上がった。そして、魔王の体が激突したその場所には、運悪く(あるいは運良く)、レベル1のモンスター「針亀の亀吉」がいた。


「誰だ!この私のお尻を刺し……ぃいたいいいいぃ!!」


 荒れ狂う魔王を背に、亀吉は呆然としていた。しかし、その体は光に包まれ、信じられないほどの量の経験値が流れ込んできた。


「レベルがアップしました!」

「レベルがアップしました!」

「レベルアップが止まりません!」


 亀吉の体は見る見るうちに大きくなり、背中の針は剣のように鋭くなっていく。その進化は止まるところを知らなかった。


「魔王様!何をしておられるのですか!」


 リッチは、魔王がまだ針亀に突き刺さっていることに気づき、慌てて魔王の体に触れた。リッチが亀吉の体から魔王を抜き取ると、魔王は痛みに絶叫しながらも、正気を取り戻した。


「リッチ…!エスカちゃんは…?エスカちゃんはどこに…!」


 魔王は、痛むお尻を抑えながら、血相を変えて辺りを見回した。しかし、どこを探しても息子の姿はない。子鬼たちも、事態の深刻さに青ざめ、悲しい声をあげている。


「坊っちゃまは、魔王様の腕の中から消えてしまいました…」


 リッチの言葉に、魔王は膝から崩れ落ちた。エスカの姿を最後に見たのは、自分が地面に激突する直前だ。あの時、エスカは一体どこへ消えたのか。


 魔王は、激痛にのたうち、叫びながらも、呆然と、強大になっていく針亀を見つめることしかできなかった。目の前で起こっていることが理解できず、ただただ、お尻の痛みと息子の行方への不安に苛まれていた。


「全軍に、命令だ…」


 魔王は、焦げ付いた顔から涙を流しながら、リッチに絞り出すように命じた。


「魔王軍全勢力を動かせ!人間界の隅々まで探し尽くせ!どんな犠牲を払ってでも、私の息子、エスカを捜し出せえぇぇぇ!!」


 魔王の叫びが、再び空に響き渡った。その怒りと悲しみの叫びは、レベルアップを続け、光輝き出した巨大な針亀へと進化した亀吉が立つ、人間界の小さな草原に、新たな戦乱の予兆をもたらすのだった。


十二年の月日が流れた。

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