夢々忘れるなかれ
ビト
プロローグ 診察室にて
「二番の診察室へどうぞ」
気だるげな女性の呼び出しの声を聞き、私は重い体を起こして二番の診察室へ向かう。その足取りは重い。よく眠れていないからだろう、この一週間の疲労はこれっぽっちも体から抜けていない。それでも通院する気力と体力がギリギリ残っているのは、奇跡といってもいい。別に診察を受けたからといって劇的に改善されるわけではないが、処方される薬はいじらしい祈りのように、なんとなく効果がある気がする。それだけだ、それだけの理由で私は、この森に囲まれた病院に通い続けている。
「お加減はどうですか?」
和田先生が、一週間前と変わらない声で一週間前と同じことを聞く。最悪ですよ、そう悪態をつくことも出来たが、私は先生のことを好いているので、慎重に言葉を選ぶ手間を惜しむことはない。
「あまり、よくありませんね」
そう言うと和田先生は、こちらに向き直る。しかし、目は合わせない。その配慮がとても心地いい。前の病院の先生はことあるごとに私の目を直視して、まるで尋問のように私の問診をしていた。今思うと、あれが私の症状を悪くしていたのではないだろうか。そんなことをふと思うと、今診て下さっている和田先生はとても気の付くかただ。目を合わせてくれない、と不平をいう患者もいるらしいが、私には合わない目がとても居心地がいい。まぁ百人患者がいれば百人医者がいる、という言葉もある。こればかりは相性の問題だろう。
「通院のペースが早いということは、それだけお辛いんでしょうね」
「そうですね、どうにもこうにも。情けない話ですが」
「なにをおっしゃいますか。調子が悪い時は素直にそう言って頂いた方がこちらも助かりますよ」
あぁこういう気遣い、こういう気遣いのお陰でどれほど私の心が楽になるか。感謝の念を表明したいくらいだ。しかし、今の私にそんな気力はなかった。
「やはり不眠ですか?」
「いえ、寝つけはするんですが、その、お恥ずかしい話、夢見が悪くて、どうにも寝た気がしないんです」
先生はそれを聞いて少し鼻を鳴らし、一度パソコンのほうへ向き直る。そしてなにやら調べ直しているようだった。本当に恥ずかしい話だ、いい大人が、怖い夢を見るから眠れない、なんて。しかし、事実そうなのだ。事実として、私が見る奇怪な夢は私に安らぎを与えない。むしろ、ただ起きているよりも疲労が蓄積されるようなのだ。
以前もこのようなことはあった。そもそもの不眠に合わせて、夢見が悪くて睡眠が浅い、ということは。しかしこの一週間は、はっきりいって異常だ。
「お電話で聞いたところ、見た夢をはっきり覚えている、そしてそれが原因で酷く疲れる、と?」
「そう、そうなんです。起きても、こう、頭にずっと焼き付いているというか。夢なんて起きたら忘れるものじゃありませんか。それが、どんなに日々暮らしても、この一週間見た夢を忘れられないんです」
我ながら無茶苦茶なことを言っているのは分かっている。まるで思春期の子供のようだ。しかしそんな思春期の悩みのようなものが、今まさに私を苦しめているのも事実なのである。
先生は口元に手をやり小さくうなりながら、しばらくパソコンと睨めっこしている。やはり先生でもお手上げだろうか。それこそ、夢を見ずに眠れる薬なんて都合のいいものがあれば是非とも処方して欲しいものだが。しかし、餅は餅屋、素人がそんなことを考えても仕方ない。私はただ、先生の判断を待つだけだ。
先生は小さく何事か呟き、改めて私と向き直った。そしてズレかけた眼鏡を直しながら、私にも分かりやすいように話を始めてくれた。
「実のところね、夢を見ること自体は悪いことじゃないんです。もちろん、夢で苦しむ人がいることは僕らも承知していますよ。ただ夢っていうのはつまり、眠っている間に起きていた時のストレスを脳が消化している現象のことなんですね。小説家の先生なんかはまた別の見解でしょうが。まぁ、医学的な見地から言えば、夢がそこまで脳にとって悪いものじゃないということはご理解いただきたいんです」
でも、現に私はこうして苦しんでいるんです。どうにかなりませんか。私の顔にそう書いてあったのか、先生はそれに先回りして優しく言ってくれた。
「ただ、夢を覚えていらっしゃるというのなら、その夢の内容からどんなストレスが原因か分かるかもしれない。幸い、今日の診察はあなたが最後だ。よろしければ、その話を聞かせて頂けますか?」
「いいんですか、先生」
「本当はカウンセラーの仕事ですけどね、構いませんよ。どこまでお力になれるか分かりませんが」
「いえ! ありがとう御座います!」
そこから私は、堰を切ったように話し始めた。この一週間、私が見てきた夢を。まるでその日起きたことを親に全て話す小学生のように。
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