エピローグ:風の記憶、水のかたち
気がつけば、風が吹いていた。
俺は、朽ちかけた林道の上に立っていた。頬を撫でる空気はひどく生々しく、ゾーン内の静謐な空間とはまるで違っていた。
靴底に湿った落ち葉の感触が戻ってきたとき、彼はようやく理解した。戻ってきたのだ、と。
「……戻ってきたんだな、俺たち」
かすれた声でつぶやくと、背後で誰かが大きく息を吐いた。振り向くと、真鍋ハルカが立っていた。泥まみれの服、乾いた血の痕跡。けれどもその瞳は、なぜか曇っていた。
「ハルカさん……他の皆は……?……カエデさんは……ナツキさんは……」
ハルカは首を横に振った。
「もう、わからない。ただ気づいたら……ここにいた」
俺たちが立っていたのは、ゾーンの外縁部。かつてゲートと呼ばれた観測点のひとつで、政府の監視用カメラが今も朽ちかけた三脚の上に取り残されていた。けれども、録画装置は作動していなかった。俺が手にしたフィルムカメラの中身も、すべて露光して白く焼けていた。
ノアの写真は、どこにもなかった。
帰還から三日後。俺は、政府の仮設ブリーフィングルームで「聴取」という名の尋問を受けていた。
「あなた方が報告した“空中都市”ですが、記録上は一切確認されていません。映像、音声、全てが欠損しています」
無表情な官僚が、無機質な声で言い放つ。
俺は黙ってテーブルの上に置かれた記録端末を睨んでいた。確かに、ゾーン突入時から撮っていたフィルムには意味不明なノイズが焼きついていたし、音声データも“ピー音”のような連続信号で上書きされていた。まるで、誰かが“記録という記録”を意図的に破壊したようだった。
「……俺たちは、確かに見た。浮いていた。都市が」
「夢でも見ていたのでは?」
その言葉に、苛立ちを抑えきれなかった。
「ノアは……ノアという少女がいたんだ。君たちの知る世界には、彼女の存在は記録されていないのか?」
官僚はまばたきもせず、ただひとこと呟いた。
「“ノア”という記録は、存在しません」
それが、現実だった。
その夜。俺はかつて弟が住んでいたアパートの一室に身を寄せていた。埃の匂いが染み込んだ、狭くて古びた六畳間。机の引き出しには、あのとき政府から返却された「手帳」がまだ残っていた。
その手帳の最終ページを開いた。そこには、震えるような字で、こう書かれていた。
「都市の中心に、少女がいた。風を見ていた。水を聴いていた。名を、ノアと言った気がする——」
記憶が、ぼやけていく。けれど、その名前だけは、確かに刻まれていた。
俺は、ノートを一冊引き寄せ、ゆっくりとペンを走らせはじめた。自分たちが見たもの、感じたこと、そして——失われた存在の記録を。
「ノア。君は風のように現れて、風のように去っていった。でも、君がそこにいたという記憶だけは、まだ俺の中にある。たとえ誰も信じなくても、俺は書き続ける。この世界のどこかで、君がもう一度風を見上げることを願って——」
春先の風が、軋む窓を静かに叩いていた。その音を聴きながら、この原稿のタイトルを考えている。
そして、表紙にこう書き加えた。
『空中都市』
あとは、原稿を封筒に詰め、編集部の宛名を書くことになるだろう。
この物語が誰かの手に届く保証などなかった。けれど——誰かひとりでも、あの場所を“知って”くれるなら、それでいいと思った。
ふと、窓の外に視線をやる。夕暮れの空に、雲の切れ間から差す光が見えた。その輪郭が、どこか浮遊都市のシルエットに似ている気がして、俺は目を細めた。
——ノア。君は本当に、いなかったのか?それとも、君だけが“真実の時間”にいたのか。
そのとき。ふと、背後でかすかな音がした。紙がめくれるような、柔らかい気配。
誰もいないはずの部屋の隅。そこに置かれていたノートの一枚が、風もないのにふわりと浮き、ゆっくりと舞い落ちた。
そのページには、こんな言葉が記されていた。
「ありがとう。風は、まだ覚えてる。」
俺は、そっと微笑んだ。もう何も問わず、ただその言葉を受け入れる。
そして、目を閉じた。風の音が、どこかで水と混じり合いながら、遠い記憶を揺らしていた。
✴︎
――記録終了
空中都市:The Singularity Zone 空栗鼠 @plasticlabel05
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