第4章:鍵は、ノア
私は、いつからここにいるんだろう。
気がついたら、空が逆さまだった。
森が、下から生えてきた。
建物は回転しながら、音もなく崩れていた。
その中で――光だけが、まっすぐだった。
あたたかい、ひかり。
たしか……誰かが、手をのばしてくれていた。
その手が、わたしに“名前”をつけた気がする。
名前は、音だった。
ひとつのやわらかい音。
「ノア」と、たしかにそう呼ばれた。
でも、顔が見えない。
声も忘れた。
その人がどこへ行ったのかも、わからない。
そのあとは、何度も朝が来て、
何度も同じ夢を見た。
森の中で迷って、同じ場所に戻る。
湖のほとりで歌って、歌詞が消える。
地面の裂け目に立って、誰かの足音を待ってる。
なのに、なにも変わらない。
空中に浮かぶ都市の下で、わたしは閉じ込められてる。
でも、これは檻じゃない。
わたし自身が、檻の一部なんだと思う。
だから――誰かが来るたび、
わたしは少しずつ記憶をこぼしていく。
そのかわりに、その人たちの“時間”をもらってる気がするの。
……ごめんね。
わたしは、わたしを壊す方法を、まだ知らない。
⸻
俺は、重ねたフィルムケースの底から、一冊の黒いノートを取り出した。
革製のカバーは古び、角が擦り切れている。
中には細かな字でびっしりと記されたメモと、時折混じる歪んだスケッチ。
それは――南雲 瑛、弟が遺した記録だった。
数日前、廃キャンプ地跡の地中から見つかった金属箱の中に、それは密封されていた。“時相結晶に近い場”で見つかったにもかかわらず、紙は劣化しておらず、インクの色も鮮明だった。まるで、“時間に守られていた”かのように。
ノートのページをめくるたび、呼吸が浅くなるのを感じていた。
⸻
【2058年8月12日・記録】
高所から観測される構造物、宙に浮かぶ“都市”。
明らかに知的構築物――だが近づこうとすると空間が折り返される感覚。
重力ではなく“記憶の反転”のような……
いや、語彙が足りない。これは建築ではなく、現象かもしれない。
【2058年8月13日】
見間違いか?
昨日と同じ地点で、同じ光景を見ている気がする。
鳥の鳴き声、風の強さ、雲の形……反復。
一度、観測された時間が保存されているのか?
【2058年8月14日】
都市の中心に――少女がいた。
黒髪。白い服。素足。
こちらに気づいていた。
笑っていた……ように見えた。
それが“誰かの記憶の断片”ではないことを祈る。
⸻
ページを閉じ、ノアの方を見た。少女は火のそばに座り、指先で砂を円形に描いていた。
「ノア……お前、ここで……何年、生きてる?」
「わからない」
彼女は即答した。
「“昨日”と“今日”がいっぱいあったから。たぶん、いっぱいすぎて数えられない」
「この記録に……お前に似た少女が書かれていた。俺の……弟の記録だ」
ノアは一瞬、顔を上げた。その瞳がわずかに揺れる。
「その人、優しかった? わたしに、名前をくれた?」
「……ああ。そうだったのか」
「わたし、“名前”ってね、一度もつけてもらったことがなかったの。でも、その人が“ノア”って呼んでくれたの。だから、わたし、自分をそう呼んでるの」
⸻
胸が痛んだ。
この少女は、“ゾーン内で生まれた“記録されない存在”だった。
彼女が生まれたという事実は、政府にも学会にも、どこにも残されていない。
「わたし、外には出られないんだ。外に出ようとすると、“都市”が怒る。だって、わたしは“ここ”の一部だから」
「……どういう意味だ?」
「わたしがここにいるから、都市は動いてるの。時間を繰り返すのも、記憶が消えるのも、“わたしのせい”」
ノアの声が、風のように弱くなった。
「この都市の“心臓”は、わたしの中にあるの。でも、それがどこにあるのかは、わたしにもわからないの」
「都市の“心臓”?」
そう呟くように言った。
「そう、わたし“その場所”の記憶がある…」
⸻
そこにいた。
たしかに、私はそこにいた。
けれど、それがいつの記憶かはわからない。
それとも、まだ“行っていない”場所なのかもしれない。
都市の中心には、塔がある。
ねじれた金属と透明な柱が絡まりあって、空の真ん中に浮かんでいる。
それは建物ではない。
もっと、ちがう。
“生きてる”感じがする。
壁は鼓動していた。
近づくほどに、胸の奥が重くなった。
音はしないのに、脳の奥で「音が鳴っている気がする」。
逆立った髪が、静電気のように震えていた。
塔の中には、部屋があった。
何もないのに、「誰かがいた気配」だけが残ってた。
白い床、光の柱、浮かんだオブジェクト。
私の姿が、あちこちの反射面に映り込んで、
それなのに――どれも“私じゃない”。
私はそこに立っていたはずなのに、
何度思い出そうとしても、自分の足音だけが抜け落ちている。
まるで、“あの時の私は”すでに存在していなかったみたいだった。
だから私はあの場所を、“心臓”と呼んでる。
音のない、光だけが脈打つ場所。
そこから都市は浮かび、私たちを騙して生きてる。
あの場所に、もう一度行ったら、
今度こそ――わたし自身がいなくなる気がする。
でも、それがこの都市の「始まり」なんだと思う。
それが、すべての“ループ”の、震源地。
⸻
俺は立ち上がった。
都市の中心――空に浮かぶ光の中枢へと視線を向ける。まるで、そこから何かが俺の名前を呼んでいる気がした。
「……行こう」
「え?」
「都市の心臓部に向かう。お前の中にあるものの正体を、確かめる。このままじゃ、全員“記憶”に溶けて終わる」
ノアは黙って頷いた。
そのとき、ナツキの声が聞こえた。
「おい、何の話してたんだ? さっきまで……俺、どこにいたっけ?」
「……」
ナツキの顔からは、数時間前の記憶が抜け落ちていた。その様子に久賀とハルカが動揺する。
だが、カエデだけは冷静だった。彼女は地図を睨みながら言った。
「私は、行かない。……いや、行けない。今、私があそこへ行ったら、隊を保てなくなる」
彼女の目はわずかに濁っていた。
ノアが言っていた“忘却のサイン”を思い出した。
「俺たちだけで行くよ」
俺はカエデにそう告げた。
⸻
こうして、俺・ノア・ハルカ・久賀の四人は、
“心臓部”へ向かって歩き出した。
背後に残されたカエデ、ナツキ、木暮の姿は、次に振り返ったときには、もう霧の中に見えなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます