空中都市:The Singularity Zone
空栗鼠
プロローグ:無許可領域
2061年、夏。かつて「兵庫県と岡山県の県境」と呼ばれた山間地帯に、いま地図は存在しない。
それは13年前、2048年のあの日を境に、国家の地図から切り取られた空白だ。
人工ワームホール実験の失敗によって生まれた特異空間“シンギュラ・ゾーン”。
その内部はあらゆる物理法則が歪み、時間すら安定しないとされている。現在も政府による調査と封鎖が続いてはいるが、近年その網の目は緩みはじめていた。
理由は一つ――時相結晶(クロノアイト)の存在である。
過去や未来の“情報”を内包する異質な鉱石。
それは単なる学術的好奇心の対象ではなく、軍事・経済・通信あらゆる分野での革命を可能にする“神の粒”として、裏の市場では国家予算規模の価値で取引されていた。
そんな結晶を手に入れるため、民間の探査チームが組織された。もちろん正規の許可など下りない。彼らは皆、命と理性を賭けた“無許可の旅”に赴こうとしていた。
──俺もその一人だ。
「兄さんへ。俺は、見つけてみたいんだ。誰もまだ見ていない時間を、景色を、自分の足で。」
かつてそう言い残して消えた、弟の手紙。その走り書きだけが、俺の心の奥に棘のように残っていた。
「もし、あいつがまだ“あの場所”にいるなら……」
弟の痕跡を追うため、ゾーンに向かう。だがそれは、ただの家族の物語ではなかった。あの領域に足を踏み入れた時点で、誰もが“過去”と“未来”の選別を失うのだ。
⸻
出発の夜、廃工場跡の仮設ブリーフィングルームには6人の人間が集っていた。
鉄骨とコンクリの冷えた空間に、簡易照明が淡く灯る。壁際に並ぶアナログ機器とフィルムリール。最新のテクノロジーはこの領域では意味を成さない。
中央のテーブルに地図が広げられる。だが、その地図の中央には大きく黒いマジックで「UNDEFINED(未定義)」の文字が記されていた。
「ここから先は、地図にない時間だ。」
そう語るのはリーダーの城嶋カエデ。元自衛官で、過去に複数回の違法探査を成功させた実績を持つ、伝説的な存在だ。
黒のフィールドジャケットを羽織り、右目に古びたスコープを装着している。その鋭い視線が、一人ひとりを見据える。
「戻る保証はない。だが、見つけられるかもしれない。地球の“外側”をなぞるような、あり得ない地層の痕跡。そして、記憶にしか存在しないはずの“未来の残響”だ。」
俺の隣で、陽気そうな男がパイプをくゆらせている。
芹沢ナツキ、サバイバル担当。元アウトドア用品ブランドのPRだというが、ありえない量の火打石と縄を持参している。笑いながら「文明はすぐ壊れるからね」と言うタイプだ。
医療担当の真鍋ハルカは、淡々とフィルム包帯と鎮静剤を確認している。彼女は元政府研究員で、“ゾーン由来の人体異常”を専門に研究していた。
記録係の久賀 亮は、8mmカメラをいじっては緊張気味にフィルムを巻き直す。
「ここで撮れたものが、現実として扱われるなら……俺はようやく“何か”を残せるのかもしれない」と呟く。
最年長の木暮 タカシは、ほとんど口をきかない。だが彼が運び込んだ手製の重機や昇降装置には、実に几帳面な手書きの注意書きが貼られている。
「昇降時は叫ぶな」など、独特のセンスが光る。
今回の侵入についての作戦を説明している城嶋カエデがふと口を止め、手元の資料を伏せて全員を見渡した。
「そうだ、一つ紹介しておくことがある」
低く澄んだ声に、場の空気が少しだけ引き締まる。
彼女は部屋の片隅で窓の外に視線を向けていた俺に顎で示した。
「南雲駿。今回が初参加だ。ゾーン経験はないが、元は探査機器のエンジニア。今回は現地記録係と観測補佐を兼ねてもらう」
全員の視線が俺に集まる。俺は少しだけ居心地悪そうにうなずき、控えめな声で言った。
「……南雲です。よろしくお願いします。記録は、できるだけ正確に残します」
短く、それだけ。
本当はもっと言いたいことがあった。“弟の足跡を追っている”とも、“あの手帳の最後のページの続きを見たい”とも。けれど、ここに集まった者たちは誰もが理由を抱えている。自分だけが特別なわけじゃない。
その声に、ナツキが小さく口笛を吹いた。
「まさか新人くん入りとは思わなかったよ、カエデさん。ゾーンって、校外学習じゃないんだぜ?」
「いいから黙って座ってろ、ナツキ」
カエデは軽く制しつつも、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「駿には個人的な事情もある。詳細は伏せるが、少なくとも“何かを見つけたい”って意志はある。私はそれを信用する」
その言葉に、胸がわずかにあたたかくなる。
何かを見つけたい——
それは真実だった。だが、それと同時に、どこかで恐れてもいた。
もし、弟の残したものが“見てはいけないもの”だったとしたら?
あの手帳に書かれていたことが、妄想などではなく、もっと深い狂気の証だったとしたら?
(それでも、行くしかないんだ)
俺は無言で深くうなずいた。この旅が、戻れない旅になるとしても。
弟の残したノートを握りしめながら、窓の外を見た。暗い山影の向こう、雲の切れ間に、ほんの一瞬、光る何かが浮かんだ気がした。
空の上──それは、まだ誰の地図にも記されていない場所だった。
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