僕を見ないで

羽翼綾人(うよく・あやひと)

第1話:瑠璃色のメイド

「……マジかよ」

 放課後の騒がしい教室に、僕──皆川夏樹みながわ なつき──の乾いた声が響いた。文化祭のクラスの出し物、『コンセプトカフェ』。そのメインキャストを決める運命のくじ引きで、僕が引き当ててしまった紙片。そこに書かれた無慈悲な四文字は、『メイド役』だった。

「よっしゃー! 皆川に決定!」

「あたしじゃなくてよかったー」

 男子たちの囃し立てる声と、女子の一人が漏らした安堵の声が、残酷なコントラストを描く。

 美術部に所属しているというだけで、クラスの装飾や衣装係に駆り出され、その流れでなぜかキャスト候補にまで入れられていたのが運の尽きだった。

「うん、あんたがやるより皆川くんがやる方が絶対モテると思うよ!」と別の女子が笑う。

 僕の背が低く、線が細いこと。日に当たらないせいで肌が白いこと。そして最近、ちょっとコンプレックスになっている中性的な顔立ち。

 その全てが、今この瞬間、クラス全員の賛意を集める強力な理由となっていた。

 もはや、抵抗など、できるわけがない。押しに弱いと言われているけど、これはみんな一度体験してみないとわからないと思う。

 そして文化祭当日──。

 僕の抵抗も虚しく、運命の朝がやってきた。

「夏樹、じっとしてなさい。あんたのその綺麗な肌、台無しにするわけにいかないんだから」

 家の洗面所で、大学生の姉が僕の顔を覗き込みながら、手際よく化粧品を肌に乗せていく。「どうせやるなら完璧にやらないとダサい」というのが姉の持論だった。僕がメイド役に決まったと話すと、「うわぁ」と目を輝かせて自分の化粧ポーチを持ち出してきたのだ。

 ひんやりとした化粧水が肌に馴染み、ファンデーションがそばかすを隠していく。アイラインが引かれるたびに、自分の顔が知らない誰かのものになっていく感覚に、なぜか「ヤバい」という気持ちが強くなってきた。

「姉さん、やりすぎだって……」

「うるさい。中途半端に男らしさを残したら、それこそ男らしくない。徹底的にやるよ。……ほら、目つぶって。シャドウ入れるから」

 姉の指先が、僕の瞼を優しく撫でる。

 普段は乱暴なくせに、今回だけ繊細な手つきになるのが不思議だ。仕上げとして、唇に乗せられた姉のお気に入りのグロスが、薄く光を放つ。

 鏡の前に立たされた僕は、ちょっと別人のようだった。この気持ちを整理するより前に、姉が友達から借りてきたという、最重要アイテムが取り出される。

「これで総仕上げね」

 頭にふわりと乗せられたのは、人毛混じりの自然なウィッグ。丁寧にウェーブのかかった黒髪のロングヘアが、肩にさらりとかかった。

 そこにいたのは、僕が知る「皆川夏樹」ではなかった。少し怯えたような瞳をした少女が、不安そうにこちらを見つめ返している。

「メイクって、もとの人間を消すんだ」

 僕がそういうと、姉はチッチッチと指を振って、否定した。

「もとが良くないと、化粧や飾りだけで綺麗にはならないよ。これなら、アイドルデビューしてもいけるね!」

 学校まで、姉が同行してくれた。道中、日傘で目立たないようにしてくれる。

「秘密兵器、期待してるよ」と校門で別れた。

 学校の更衣室で、クラスで用意された、全ての色を青く染めそうな瑠璃色のメイド服に着替える。

 硬いパニエが内蔵されたスカートは、想像以上に重い。窮屈な感触に戸惑いながら袖を通し、背中のファスナーを上げる。きつく締められたウエストが、頼りない身体の線を強調した。

 僕たちのクラス、2年B組の教室は、見事なカフェへと姿を変えていた。そこに戻ると、先に準備を終えていたクラスの女子たちが、感嘆の声を上げた。

「ヤバ、皆川……超美少女じゃん……『ナツキ』ちゃん、って感じ?」

 その言葉に、心臓が嫌な音を立てた。その時だった。

 がらり、と教室のドアが、賑やかなグループを連れて開かれる。

「おー、ここか噂のカフェは。結構本格的じゃん」

 音声だけで視界が白く光るような快活な声。その声の主を見て、僕は息を呑んだ。

 立岡涼平たておか りょうへい。校内で有名な、2年C組のバスケ部のエースだった。

 もちろん僕も、遠くからその姿を見たことがあるだけだ。彼のような人間と、僕のような人間が話す機会など、これまで一度もなかった。

 その涼平が、僕を見て足を止めた。

 ──あ、目がちょっと笑ってる。

 こんな顔で見られるのは、初めてだ。引き攣るような笑顔。笑いを堪える時の緊張したような表情。

 涼平は、一緒に来た友人たちを置いて、まっすぐに僕の前まで歩いてきた。目が僕の輪郭を追っている。

 ──ツッコミを入れようと見ている。見ている!

 だが、彼は、爽やかな笑顔に戻り、真面目な声で言った。

「……へえ、この学校にこんな可愛い子いたんだ。名前、なんていうの」

「……ナツキ、です」

 喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど細く上ずっていた。なぜかいつものような声が出なかった。姉さんの言葉が脳裏に響き渡る。

『中途半端に男らしさを残したら、それこそ男らしくない』

 よし、だったら徹底して、なりきってやる。僕は女子高生メイドだ。メイドだぞ、男なのに。メイドだぞ、メイド?

 僕が自分一人で勝手に混乱していると、それを打ち消すように、涼平の熱気が近づいてきた。彼の目は、同性ではなく、女子を見る目をしていた。

 ──わかる。なぜなら、僕も去年そういう目で、クラスメイトに告白したからだ。そして、ものの見事に振られてしまった。

「ナツキちゃんか。俺、2年C組の立岡涼平。よろしくな」

 差し出された手は、バスケットボールの感触が残っていそうな、硬く節ばだった指をしていた。

 僕がおずおずと手を乗せると、その大きな手のひらにすっぽりと包み込まれる。熱い。その熱が、肌を焼くようだった。

「ご注文、お決まりですか」

「んー、このクリームソーダ。ナツキちゃんが運んできてくれるんだろ?」

 悪戯っぽく笑う顔に、心臓がうるさく鳴る。セクハラおっさんか。僕が頷くと、涼平は満足そうに席についた。

 震える手でトレーを持ち、涼平のテーブルへ向かう。その途中、他の女子生徒にぶつかられて、ぐらりと体が傾いだ。

「おっ、と……危ない」

 涼平が椅子から素早く立ち上がり、僕の腕を掴んで支えた。トレーの上でグラスが悲鳴のような音を立てた。

「大丈夫か?」

「あ、うん……ごめん」

 涼平の身体がすぐ近くにある。

 汗と、制汗剤の匂いがした。鍛えられた腕の筋肉が、薄いシャツ越しに伝わってくる。

 僕と全く違う、男らしいとしか言いようのない身体だった。

 ほっとしたのも束の間、涼平が床に落ちた伝票を拾おうと屈んだ。

 その時、彼の頭が僕のスカートのすぐ下に潜り込む形になる。ふわりと広がったパニエの下で、姉に借りたレースのストッキングに包まれた僕の膝に、涼平の柔らかい髪が触れた。

「……っ」

 息を呑む。涼平は何も気づかず、「あった」と伝票を拾い上げて顔を上げた。至近距離で目が合う。涼平の瞳が、何かを探るように僕の顔を見つめた。

「……いい匂いするな。シャンプー?」

「……え」

「いや、なんでもない。サンキュな、クリームソーダ」

 何事もなかったかのように席に戻る涼平。

 僕は、熱くなった顔を隠すように、足早にその場を離れることしかできなかった。

 ──立岡涼平。あの男は、スケベすぎる!

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