バス

氷星凪

バス

「じゃあ、山下さん。今回の行方不明事件について、何か覚えていることありませんか?」


 石の壁で四方が囲まれ、その真ん中に机と椅子が二脚あるだけの簡素な部屋。そこで向かい合うように私と警官が座っていた。


 警官の質問に私は頭を掻き、片目を瞑りながら、ついこの前乗ったバスでの出来事を必死に思い出そうとする。


「覚えていること……ですか。……うーん」


     ※    ※    ※


「それでは、お待たせ致しました。20:45分発ナチュラルライナー7便にご搭乗される方、1階にて受付をお済ませ下さい」


 女性のアナウンスがビル内の待合室に響き渡る。移動する人の波の後をつけながら、私は今にも弾けてしまいそうなほど大きく膨らんだキャリーケースをゆっくりと引きずっていった。


 取っ手をしまい、すぐに短い持ち手に持ちかえる。キャリーケースを両腕で持ち上げながら、腰に負担をかけないように一歩ずつ慎重に階段を降りると、それだけで汗が滝のように出てきた。階段を下り終わると、そこにはまた人の群れ。


 ワイシャツのポケットからレシートのような紙切れを取り出し、受付の若めの女性にそれを差し出す。紙に記載されたQRコードが軽い電子音と共に読み込まれ、受付完了。そのまま人の流れに飲み込まれるように、私は外へと出た。


 既に日は落ちていた。目の前には、大きな道路。列の進行方向に自然と目をやると、その道路上に一台の大きなバスが止まっているのが見えた。運転席の上には、なんば発→熱海行の文字。正直、ここで私はやっと家に帰れるのだと確信し、ほっと胸を撫で下ろした。


 周囲から時々聞こえる関西弁。重い荷物も去ることながら、慣れない土地での空気はどうも体に絡みつき、少し動くだけでも疲労感は酷く積み重なった。


 汗をワイシャツに染み込ませながら、バスのトランクの側に並ぶ列が進むのを待つ。運転手と思われる、自分と同じくらいの中年のガタイの良い男性がどんどんと乗客の荷物をトランクに押し込んでいくのと共に列が滑らかに前へと進む。


 そんな姿を見て、最近膨らみ出してきた自分の腹の肉をグッとつまむ。首を傾げながら、汗を拭き。なんてことを繰り返して順番が回ってきた頃には、もう持ってきたペットボトルの水を半分以上飲み干していた。


「すみません、お願いします」


「はい、じゃあ荷物お預かり致します。お客さん、どちらまで行かれますか?」


「えーと、あの東京で」


「了解です。東京っちゅうことは、池袋でよろしかったですか?」


「あ、はい、そうです」


 不慣れゆえのテンポの悪い会話。手渡された荷物預かり証明の腕輪のようなものを手につけ、そのまま人生で二回目の夜行バスの中へと歩を進める。

 受付で差し出した紙切れを見ながら、自分の座席を探していく。あった。左の列の前から三番目。席は窓側と通路側に二つで、自分は通路側だ。


 腰をかけると、思わず声が出た。大きく伸びをし、ふーっと長めに息を吐くと、無意識に自分がシートの背もたれに全体重を預けているのに気づいた。


 とりあえず、良かった。ポケットに手を入れて、今出てきても嬉しくない、会社から支給された復路分の新幹線のチケットを探してみる。ない、やはり失くしていたのだ。

 どこで失くしたのか考えてみようとしたが、もうそれも疲れていたのでやめた。なにせ、そのことに今日の朝気づき、一日中帰宅手段を用意するのに追われていたのだから。


 とは言っても、夜行バスは個人的に最後の手段といった感じだ。前に乗った時には隣の客のいびきがうるさすぎて寝れなかったことがあるし、何より人との距離が近く、プライベートゾーンに入られているような気がしてあまり好きではない。今回はトラブルなどなければいいのだが。


 そんなことを、思っていたら。


「あ、すみませーん。入ります」


 どこか淡白な声がして、スマホを見ていた顔を上げる。そこにいたのは恐らく二十代前半くらいの若めの男。私が体をどけると、彼は頭を下げながら、どこか弱々しい声ですみませんと繰り返しながら私の隣に座った。


 黒髪で、Tシャツにチノパンといったラフな格好をしていて、体型は少し細め。あまりオラオラとしたタイプではなく、どこか落ち着いた印象で謙虚な雰囲気。


 その弱々しさが、私にとって好印象だった。内心、夜行バスを使うにあたって、どんな人が隣に座るのかが個人的に一番心配していたところだった。


 だが、彼の雰囲気から、私が危惧していた怖い人、または少し危なそうな人、のような感じではないという印象を受けたため、私は本当の意味で全身の力を抜くことが出来た。


「あ、すいません」


 話しかけると、彼は焦った表情をしてスマホを見ている顔をすぐにこちらに向ける。


「冷房もらってもいいすかね?」


 指で天井の方を指して、その存在を彼に示す。窓側の席の天井には二つ、通路側に風が来る冷房と窓側用の冷房があり、それを動かせるのは彼だった。私は垂れる汗を手で拭いながら、彼への信用の意を込めてその要望を伝えてみた。


「あ……はい。分かりました。ちょっと、待ってください」


 彼は困惑しながらも天井に手を伸ばし、通路側の冷房を調整する。すぐさま冷たい風が肌に当たってきて、私は頬の緊張が緩んだ。


「これで、大丈夫ですかね?」


「OKです、ありがとうございます」


 冷房がついた喜びとこの人への信頼感が重なり、私は笑顔で感謝を述べる。そうすると、彼もわずかに微笑み、またスマホの画面に視線を戻した。彼は元々猫背気味だったが、その時の彼はなんだかより縮こまって見えた気がした。


 乗客の流れが落ち着き、全員が席に着く。その様子を確認した運転手が、運転席の隣でシーバーを持ち、バス内にその声を響かせる。


「只今、お客様全員の乗車を確認致しました。それでは、なんば発熱海行ナチュラルライナー7便出発とさせていただきます。バス動き出しましたら、車両前部の天井並びに車両中部の天井から出ますモニターに、映像が流れますのでまずはそちらをご覧ください。では、改めまして出発とさせていただきます」


 そう言って、運転手は座席と運転席を隔てるカーテンを閉める。しばらくしてバスが動き出すと、言った通りに天井からモニターが飛び出し、そこに女性のナレーターの声と共に映像が流れ出した。


「本日はナチュラルライナーをご利用いただきありがとうございます!この映像では、バス内の設備や消灯時のルールについて紹介させていただきます!それではまず座席のリクライニング機能について……」



「これで、説明は以上となります!それでは、ぜひ快適な旅をお楽しみください」


 映像が一通り流れ終わった。映像内の指示により、私含めて乗客は今全員シートのリクライニングを水平より少し起こした状態まで下げている。


 私はどうしてもシートに座って寝るということにどうにも苦手意識があったので、これである程度は眠れそうだと心の中でガッツポーズをした。


「それでは、これから十分後に車内消灯致します。映像内でもありましたが、消灯後は携帯電話などの電子機器の使用はお控えください。なお、運転手の交代等の理由のため、二時間おきにSAへの停車を行い、乗客の皆さん含めた休憩時間を取らさせていただきます。どうぞ、よろしくお願い致します」


 一つ、自分にとってストレスだったのは、今運転手さんがアナウンスしたように消灯後はスマホを触れないということだ。

 就寝時には毎回イヤホンで音楽を聴きながら寝落ちするというスタイルを取っている自分にとって、それが出来ないというのはかなり痛手である。


 何しろ明日も出勤する予定があるため、移動時間に来週のプレゼンに使うスライドの未完成部分を無理矢理にでも仕上げておきたいと思っていたのだが……。だが、ルールはルールだ。今のうちに、何か返信していないメッセージがないか確認しておこう。


 ポケットにしまっていたスマホを取り出す。時刻は現在21:20。次の休憩は23:30ほどになるであろう。それで、東京に着くのは恐らく5:30〜6:00ぐらいになると予想される。

 改めて考えると、長い。これは早めに寝て、時間を潰してしまうのが最適だろう。そう思いながら、LINEのアプリを開き、まだ未読のメッセージを確認する。


 妻からのLINE。明日の朝、子供を保育園に送ってほしいとの内容。思わず、頭を掻く、が文面ではそんな態度を見せずに了承の返信。


 課長からのLINE。大阪の取引先との結果の簡単な報告が欲しいという内容。取引先の方の苦虫を噛むような顔を思い出して、少し眉間に皺を寄せながら文字を打つ。結構な文字数をまとめてメッセージで送信。


 それで終わりかと思いきや、次は先月の成果報告書に記入漏れがあったとの話題に。所々明記すべき数字が抜け落ちていたらしい、文面から分かる明らかに怒っている口調に、何度も何度も申し訳ございません、と返信をする。


 既読になっているも、中々返信が返ってこない状態に胃がキリキリしてしまう。やっと返ってきたと思ったら、同じような内容で、でもただ怒っていることは伝わってくるような文章。既視感のある文章のラリーを何回か続けていると、車内の電気がゆっくりと消えていった。


 消灯の時間だ。慌ててスマホの電源を切り、ポケットに戻す。そして、それが済み、しばらく暗闇の車内の虚空を見つめる時間を経て。私は、シートに強くもたれかかると、今日一番の深いため息を口から車内へと移して行った。


 突如積み重なったそれらの問題を、私はもう一度想起することすらしなかった。もう、今日は寝よう。一旦寝て、また明日の朝に考えよう。そう思って、あくびを一つした後、目をゆっくりと瞑る。


 いつもと違う状況で全身の緊張が変に抜けないせいか、それとものしかかるストレスのせいか、中々寝付けない。バスの揺れに身を任せつつ、なんとか微睡むように睡眠の神様に祈る。


 息を吸い、大きく吐く。やけくそな呼吸法を続けながら、ひたすら目を瞑り続ける。だがそれも虚しく、ただいたずらに時間だけが過ぎていくのだった。


     ※    ※    ※


 バスの揺れが、眠ろうとする自分の意思を嘲笑うかのように体にちょっかいをかけてくる。あれから、何時間が経っただろう。もうすぐ休憩だろうか。いやまだ一時間しか経っていないのではないか。


 腰がもう既に痛くなってきた。いくらリクライニングを倒しているとはいえ、やはり寝付けない。乗車前にあれほど水を飲んだのが起因して、トイレを我慢するというタスクも重なっていて尚更無理だ。それに寝付けない一番の理由がまだあり。


 私は左膝に当たる、その物の感覚に視線を動かす。隣の男が大胆にも足を大きく広げて寝ているのだ。口を大きく開けた状態で、天井を向いて寝ている。それはまだ良い。だが、その大きく広げた足が完全に私のシートの範囲の約三分の一を占領している。


 右側の肘置きに追いやられるような形で、私は座ることを余儀なくされていた。それでも足が左膝に当たってくるもんだから、もはや痛みまで感じるほどだった。


 バスが進むにつれ、私の中の彼への怒りは着実に湧き上がってきており、それももう限界の頃だった。

 ずっと直進していたバスが、緩やかに曲がる動きを行ったと思ったら、その動きを何度か繰り返した後、静かに停車した。


「えー、それではこれより二十分ほどの休憩を取らせていただきます。外に出られる方は、出口付近に表示されている時刻までにお戻りください」


 運転手のアナウンスが流れ、ほんのりと車内に明かりが戻る。それに気付いたのか、隣の男が閉じていた目を開けた。私はそれに気づくと、その男の方を向いて声をかける。


「あのすいません。ちょっと、足を退けてもらっていいですか?」


「ん、何」


 男は寝ぼけていたのか、目を擦りながら軽い返事をした。それが私の溜まった怒りにほんの少しだが油を注いだ。


「……あの、足。やめてもらえる?こっちずっと体勢きついんだけど」


 意識的に声色を低めて言う。そうすると、男は目をゆっくりと見開き、焦ったような顔をして広げていた右足を閉じた。


「あっ、あ、すいません」


「うん」


 簡単な返事を残し、私はシートから席を立った。その時にほんの少し見えた彼の顔の口角が微妙に上がっていたような気がして、少し不気味に思う気持ちと、彼の態度に対する新たな怒りの気持ちの両方が芽生えた。


 結局こうなるのか、と頭を勢いよく掻きながらバスを降り、適当にトイレを済ましたり、外で腰を伸ばしたりしてみた。本当に少しだけだが、疲れが取れた気がした。


 休憩から帰ると、隣の男は窓際の壁にピッタリと沿うように両足をくっつけて目を瞑っていた。再びバスが走り始めてからも、ずっとその格好で彼の姿勢は固定されたままだった。


 反省したんだろうなというのは分かるが、その具合があまりにも過剰だったように私は感じた。まるで私が叱ったことへの当てつけのような態度に見え、余計に腹が立った。


 その次の二時間は、気づいたら終わっていた。隣の男からの妨害が無かったおかげか、走り出してから早めに寝落ちすることが出来たのだ。次に私が起きたのは二度目の休憩時間、何やら大きな物音が聞こえた時だった。


「お前さぁ、はよリクライニング戻せや」


 後ろから、関西人のおじさんの野太い声。その声で起きた私は、最初自分が言われているのかと焦って声のする方向を見たが、どうやらその男は隣の男の後ろに座っており、先ほど私が注意した男と会話をしているようだった。


「すみません」


「すみません、じゃなくてさぁ。通れんやろ、このままじゃ。はよ戻せよ」


 先ほどしていた物音は、隣の男がシートの側面に付いている、リクライニングを調整するレバーを引く音だった。その関西人のおじさんの声を聞き、自分も慌ててレバーを引き、シートのリクライニングを元の位置に戻す。


 一方、隣の男は何回かレバーを引いているが、機器が壊れているのか、シートが中々起き上がらない。


「はよせぇや!何チンタラしとんねん」


「すみません……、すみません……」


 後ろの席のおじさんの貧乏ゆすりが静かに車内に響く。隣の席の男がレバーを乱暴に何回も動かしながら、謝罪を溢し続けていると。彼の前の席にいる眼鏡をかけた男がしかめた顔をシートから飛び出させ、男の肩を叩く。


「あのさあ、うるせえよ。こっち、寝てんだわ。周りのこと考えてくんね?」


 その男の視線は、完全に私の隣の若者だけに向いており、その言葉も彼にだけ向けられたようだった。レバーを動かす手を止め、眼鏡の彼にもすいません、すいません、と隣の男は必死に謝罪を続けていた。


「ああもうええわ。お前、あとで覚悟しとけよ?」


 関西人のおじさんはそう言い捨ててからぶっきらぼうに立ち上がり、バスを降りていってしまった。私はその場にいるのがなんだか気まずいような気がして、そのおじさんの後を追うようにして、バスを降りた。


 休憩が終わり、全員がバスに乗ったことを確認すると、またバスは無機質なエンジン音と共に走り出した。

 再びの消灯による、暗くなる車内。静かな走行音が響く中、さっき寝た影響か、今度は打って変わって私の目はかなり鮮明に覚めていた。


 ふと横を見ると、私の注意を受けたからか未だ体を窓側に縮こまらせている若い男。だが、その体は縮こまっているようで、私の目にはなぜか以前より不思議と伸びているように見えた。

 足が長い、というかこんなに身長が高かったか、というような。


 まあ、元々猫背気味だったからかもしれない、と自分の中で納得しようとすると、突然その席が鈍い音と共に前後に勢いよく揺れた。

 一瞬、心臓がドキッとする。その揺れは、それから何度も続いて行った。これはなんだ、と最初は疑問に思ったが、その原因はすぐに分かった。


 後ろの席のおじさんが、隣の男が座っている席を足で何度も蹴っているのだ。暗闇の中で、ドン、ドン、と鈍い音をしながら揺れるシート。

 おじさんの怒りは、収まっていなかったようだ。ドン、ドン、ドン、ドン。シートは不定期に揺れ、それに付随して若者の体も揺れる。


 若者は、ただただ硬直していた。左腕を膝の上に、右腕を顔の上に乗せて両目を隠すような形でシートにもたれかかったまま、その蹴りによる揺れをずっと受け続ける。


 その時も、彼の口角はジリジリと上がっていた。この時には既に、私の中で彼に対してm不気味さよりも怒りの方が勝る状態になっていた。なぜこいつは笑っているんだ?人に迷惑をかけて反省していないのか?


 今はまだ彼にだけおじさんの標的が向いているから良いが、この愚かな若者のせいで次は自分が怒られるかもしれない。

 そうなったら、いよいよこいつのせいだ。こいつのせいで私の旅は全て崩れ去ってしまう。そう考えるだけで、この男に対する怒りは何倍も、何十倍にも膨れ上がっていった。


 結局、そのシート蹴りは次の休憩時間まで続いた。バス内の明かりが点いた途端、私はスマホを持ち、即座に立ち上がってバスを降りた。隣の彼の顔を見たくなかったからだ。見てしまうと、自分の心の中の声が全て漏れてしまうような気がして。


 トイレを済まし、スマホの画面を確認する。3:20、最高でもあと三時間もすれば池袋に着くだろう。この旅の終盤が見えてきて、思わずもう何度目かも分からない大きい伸びをする。


 空を包む暗闇。周囲を見回してもこのSAは山に囲まれており、まだまだ夜という雰囲気を感じさせる。だが、ラストスパートといったところだろう。あと少し腰の痛みを我慢すれば、家のベッドで好きなだけ寝れるのだ。

 まあもちろん課題は山積みなのだが、それはひとまず考えないようにしておかないと今を乗り越えられない気がした。


 トイレからバスの乗り口に向かう道中。ふと視界の端に、見覚えのある人々が見えた。SAの通路のような所で会話する三人。

 あれは、私の隣に座っている若者と、関西弁のおじさんと、もう一人は運転手さんのようだ。


「お前、さっきから何ニヤニヤしてんだよ。なあ、俺のことなめとんか?」


 遠くからでも聞こえてくるほどの声の大きさ。若者に詰め寄るおじさん。その反対側で腰に手を当て、帽子を外した状態で険しい顔をしている運転手。


「お客さん、リクライニング壊れたとかあの全然こちらに言ってもらっていいので。そういうの早く言ってください。トラブルになると、こちらも面倒臭いので」


 両側から詰められる若者。それでも、私は彼のことが可哀想だとは思えなかった。だって、彼が全て悪いのだ。あいつのせいで、私や、おじさんや、運転手が迷惑をしているのだ。


「あーもうこの旅台無しや!お前のせいやからな!」


「こちらとしても、あなたのせいという対応になってしまいますので」


「すいません、すいません」


 あまり見過ぎていても巻き込まれる気がして、私はそれからその場を去ってバスに乗り込み、疲労した自分には硬すぎるシートに腰を下ろした。

 そのままスマホを見ていると、関西人のおじさん、その他諸々の乗客が次々と車内に戻ってきて、座席へと座っていった。


 眠る体勢に入ったり、飲み物を飲んだり、スマホをいじったりと、各々が好きなことをし、バスの出発を待っている。だが、今回の休憩終了予定時刻を十分も過ぎてもバスは動く気配は無かった。


 何やら運転手二人が、運転席の近くで話し合いをしている。運転手の交代でもするのかと思ったが、どうやらそんな雰囲気ではない。

 そのまままた一分、二分、三分、と時間が過ぎていき、車内も少し困惑の声で騒がしくなってきたところだった。運転手の一人が運転席近くのシーバーを取り、眉を顰めた状態でアナウンスを始めた。


「えー、乗客の皆さん大変お待たせして、申し訳ございません。現在、休憩時間が終了し、出発の時刻になったのですが、未だお客様の一人がお戻りになっておらず、出発が出来兼ねている状況でございます」


 更に騒がしくなる車内。私はふと隣の席に視線を移すと、そこに男の姿は無かった。戻ってきていないのは、あいつか。アナウンスは続く。


「只今、会社の方に連絡を取り、出発の許可並びに今後の対応について確認している次第であります。出発が遅れてしまい、大変申し訳ございません。確認が取れ次第、お客様に報告させていただきたいと思います。今しばらく、お待ちください」


 窓側の席が空いたことにより、窓から外が見えるようになっていた。そこには、もう一人の運転手がSAの駐車場で電話をしている姿が見えた。


 私はそれからしきりに時間を確認した。3:40、3:50、4:00、数分、数十分が過ぎても運転手からの報告は無い。ただシートに腰が沈み込むだけの時間。自分含めて車内は非常に険悪な雰囲気になり始めていた。


 いつになったら帰れるのだろう。そう思って貧乏ゆすりが激しくなった矢先、後ろの席から男性の大きな声がした。


「あの、すいませーん!これいつになったら発車するんすかねー?」


 その声の主の男性は、真ん中の通路を歩いてバスの前面に移動し、運転手へ詰め寄っていく。


「僕、この後結構大事な商談の案件入ってるんで。遅れたら結構な損害になっちゃうんですけど、なんか責任とか取ってくれるんですかね」


「申し訳ございません、現在対応中でして……」


「すみません、私もいいですか!私もこの後飛行機乗らなきゃいけないんですけど、間に合わなかったらチケット代出してくれるんですか」


「これいつ発車するの?」


「いつまで対応してんだよ。流石に遅すぎだろ」


 一人が声を発すると、堰を切ったように他の乗客も運転手にこれでもかと詰め寄り始めた。時間が経つにつれ、その勢いは更に激しいものになり、運転手の声はとうに乗客達の声にかき消されていた。


 窓の外を見ても、未だ電話を続けるもう一人の運転手の姿が見えるのみ。現状の膠着状態に私自身も、もう我慢の限界だった。


 早く家に帰りたい、虚像でもいいからとにかく何か物事が進んでいる感覚が欲しい。そんな考えを浮かべると、私はいてもたってもいられなくなり、その場に勢いよく立ち上がった。


「すみません!」


 出したことのない大声に自分も思わず狼狽える。一瞬にして静まった車内の中で、多くの乗客の視線が痛いほど突き刺さってくる。


 私は、なるべく落ち着いて話すことをとにかく意識しながらゆっくりと言葉を紡いでいった。


「これだけ待たされているんです。大人しく会社からの応答を待つというのは私も限界ですし、皆さんも限界だと思います」


 一人一人が唾を飲んで、こちらをまっすぐな目で見る。右手を上げながら、私はそのまま淡々と語りを続けた。


「いなくなったのは、私の隣の席の男性の方です。彼をこのSAから探し出せば、全ての問題は解決します!どうか皆さん、ここは一つ協力して、彼を探し出してみませんか。その行動は、ここで座っていたり、抗議したりするよりも遥かに有意義だと私は思います」


 黙り込む乗客達。抗議していた人々も、座っている人々も見渡せば、どこか俯いており、首を傾げている。その様子を見て、私は一つ大きく息を吸ってから、声を。


「あいつが悪いんです。皆さんも、運転手の方も、悪くないんです。全部、あいつのせいなんです!皆さん探しに行きましょう!そして、彼に全て吐き出してやりましょう!」


 静寂。静寂。一人の、拍手。拍手。拍手。それは広がっていき、座っていた乗客も徐々に立ち上がっていく。最初に抗議の声を上げた男性がこちらに近づいてきて、手を差し伸べる。


「……分かりました。やりましょう。皆さんも、探しに行きましょう!」


 私は強く彼の手を握りしめ、周囲に声をかけるその男性の姿に異常な喜びを覚えた。

 自分の口から、隣に座っていた若者の大まかな特徴をその場にいる人々に伝えると、最初に声を上げた男性を先導として乗客達は次々とバスを降りて行き、すぐにSA内の捜索を開始した。


 人がいなくなった車内の中で、私は運転手に頭を下げられた。


「助かりました。あなたが声をかけてくれなかったら、こちらもどうなっていたことか。感謝しきれません」


「いえ、そんなこと。全部あいつが悪いんですから」


「そう……ですよね。本当は……全部、あいつが悪いんですよね」


 笑顔を見せる運転手との会話を済ませ、私と彼もバスから降り、散らばってあいつの捜索を始めていった。

 文句を言っていた関西人のおじさんや、男の前に座っていた眼鏡の男性ともコミュニケーションを取って情報共有をするが、中々あいつは見つからない。


 サービスエリアの中。いない。トイレの中。個室の中も全て調べたがいない、女子トイレにもいなかったそうだ。広い駐車場。夜も更けているからか、車はほとんど止まっていない。それゆえ、車の陰に隠れていたらすぐ分かるのだが。ここにも、いない。


 喫煙室の中。いない。電話ボックス。いない。自販機の下。いない。バスのトランクの中。いない。


 いない。いない。いない。乗客のみんな、血眼になって探した。どこだ。どこにいる。どこに隠れてる。どこに逃げた。どこだ。どこだ。どこだ。

 段々と憎悪が湧き上がる。怒り。怒りとも言えない何か。赤黒い塊。体の中で疼き。探し。いない。いない。いない。


「いたぞー!」


 突如、遠くから聞こえてきた男性の声。それに吸い寄せられるように、みなが全速力で声がした方向に走っていく。腕を必死に振り、顎を上下させながらその方へ。


 見えたのは、SAから少し離れた、バイクを停める場所。その目の前には鉄のフェンスが張られており、そのフェンスに下から生い茂ったつるがしつこく巻きついている。

 フェンスの周り自体も草木が所々被さるように生えており、草をかき分けてやっとその鉄の網の一端が見えるというような状態だ。


 そのフェンスの先の暗闇の中に、確かにいた。Tシャツにチノパンを履いて、暗闇の奥の方を見て立っている、あいつの姿が見えて。


 他の乗客に続き、私も一心不乱に自分の身長の倍はあるフェンスをよじ登る。指に力を入れ、関節が腫れるまで隙間に食い込ませる。

 次の隙間。また次の。登っていくうちに枝が掠れ、腕や足から血が流れている箇所があった。だが、そんなのどうでも良い。


 とにかく登る。登り切り、フェンスの上から草むらに転げ落ちると、その衝撃で腰が酷く痛んだのを感じ。どうでもいい。


 四本ある自分の手足を活用して、必死に草むらを駆けていく。その立っている男めがけて。男の元にどんどんと人が集まってくる。

 男のそばに着くと、私含めて乗客は立った状態でそいつを囲むようにしてその場に円を描いていく。そして、全員でその男に目掛けて思いっきり言葉を吐き出す。


「お前のせいで」


「お前のせいで!」


「バスが」


「予定が」


「運転手としての仕事が」


「邪魔された」


「バカにしとんのか?」


「ふざけんな!」


 男は罵声を浴び続ける。それでも、ただ立ちすくんだまま、またあの時みたいに口角を上げて。


「何笑ってんだ!」


「人が迷惑してんだぞ!」


「お前のせいだ」


「お前のせいだ」


「お前のせいだ」


 段々と男の体が大きくなっていく。口角を上げたまま、徐々に彼の体は縦に伸びていき。伸びていき。どんどんと伸びていき。そこにいる人々の身長なんか、とうに超えて。倍ぐらいの大きさになって。それにすら、私はどんどんと腹が立ってきて。


「お前のせいだ」


「お前のせいだ」


「お前のせいだ」

 

「お前のせいだ」


「お前のせいだ」


「お前のせいだ」


 彼の口角が更に上がる。そこで気づいた。そいつは笑っていたのではない。口が裂けていっていたのだ。そのままそこを起点に、彼の体全体が縦にぱっくりと割れ。


 ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。ぶん。


 羽音が鳴り響く。その裂け目からそいつと同じ顔をした小さな人型の羽の生えた何かが、夥しい数飛び出していった。

 それらの通る風で、森がざわめき始める。木の葉が舞い上がり、それでもまだその小さな人型のものは裂け目から途切れることなく飛び出し続ける。


「おい!うるせえよ」


「うるさい!」


「ふざけんな!」


「お前のせいなんだよ!」


「全部、全部、お前のせいだ」


 その人型のものは、集団であらゆる方向に飛び立っていった。ぶん。ぶん。ぶん。耳を嘲笑うような不快な羽音。最悪だ。全部!全部だ!全部お前のせいだ。



「うわぁっ!」


 シートから飛び出すように、思わず体を起こす。周囲をくまなく見渡す。視界に映るのは、バスの車内。そして、私は今、確かにシートに座っている。


「それでは、休憩時間が終了しましたのでまもなく出発致します。このバス、川崎、池袋、熱海の順で停車させていただきます。この先、お降りになられます方は荷物の準備と忘れ物の確認お願い致します。それでは、バス動きます」


 聞き慣れた運転手のアナウンスが流れ、宣言通りバスはゆっくりと動き出した。私は右手を頭につけ、思わず顔を俯かせる。額に流れる汗を手で拭い、一度大きく深呼吸をする。


 あれは、夢、だったのか。というか、見てたとして、そもそも何の夢を見てたんだっけ。隣の席に視線を移す。そこには、誰もいない。確かにいたような気も、いなかったような気もする。


 これは一体なんなんだ。進み続けるバスの中、私はまだ不思議な違和感の中に取り残されたままで、それがなんだかむず痒く。


     ※    ※    ※


「すいません、私、ほとんど寝ちゃってたもんで。ちょっとバスに乗ってる他の人のこととかは……あんまり思い出せないですね」


「そう……ですか……」


こちらにまっすぐな目を向けていた警官は、ため息混じりに調書へ筆を走らせる。私はいつもより良い姿勢を意識して、その様子をただ黙っていた。


 警官の手が止まり、鉛筆をトントンと机に打ち付けると。


「一応他の乗客の方全員にも事情聴取はさせてもらったんですけど、みなさんも同じく覚えてないと言うんですよ」


「は、はあ」


「んーまあ、だからこんなこと言うのもなんなんですけど。山下さん、一応あなたが乗客の中での最後の参考人なんで、何か覚えてないかなーって」


 些細なことでもいいんです、と更に警官に釘を刺される。私は腕に汗が滲んでくるのを感じながら、なんとか頭を捻ってみる。


 でも、出てくる記憶は特に何気ないバス旅の風景。快適な旅の記憶。


「改めて言いますけど、行方不明になった乗客の方?私達が調べたところによると、まあ若めで、ちょっと華奢な男性の方で。山下さん、本当に何も覚えてないですか?」


 彼と目が合う。私は、右手で鼻を擦り、それから少し黙る。ほんの少し前のめりになっている警官を前に、眉を顰めながら私はゆっくりと口を開いた。


「すみません。やっぱり、特に変わった事は無かったように思えます。お力になれず、申し訳ないです」


 警官はその言葉を聞き、我に返ったような顔をして、椅子の背もたれへと寄りかかっていく。


「……です、よね。そうですよね。私の方こそ、すいません」


 小さく頭を下げながら、調書に再び筆を走らせる彼。書き終わったのか、彼は筆を静かに机に置くと、私の方を見ずに最低限の動きで声を発した。


「……せい、ですよね」


「え?」


 私は思わず聞き返す。警官は目を大きく見開いて、背骨をピンと張る。そのまま、口だけが開いたり、閉まったりを繰り返していた。


「こんな情報もないまま消えるって、こっちの労力も考えて欲しいですよね。また情報集めて、調べて、探してって。大変なんですよ。行方不明になったせいで、私達が動かなければいけないんです。行方不明になったせいで、あなた達に話を聞かなければならないんです」


 その間、体は一切動いていなかった。


「あいつのせいですよ」


「警官さん?」


「あいつのせいですよ」


「警官さん?」


「あいつのせいですよ」


「……」


 警官は俯き続け、帽子の影で表情が見えなくなっていた。正直、変わった人だと思った。

 でも、言っていることはやはり警察らしく真っ当な意見を言っていて、そのギャップに私は不思議な感情を覚えた。


 私は呟き続ける警官の肩を叩く。そうすると、彼はまた我に帰ったような顔をして、また椅子に座り直した。


すいませんあいつのせいだ……、ちょっと取り乱しちゃいましてあいつのせいだあいつのせいだ


「……私にはあいつのせいだ分かりかねますけどあいつのせいだあいつのせいだ警察の仕事ってあいつのせいだやっぱり大変なんですねあいつのせいだあいつのせいだ


ええ、まああいつのせいだでも、やりがいのある仕事ですよあいつのせいだあいつのせいだ


 緊張感から解き放たれたからか、私は自然な笑顔を溢せるようになっていた。それに呼応して、警官も小さく笑いながら手を後方に上げ、後ろの荷物置きを指した。


それじゃああいつのせいだ今回の聴取はあいつのせいだ終わりですのであいつのせいだそちらの荷物を持っあいつのせいだてお帰りくださいあいつのせいだ


 私は椅子から立ち上がり、指された荷物置きから持参したバッグを肩にかける。警官がドアを開けてくれ、私は会釈しながら取調室を後にした。


この度はあいつのせいだ捜査へのごあいつのせいだ協力ありあいつのせいだがとうごあいつのせいだざいましたあいつのせいだ


 後ろから聞こえた声に、また会釈する。やはり、変わった人だが悪い人ではなさそうだ。


 本当に悪い人は、この世にもっと、もっと、いる。数えきれないほどいくらでもいるだろう。


















いやいま



















ひとりしかいないだれのせいですか

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