半島三国志演義 ~三国の夜明け~

五平

第1話 天より降る武将

『檀国紀』第一巻に曰く――東方の霧深き山々に、天より武将降り立ち、国の礎を築く、と。


東の果て、人跡未踏の山々が連なる地。そこは、濃密な霧に閉ざされ、光さえも届かぬとされた神域だった。肌を刺すような霧の冷たさが、すべての感覚を鈍らせる。古き神々が忘れ去られ、ただ獣の咆哮だけが響くその森の奥深く、天から一筋の光が差し込んだ。

(※考古学者たちは、この一帯を『天降山の神域(てんこうざんのしんいき)』と呼び、その山頂の奇妙な窪みは、天から何かが降り立った痕跡、あるいは遥か昔に忌まわしき神が封じられた場所だと伝えられている)

光が収まると、そこに一人の若き武将が立っていた。

武将は黄金に輝く甲冑を身につけ、背には天を衝くほどの長大な太刀を背負っていた。彼の名は桓雄(ファヌン)。天照大神の勅命を受け、この荒ぶる地に新しき国を築くため、天から降り立った神の子だった。


「……これが、この地の『始まり』か」


桓雄は静かに呟いた。彼の使命は、この地に秩序と法をもたらすこと。だが、彼がこの地に降り立った瞬間、天から与えられた使命とは異なる、かすかな「違和感」を覚えた。それは、彼自身の意志と、この地が持つ野生の魂との間に生じた、小さな軋轢だった。

(※後世の歴史家は、この『違和感』こそが、神の子が人間としての心を獲得した最初の瞬間だと記している)


森の奥で、桓雄は二つの精霊に出会う。

一人は、月の光を浴びたかのように美しい乙女。彼女は熊の毛皮をまとい、その瞳は慈愛に満ちていた。名を熊姫(ウンヒ)という。彼女は、争いを嫌い、ただ静かにこの地の生命を見守り、育むことを願っていた。

もう一人は、岩のように逞しい男。彼の体には虎の毛皮が巻きつけられ、その眼光は獲物を狙う猛獣のようだった。名を虎武者(ホムジャ)という。彼は武力こそが秩序であり、弱者は強者の支配に従うべきだと信じていた。


「我らは、お前が真の王たる器か、見定めに来た」


虎武者はそう言って、桓雄に試練を課した。それは、百日間、陽の光の届かぬ洞窟で、ただひたすら己と向き合うというもの。

「この試練は、お前が我らのような獣ではなく、真の『人』となるためのもの」

熊姫はそう付け加えた。しかし、桓雄には分かっていた。虎武者は「屈従」を、熊姫は「忍耐」を試しているのだと。この試練は、単なる通過儀礼ではなく、「力による支配」か「心による統治」か、その選択を迫るものだった。


百日間、桓雄はただ一人、暗く、冷たい湿気に満ちた洞窟の中で瞑想を続けた。彼の脳裏には、天から与えられた使命が去来する。だが、それと同時に、洞窟の入り口から差し込まれる、ほんのわずかな光の中に、そっと置かれた『霊茸(れいじょう)』という名の薬草を見つけた。それは、熊姫が彼の身を案じ、そっと置いていったものだった。

(※発掘調査で出土したこの霊茸の化石化片に刻まれた古代文字は、一部が欠損しており、当時の民がこの薬草を何と呼んでいたか、真意は不明である)

その日、彼の心に再び「違和感」が生まれた。それは、神の論理では説明できない、人の心が生み出す「情」というものだった。


百日目の朝。洞窟を出た桓雄を待っていたのは、まばゆいばかりの朝日の光だった。その光に目を細めながら、彼は虎武者の鋭い視線と、熊姫の穏やかな微笑みと向き合った。

「どうだ? 我が力に従うか? それとも、この地を去るか?」

虎武者がそう言い放つ。だが、桓雄はすでに答えを決めていた。

「私は、この地の王となる。だが、お主のような力に頼ってはならぬ」

桓雄は、虎武者の目を真っ直ぐに見据えて言った。そして、静かに熊姫の方を向き、彼女の手を取った。

「私は、この地を力で治めるのではない。お主が願うように、心で治めよう」


虎武者はその言葉に、激しい怒りを露わにした。彼の背後に、虎の巨大な影が揺らめく。その怒りの瞳には、決して消えることのない「屈辱」が宿っていた。

だが、桓雄の眼差しには、もはや迷いはなかった。神の子としてではなく、この地に生きる一人の男として、彼は自らの意志で道を選び取ったのだ。

やがて、桓雄と熊姫は結ばれた。二人の間に、一人の男の子が生まれる。その子こそが、この国に平和をもたらすことになる、後の檀国丸であった。

新しい国の夜明けが、今、始まろうとしていた。


その夜、虎武者は密かに森を去った。彼の足音は、怒りと焦燥からか、普段よりも荒く、まるで大地を噛み砕くようだった。月光が差し込む森の道を、ただひたすらに北へ北へと進む。そして、彼が去った北の空には、不気味なほど赤く揺らめく光が立ち昇っていた。

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