死の淵

ななまぐち

  

 死の淵を見た。車通りの多い交差点で飛び出した子供を咄嗟にかばって車に轢かれた。聞いたことないひしゃげた音がすぐそばで聞こえた直後強い痛みが体に走った。意識が遠のく中体から流れる血を見て、ああ自分は死ぬんだと思った。やり残したことはなかったから別に悲しくはなかったが、ひとつといえば母のことが気がかりだった。最近まともな会話してなかったな。旅行とか連れて行ってあげたかったな___

 

 気がつくと暗い空間に立っていた。あたりには霧がかかっているようだった。脳にももやがかかっているような、意識と感覚がはっきりしない状態だった。

死後の世界はこんなにもあっけらかんとしているのか。とりあえず腰を下ろす。


 「留衣」

名前を呼ばれて振り返ると5歳くらいの少年が立っていた。私がかばった子供かと思ったがこの子はもっと大きかった。見たことあるようなTシャツを着ていた。赤色にでかでかと仮面ライダーがプリントされている。そうだ、母が大事にしていた。誰も着ないのに。

 「お兄ちゃん」

急に口から思ってもみない言葉が溢れたのでたいそう驚いた。私より15は幼い子供だ。なのに彼のことを私はお兄ちゃんと呼んだ。どうして。

 「ここにくるのはもっとあとかとおもってたよ。ママがさきかとおもってた」

そしてお兄ちゃんはひまだね、と言って私のすぐ隣に座った。不思議と居心地がいい。

 しばらく他愛もない会話をした。ママは元気かと聞かれ、私はうんとだけ答え、

それからお兄ちゃんは楽しそうにお気に入りのTシャツの話と好きなお菓子について話してくれた。その時間は純粋に楽しく、どこか懐かしさを覚えた。


 朝日が登るように段々あたりが明るくなり始め、霧が晴れてきた。先程までぼんやりと会話していたが意識もはっきりしてきた。そういえば今日は何限からだっけ。バイトも休まなくちゃかな。

 「留衣、だいじょうぶ?」

私はこの名前が好きじゃない。「るい」なんて男の子みたいな名前だからだ。もっと、花とか愛とかを連想させる女の子っぽい名前が良かった。もともと私の名前は「結衣」にする予定だったそうだが、母が「留」という字を入れたいとせがんだので「留衣」になった。他の名前がよかったと母に文句を言っていた私に祖母が教えてくれた。

 「お兄ちゃん。私の名前ってさ、」

なんか男の子っぽくない、と言いかけてそのときふと思った。お兄ちゃんの名前って何だ。

そもそも私に兄なんて。兄弟なんて。

 「お兄ちゃんなんて、いたっけ」

焦りが込み上げてくる。私は母子家庭で、一人っ子で。兄も、弟だっていない。この少年は、一体誰だ。どうしてこんなに懐かしいのか。愛おしいのか。気づきたくない。ずっとここに居たいのに。

 「私にお兄ちゃんなんて、いないよ」

私が立ち上がっても少年は座ったままぐっと私の目を見つめる。幼い子どもの瞳ってこんなに綺麗なんだ。私もこんな時期があったのかな。こうやって母を見つめてたのかな。

 急に寂しくなって名前も知らない少年を抱きしめたくなった。両手を伸ばすとちいさな手に振り払われた。

 「ママを、よろしくね。ママは、いつもひとりでがんばってて、たいへんなんだ。だから、留衣がささえてあげてね。それと、ママには、」

少年の言葉が詰まった。嗚咽をこらえるようにちいさな肩が静かに震える。

 「だいすきだよって、つたえてください」

少年は泣きながらちいさい頭をちいさく下げた。私も涙が溢れた。飛びついて抱きしめた。けれどもまた少年に振り払われ体が勝手に走り出した。泣かせちゃってごめんって言わなきゃなのに。別れの言葉も言ってないのに。振り返りたいのに。

 大きな光に近づいていく。ようやく振り返れたと思うと、少年は遠くでちいさな体をいっぱいに伸ばしこちらに手を振っていた。深い穴に落ちる感覚に襲われた。


 目が覚めるとやはり病室だった。カーテンの向こうで母と医師が話しているのが聞こえる。

 「お願いです。息子も交通事故で亡くしているんです。娘も交通事故でなんて、そんなのありますか。お願いします。お金ならいくらでも用意します。なんとかなりませんか。ああ私の日頃の行いが悪いせいだわ、死ぬのは私にしてください、」医師が落ち着いてと母をなだめる。「このまま意識が戻らなければ、」

 「お母さん」

瞬く間にカーテンが開いて母が飛び込んできた。「ああ留衣、留衣!平気なの?体が痛いわよね、喋れるの。小さい子をかばうなんてね、すごいわよでもね、自分の命も大事になさい、わかった?もう本当に本当に心配したのよ」

 「男の子は」

 「ああその子なら無事よ。すりきずで済んだみたい」

 「…良かった」

 私はどのくらい眠っていたんだろう。いつ退院できるんだろう。休学しないといけないかな。骨折とか、しているのだろうか。

 「留衣、大丈夫?」

母の覗き込む顔には既視感があった。心拍数が上がる。

 「…お兄ちゃん」

え、と母が戸惑った顔をする。

 「お兄ちゃんに、会ったよ。お母さんの部屋のあのTシャツ着てたよ…」

母の顔が、開ききれてないカーテンが、白いベッドが滲む。母が私の背中をさする。

 「留…。留はね、本当にいい子だったの。でもあのとき、私が目を離したから、留は…。きっと怒ってたでしょう。ママのせいでって。」

 「そんなことない。お兄ちゃんの喋り方ね、お母さんにそっくりだった」

自分で納得した。だからあんなに懐かしくて安心したのか。もう一度会って話したい。抱きしめたい。母に会わせてあげたい。涙が溢れて仕方ない。

 「でも私が目を話してなければ留は今も…」

 「ママには、大好きだよって、伝えてって、言われた」

母は驚いた顔をして、私の背中をさする手を止めた。すぐに母の顔が歪んで、顔を覆って泣いた。ひどい嗚咽だった。私はその日、母が泣くところをはじめて見た。


 「ここだよ」

母が兄の墓の前でしゃがんだ。想像していたものより小さかったが、とても綺麗でこまめに掃除されているのが一目瞭然だった。

「留衣にお兄ちゃんがいるっていつ言おうか迷ってたの。留が先に会ってくれていたんだね。ママったら本当だめだね」

 母は子供の前では決して泣かない。父が出ていったときだって笑っていた。そんな強い母に私はなれるのだろうか。

 「留衣、お菓子、置いてあげて」

兄の好きな子供じみたお菓子をバッグから取り出す。

 「お兄ちゃん、また来るね」



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死の淵 ななまぐち @7mgchi

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