たとえこの私が偽りのものであったとしても

神流みもね

第1話 知らない私

 ——まぶしい。

 カーテンの隙間から差し込む、やわらかな光で目が覚めた。薄く閉じたまぶたを透かして、朝の明るさが差し込んでくる。それは白く淡く、ほんのりやさしさを帯びて、部屋全体に広がっている。

 春の匂いを含んだ空気は、まだすこし冷たいと感じた。鳥のさえずりが遠くで聞こえ、外では誰かが植木に水をやっているような、じょろじょろというような音がしている。

 俺は、ゆっくりと視線を上げた。見慣れない、高い天井。白く塗られた木目のパネル、そして中央には、繊細な模様の施されたシャンデリアが吊るされている。その透明なガラスの飾りが、朝日に反射して小さな虹色の光を落としていた。

 壁の色は淡いクリーム色で、木枠のドアと窓。カーテンは透けるようなレースと厚手のドレープの二重仕立て。

 は……? ここって、どこだ? 少なくとも、自分の部屋ではない。そもそも、こんなに広くて豪華な部屋を、いままで見たことがなかった。


 身体を横に向けると、サテンのような滑らかなシーツがさらりと肌を撫でた。桜色のシーツからは、甘い香水のような匂いがかすかに立ち上る。布団の端には、ふわふわしたレースの縁取り。これではまるで、漫画などに載っていたお嬢様の寝室だ。

 そして、身体を起こそうと瞬間、肩口から何かがさらりと落ちた。長く、柔らかく、絹糸のような手触りの髪が、頬をかすめる。

 ……え? 慌てて起き上がると、髪が胸元まで流れ落ちた。色は淡い茶色で、光を受けると、ほんのりと金色が混じって見える。無意識に髪をかき上げた手は、自分のものなのに妙に細く、指はとても白い。そして、その爪には透明なコートが施され、つややかに光っている。腕も、足も、全体的にほっそりとしていて、胸元に視線を落とすと、そこには自分の記憶にはなかった微かな膨らみがあった。

「……な、なんだこれ」自分の喉から、思いがけず高く柔らかい声が漏れた。


 枕元に、見慣れないスマホが置かれていた。ケースは桃色のレザー調で、角には金色のハート型チャームが揺れている。震える手でそれに手を伸ばし、何気なく画面をスワイプしてみると、顔認証が作動しロックが解除された。開かれた画面で、まずは日付を確認する。

 令和七年四月七日。時間は七時十二分。俺が知ってる暦だった。ホーム画面の背景は、満開の桜並木を背に微笑む、どこか儚げな少女の写真。ニュースアプリを開くと、見覚えのある地名や政治ニュースが並んでいる。どうやらここは日本らしい。てっきり異世界転生でもしたのかと思ったけれど、違ったようだ。

 けれど、どう見ても知らない部屋、女の声に、そして細い身体……。どういうことだろう。現代転生? というか、もしそうなら、もしかして、俺って死んだのか? 事故にあった記憶も、病気になった記憶も、まったくなかった。意味不明すぎる。頭の中で、疑問が次々と浮かんでは消えていく。

 試しに写真フォルダを開くと、ホーム画面で目にした少女が、家族や友達らしき人たちと笑い合う光景が、ぎっしりと並んでいる。当然ながら、自分の記憶にはまったくない写真だった。

 そして、メールアプリの名前欄には、"桜宮さくらみや美咲みさき" とあった。

「……桜宮、……美咲? え、誰?」

 背中に冷たいものが走る。俺は、葉山はやままもるだ。少なくとも、昨日まではそうだったはずだ。


 スマホを置き、改めて部屋を見回す。壁際には白いドレッサー。香水瓶、髪留め、折りたたみミラー、ハンドクリーム、整然ときれいに並ぶ化粧ポーチ。

 ベッドから降りて立ち上がり、部屋にあったクローゼットを開けてみると、色別に揃えられたワンピースやスカート、リボン付きのブラウスがあった。

 俺の知る生活とは、まるで別世界だ。お嬢様……、なのだろうか? 部屋全体が豪華すぎる。というか、この日本っぽい世界は、本当に俺の知ってる日本なのだろうか? それともパラレルワールド?

 全身を確認したくなり、ふらふらと部屋の隅にある姿見へ近づく。そこに映ったのは、まったく知らない女の子、先ほどスマホで見た、儚げな少女。大きな瞳、長いまつ毛、桜色の唇。首から肩にかけてのラインは華奢で、肌は陶器のように白い。

 薄手のネグリジェが肩から落ちそうになっていて、慌てて直す。なんというか、すごい美少女だという感想しか出てこない。あまりのことに、言葉が出ない。

 鏡に映るその顔は、鏡のこちら側に合わせて表情を変える。目を見開き、口を開き、そっと頬に触れる。その感触が直接、自分の皮膚に響いてくる。

 喉が、ごくりと鳴る。これは、夢じゃないのか。


 コンコン、と軽いノック音がした。

「お嬢様、起きていらっしゃいますか?」

 ドアの外から、落ち着いた女性の声が聞こえた。咄嗟に鏡の前から離れる。

「は、はい……」反射的に返事をすると、やはり声が高い。

 ドアが開き、落ち着いた笑みをたたえた女性が入ってくる。紺色のメイド服に白いエプロン、胸元には小さなブローチ。

「おはようございます、美咲お嬢様。お加減はいかがですか?」

 お嬢様? 加減? 混乱しつつも「大丈夫です」と笑顔を作ると、メイドさんは、ほっとしたように頷く。

「本当によかった……。お嬢様がこうして元気に起きてこられる日を、ずっと待っておりました」

「えっと、……ありがとう」よくわからないままに返事をした。

 誰か、説明をして欲しい。あまりの現状のわからなさに、冷や汗が流れた。


 朝食の準備ができているとのことで、部屋を出て廊下を歩く。絨毯は厚く柔らかく、両脇には大きな窓から庭の景色が見える。朝の光を浴びた白いバラが風に揺れ、噴水の水音が微かに届く。

 ダイニングに入ると、テーブルには白いクロスと銀食器が並び、スクランブルエッグやクロワッサン、スープ、サラダが彩りよく置かれている。

 すでに席についていた、桜宮美咲という少女の両親らしき二人が、こちらを見て微笑んだ。

「おはよう、美咲。昨日はよく眠れたか?」父親の、低く優しい声。

「ええ……、はい」とっさに言葉を選び、椅子に腰掛ける。

 母親は、涙ぐみながら言った。「こんな日がまた来るなんて……、度重なる長い入院生活、本当に頑張ったわね」

 入院生活? そうか、この子、美咲は病気で、長く寝込んでいたのか、となんとなく事情を察した。どうりで、やけに身体は細く、肌は白いわけだ。

 そして、気づいた。俺が今ここにこうして、美咲という人物の中にいるということは、おそらく彼女はもう、この世にはいないということなのだろう。そう考えると、会ったこともない少女を想って、悲しい気持ちになった。

 俺は黙って頷き、食事に手をつける。銀のスプーンを口に運ぶたび、妙に上品な動きになってしまう。まるで、身体が覚えている作法だとでもいうように。


 食後、母が微笑んで告げた。「明日から学校よ。制服はもう用意してあるから、真理子に聞いてね」

 "真理子"というのは、さっきのメイドさんの名前だろうか。俺は笑顔で頷きつつ、学校って言われてもどうすれば良いのか、明日からとか無理だろう、と、心の中では、さまざまな感情が混ざりあって、途方に暮れていた。

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