第5話「雪原の獣(前編)」
サハリン島の冬は、生きた獣だった。
風は、肺を凍らせるほどの冷気を吐き出し、降りしきる雪は、視界を奪い、すべての音を飲み込んでいく。宗介たちミスリル特別チームは、この白い獣の圧力に耐えながら、極秘情報を巡る任務に就いていた。
クルツの吐く白い息が、一瞬で凍りつき、音もなく地面に落ちる。
その光景は、この地の温度が、彼らの命をいかに簡単に奪い去るかを示していた。
「宗介、視界ゼロだ。このままじゃ進めない」
クルツの声が、無線越しに震えている。それは寒さだけではない、不安が混じった違和感のベクトルだった。
宗介は、自身のAS、アーバレストのセンサーデータを瞬時に分析する。
(気温マイナス40度、風速20メートル、視界2メートル。レーダーは無効。熱源も……)
彼の思考は、極限の状況下でも冷静だった。
しかし、その冷静さが、彼の心に摩擦熱を生み出していた。
彼は、この状況が、自分の訓練と経験の範疇をわずかに超えていることを理解していた。
完璧な判断が通用しない、初めての不完全さ。
「進むしかない。この吹雪は、奴らの奇策だ。こちらが動けないと思わせ、情報を奪おうとしている」
宗介の言葉は、論理的だった。
しかし、その論理は、クルツの心に感情の助走を生み出させた。
(宗介は、完璧だ。だが、完璧すぎる。この状況は、彼の想像を越えている。それでも彼は、マニュアル通りに進もうとしている…)
クルツは、宗介の言葉に、わずかな温度の変化を感じ取った。
それは、彼を信じたいという信頼と、このままでは本当に危険かもしれないという恐怖の、複雑なベクトルだった。
宗介の脳内では、状況分析が暴走していた。
『この吹雪は、まるで白い壁だ。この壁を破るには、物理的な力ではなく、論理の力が必要だ。しかし、この壁は論理を拒絶している。まるで、雪で作られた迷路のようだ。いや、迷路ではない。これは雪の獣だ。この獣は、俺たちを丸ごと飲み込もうとしている。
俺たちは今、獣の胃袋の中にいる。この寒さは、消化液だ。俺たちは溶かされて、この地の栄養になる。しかし、溶けるわけにはいかない。溶けてしまうと、俺は人間ではなくなってしまう……』
「宗介! 敵だ!」
クルツの叫び声が、宗介の暴走した思考を現実に引き戻した。
クルツの直感が、宗介の論理を上回ったのだ。
吹雪の中に、人影が見える。
それは、ゲリラ兵たちだった。
彼らは、吹雪の中を、まるで幽霊のように、存在が揺らぐように動いている。
宗介は、彼らの温度を、殺意として感じ取った。
それは、宗介の完璧な判断が、通用しなかったことの証明だった。敵は、宗介の予測を上回る行動を取っていたのだ。
「全隊、散開! 応戦せよ!」
宗介の指示は、一瞬遅れた。
音もなく発射された銃弾が、アーバレストの装甲に当たり、火花すら見えないまま黒い弾痕だけを刻んでいく。
激しい銃撃戦が始まった。
銃声は雪に吸い込まれ、遠雷のような地鳴りとなって耳を揺らす。
宗介は、自分のASで敵を迎え撃つが、吹雪が視界を妨げ、思うように動けない。
吸い込むたびに喉が裂けるような痛みが走り、吐く息は一瞬で氷となり唇に張り付く。
宗介の心臓が、激しい鼓動を打ち始めた。
外界の音は遠ざかり、自分の鼓動と血流の音だけが耳に響く。
手袋越しに操縦桿が氷柱のように冷たく、皮膚が割けそうになるのを感じた。
それは、戦闘の興奮ではなく、初めて経験する「限界」への恐怖だった。
寒さで痛覚が麻痺し、逆に身体が熱く、燃えているような錯覚を覚える。
一瞬の交戦が、数分にも数十分にも感じられる。宗介の脳内クロックが過剰に加速し、クルツの声がスローモーションで聞こえる。
「クソッ、このままじゃ……!」
クルツの声が無線越しに聞こえる。
それは、宗介の冷静な判断が、もはや通用しないことの証明だった。
宗介の心は、絶望という名の感情で満たされていく。
しかし、その絶望の底から、宗介の心に、新たなベクトルが生まれた。
それは、「ここで終わるわけにはいかない」という、純粋な執念だった。
宗介の瞳に、再び熱い光が宿った。
銃声が止んだ後、耳鳴りと吹雪の低音だけが残る。
そして、その静寂の向こうから、白い獣が、ゆっくりと牙を剥き始めた。
それは、まるで宗介たちを見下ろし、嘲笑っているかのようだった。
この夜、宗介は、兵士としての「限界」と向き合い、それを乗り越えるための「執念」という名の感情の助走を始めた。
そして、その執念こそが、彼を、ただの兵士から、戦場を生き抜く「獣」へと変貌させていく。
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