「春眠暁を覚えず」で始まる詩があるけど、夏の暑さが和らいできた秋の寝心地だって中々なもんだ。だから、朝からこんなに眠いのも仕方がない。毎日ちゃんと出勤している僕を、誰か褒めてくれ。

 咳払いが響く。顔を上げると、部長と目が合った。やば、半分寝てるのがばれた?

 眠気覚ましに首を廻す。オフィスの北側に祀られた神棚が目に入り、そこに何となく違和感を覚えた。


「あれ? 菊がお供えされてる?」


 神棚の一番手前に、大きな花が一輪横たわっていた。

 一瞬、事務所内が静まり返った。斜め前の席の小野塚さんがボソッと呟く。


「『きくがみさま』が……」


 ……きくがみさま、って何?

 ふと、背後に人の気配を感じた。振り返るとえらく真顔の部長が立っていて、


「君、悪いことは言わないから、別の仕事を探しなさい」


 静かに告げられた。


 そこからは針の筵だった。誰も僕に話し掛けない。仕事も殆ど回ってこない。というか先輩たちの誰一人、目を合わせてくれない。ちょっと居眠りしかけただけで、いや、そりゃ褒められた事じゃないけど、「お前、クビ」みたいな言われ方……僕だって気分が悪いし、聞いてた皆だって気まずいって。

 漸く昼休憩になって、席を立つ皆に紛れて外に出たところで肩を叩かれた。のろのろと振り返ると、


「一緒に昼にしないか? ちょっと話したいこともあるしさ」


 係長がずれた眼鏡を掛け直しながら、隣のビルに入っている喫茶店を示す。僕は頷き、係長の背に従った。


  *


 ほぼ無言でランチを食べ終え、食事に付いてきたコーヒーを飲んでいると、


「『残菊』って、分かる? 『残る』に『菊』って書くんだけど」


 何の前振りもない係長の問いに戸惑う。


「……いえ、不勉強で……」

「重陽の節句は分かるね? 中国由来の季節の行事。旧暦の九月九日……十月の中旬、丁度今頃だな。無病息災を願って、菊を飾って鑑賞したり菊酒を飲んだりするんだよ」


 曖昧に頷く。それくらいは、何となく聞いたことがあった。


「で、重陽過ぎても咲いてる菊を残菊って呼ぶんだ。残菊には二通りの意味があってね」


 係長曰く、本場の中国ではもう用をなさない『意味の無い無駄なもの』、日本では盛りを過ぎても季節の変化を教えてくれる『趣深く立派なもの』と、全く解釈が違うのだそうだ。


「見えたんだよね?」


 一瞬、何を言われてるか分からなかったが、「神棚」と付け足されて係長の言いたいことが分かった。あんなに大輪の菊を見落とす訳ないだろう。まさか係長には見えなかったとか? 確かに、よく眼鏡がずれてるけど……。


「……何色だった?」


 答えようと口を開きかけると、係長は耳を塞いで顔を背けた。


「あー、やっぱいい! 言わないで!」


 困惑する僕をちらっと見て、


「やっぱり、きくがみさまのお告げか……」


 そういやさっきも、「きくがみさま」って聞いたっけ。


「あの……きくがみさまって、なんですか?」

「きくがみさまは、きくがみさまだよ。菊の神様」


 菊神様って、あの神棚に祀られてる神様の名前だったのか。あ、だから菊が供えられてたのか、成程な。「だから?」って感じだけど。


「ウチってさ、同業の中でも浮き沈みが殆どないだろ? 全部、菊神様のお陰なんだよ」


 え、怖……急に何? スピリチュアル系ってやつ? まあ確かに、この間纏めた資料で実感したけど、ウチの業績はメチャクチャ安定している。大コケすることも無ければ、大きく伸びを見せることもない。業界では常に中間よりちょっと上くらいの所にいる。


「ウチの社員って、基本的にミスが少ない、手堅いタイプが多いだろ? 私もそうだけど、良くも悪くも突出してないっていうか」


 それも薄々感じてた。自分も含めて、まるで華やかさが無いのだ。


「社長が、菊神様を勧請する時に祈願したんだって。『波風立たない手堅い経営が出来ますように、会社が無病息災であるように』ってね。実際、その通りになってる。どうせなら『大儲けできますように』って祈願すりゃよかったのにね」


 係長が小さく笑う。それが菊神様のお陰だとすれば、そりゃ凄い神様なんだけろうけどさあ……半ば呆れつつ話半分に聞いていると、


「それだけじゃない。年度の上半期が終わった辺り、重陽の節句の頃に菊神様がその年の新入りの査定を行うみたいでね」


 何だか眼鏡の奥の係長の目の奥が、やけに昏く見える。


「普通はね、何も見えないんだ。けど、何年かに一人二人『神棚に菊が供えられてる』って言い出す子がいるんだよ。他の誰にもそんなの見えないのに。その子達は今、一人も会社に残ってない」

「え?」

「白い菊を見たって子は、大抵、もっと業績の良い会社に転職したりして、ウチを去って行った。ウチに居るには優秀んだと思う」

「…………」

「黄色い菊を見たって子は、みんな消えた。病気だったり、事故だったり、失踪したり。大体、菊を見た日から二か月くらいでね」

「……菊神様のせいだってことですか……? なんで……」


 冗談ですよね? と聞き返すには、あまりにも係長は淡々としている。

 作り話に決まってる。こんなオカルト話なんて信じる心算はない。なのに、僕の口から出たのは酷く掠れた声だった。

 係長が肩を竦める。


「多分どっちも、会社には不要だって、切られたんだ。部長の『悪いことは言わない。別の仕事を探せ』ってのはそういうこと。どっちの色を見たとしても、ウチとの関りさえ無くなれば平穏にいられるだろうから、ってね」 


 そう言って、係長が伝票を手に立ち上がる。


「もう少しゆっくりしてていいよ、皆には言っておくから。君が見た色も聞かないし、私の話を信じるかどうかも自由だ。けど信じる気になったら、あそこの文房具屋に寄っておいで。履歴書も退職届用の便箋も扱ってるよ」


 昼休憩が終わっても暫くぼんやりとしていると、ふと、部長の座っていた椅子の背もたれが目に付いた。それがあの時見えた菊と同じ色だと気付き、決心する。

 僕はすっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干し、そのまま文房具屋へと足を向けた。

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