第20話 胡麻の香りと、二人乗り
団地の夕暮れ。
台所では、さつきが白いすり鉢で胡麻をする。ざり、ざり。香りがふわっと立つ。鍋ではさっと茹でたほうれん草。冷水に落とすと、緑がきゅっと冴えた。
じんじんする右拳を一度だけ水にあて、指先でそっと絞る。――暴れた箒を止めた手も、ここでは“ごはんの手”に戻る。
ガチャリ。玄関の鍵。
「ただいま」
「おかえりなさい!」
「お、ほうれん草だ。大事なんだよな、ほうれん草」
旦那が顔を出す。仕事帰りの空気をまとっているのに、目尻はやわらかい。すぐに右手へ視線を落とす。
「その手……大丈夫?」
さつきはとっさに拳を隠し、笑った。
「うん。ちょっとドタバタしたけど、もう平気」
「変わろうか。和えるの得意だし」
「大丈夫。ほら――」
胡麻、醤油、みりん少し。混ぜると緑に艶が出た。隣では豆腐とわかめの味噌汁がことこと。
二人でテーブルに並べる。白いごはん、味噌汁、ほうれん草の胡麻和え、たくあんを少し。
「いただきます」
一口食べた瞬間、胡麻の香りに肩の力が抜けた。
「そういや……二人乗りしたなあ」
旦那がぽつり。
「え?」さつきは箸を止める。「……だ、誰と」
「入居した日のこと。荷物てんこ盛りでさ、自転車パンクして、しょうがなく荷台に君乗せて……。コボルトに怒鳴られた」
「……あったね」
さつきは思わず笑った。あのときのガランと鳴った鍋、揺れる荷台、慌てる自分。全部いっしょに思い出す。
「でも、風は気持ちよかった」
「うん」
外でどこかの台所の鍋ぶたが、こつん。晩ごはんの合図が団地を渡っていく。
湯気と胡麻の香りの中で、右拳の熱はすっと引いていった。
「今度は並んで走ろう」
「転ばないように、ちゃんと隣にいて」
「いるよ。ずっと」
二人の笑い声が重なり、窓の外の箒置き場にも今夜は静けさが降りていた。
――団地の夜は静かで、箒も、人も、二人並んでおとなしく眠っていく。
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