異世界団地の暮らし整え係――ふだん家事、ときどきゴツン

彗星愛

夕餉の湯気と団地の音色

第1話 鼻歌と肉じゃが、団地の空

「ど〜せならもぉ〜♪ ヘタクソな夢を描いていこうよ〜♪」


 湯気が立つ台所。さつきはご機嫌に鼻歌混じりに、フライパンを振った。今日の夕飯は、旦那がいちばん好きな肉じゃがだ。


「愛のあるじゃがを〜 ♪ 煮込んだっていい〜♪」


 お鍋のじゃがいもは程よく角がとれ、フライパンではお肉がパチパチと跳ねている。


「わたしって、やっぱ、天才らしいよ〜お〜♪ イエスっ♪」

 

 調子に乗るとロクなことがない。

 頭の片隅で警鐘が鳴るのに、口は歌をつなぎ、手は玉ねぎへ。

 トントン、トントン……。

 次のトンで、包丁がわずかに滑った。丸いそれが、するりと逃げる。


 玉ねぎはスローモーションでまな板を飛び降りる。 

 反射的に手を伸ばすが、指先は空を切った。

 床に、ぽすん。


 「あーあ……」


 ため息が小窓をうっすら曇らせた。

 拭うと、低い唸りが飛び込んでくる。


 ゴォォォォォ――。


 ガラスがかすかに震え、お鍋の取っ手がコトコトと小さく踊った。さつきは何気なく鍋の位置を直し、指先で火加減をちょん。


 窓の向こう。

 灰色の空を、巨大な飛竜がゆるく弧を描く。鱗は鈍く光り、翼からは星屑がぱらり。

 視線を下ろせば、棟と棟の隙間に配管の茂み。太いの細いの、温いの冷たいのが絡み合って、ごちゃり。

 苔が生えて、ところどころに灯るキノコ。胞子を舞い上げて、きらり。

 通路の向こうでは、派手な柄の魔法の絨毯が一枚。鯉のぼりみたいに、ひらり。


「はいはい、今日も巡回ごくろうさまー」


 隣の庭の草むしりに声をかけるように、さつきは窓に向かってひとこと。

 これが団地の平常運転だ。飛竜も絨毯も、回覧板とだいたい同じくらい“いつも”。


 玉ねぎを拾い上げ、床を拭く。

 ふと視線が冷蔵庫のマグネットに吸い寄せられた。

 ――《家訓その三:旦那と夕飯は一緒》


 うん!


****


「さてと! いっしょ〜けんめ〜になれば……」


 鼻歌を戻しかけたところで、遠い部屋から低い声が波のように押し寄せる。


「グルモ、グルモ、アガッ! アガッ!」


 最近越してきた住人の“アレ”だ。そう分かっていても、耳が勝手にそちらへ向く。


「今日も、かあ」


 聞かなかったことにして菜箸を動かす――が、声は間髪入れず、同じリズムで殴り返してきた。


「アガッ、グルモ、アガッ、グルモ!」


 一定のリズムは集中を削るのが仕事らしい。

 頭の中にあったはずの「火加減」が、するっと抜け落ちた。鍋の匂いは、少しずつ苦い方へ傾いていく。


「あ……!」


 慌てて火を弱める。蓋を少しずらすと、湯気がぶふうと不満の息を漏らす。


 ……間に合わない匂いが、鼻先をかすめた。


「んもー……」


 さつきは、眉をしょんぼりさせる。

 お玉でそっと底を見る。鍋の内側に、薄い焦げの輪っかが張りついている。


 でも――


 その内側に、逃げ切った子がひとつ。きれいなじゃが。

 菜箸の先で、そっと救助する。持ち上げた瞬間、ぽわっと甘い湯気がまつ毛に触れた。


「よくがんばったね、君は」


 小声でほめて、笑っとく。


「これで、よしとする!」


 日常は脆い。けれど、拾い上げれば、まだ温かい。

 今日は、それで十分だ。


 次の一手は、夕飯に間に合わせること――それが彼女の世界のいちばん大きな仕事で、いちばんやさしい誇りだった。

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