コーヒーを淹れる速度がゆっくりすぎる喫茶店【癒し】

ほねなぴ

開店です

駅から少し外れた細い路地に、「喫茶なまけ庵」はある。

表の黒板には手書きでこう書かれている。


本日のおすすめ:ホットコーヒー(お待ち時間 約45分)


初めて見た人はたいてい二度見して、そっと通り過ぎる。けれど、私はこの店が好きだ。


ドアを開けると、カランカランと鈴の音。

カウンターの奥で、ナマケモノのマスターがゆっくりと顔を上げた。


「いらっしゃ……い」


「ホットコーヒー、お願いします」


「かしこま……り……まし……た」


注文を受けると、マスターは棚から麻袋を引き寄せ、豆をすくい上げる。

豆は深いチョコレート色で、光を受けると小さな油膜がきらりと光った。

挽き始めると、低く「コロ…コロ…」と豆同士が転がる音がして、次第に「シャリ…シャリ…」という粉の擦れる音に変わる。

空気にふわりと広がるのは、黒糖と焦がしキャラメルが混ざったような、甘くてほろ苦い香り。

それが私の鼻をくすぐり、胃のあたりが少し温かくなる。


――そのとき。

ドアが勢いよく開き、見知らぬ男性が飛び込んできた。


「すみません! 急ぎなんです! コーヒー、10分でお願いします!」


その瞬間、マスターの動きがぴたりと止まった。

豆を挽く手も、ゆるやかに回っていたミルのハンドルも、すべてが固まる。

まるで「10分」という音だけが、空気を切り裂いて残ったかのようだった。

マスターの目がゆっくりとこちらに向き、私は初めて、彼が“時間”という概念に真正面から衝撃を受けているのを見た。


「……10分……?」


その声は、遠くの山から返ってくるこだまのように、ゆっくりと店内に広がる。

男性は腕時計を見ながらソワソワしている。

マスターはおもむろにカップを温め、ポットにお湯を注いだ。

白い湯気がふわっと立ち上り、香りが一層濃くなる。

しかし、その動きは――やっぱりいつものスローペース。


「もっと早く!」と男性が口を挟むと、マスターは小さく首を傾げて言った。


「こ……れ……が……最……速……です」


男性は苦笑して、「すみません、また来ます!」と出て行った。


静けさが戻ると、マスターは深く息をつき、ネルフィルターに粉を入れる。

お湯が細く糸のように落ち、粉の山がゆっくりと膨らむ。

しゅわしゅわと小さな泡が立ち、部屋いっぱいに焙煎の香りが満ちていく。

やがて、深い琥珀色の液体が、ぽたり…ぽたり…とサーバーに落ちた。

音すらも穏やかで、耳に優しい。


「おま……たせ……しま……した」


白いカップの中で、コーヒーは鏡のように表面を揺らめかせ、ゆらゆらと湯気を立てている。

一口すすると、最初に柔らかな酸味、すぐ後から舌にとろけるような甘み。

最後に、木の奥に潜むようなほのかな苦味が、静かに残った。

胸の奥までぽうっと温かくなり、時間の流れがさらにゆっくりになる。


「マスター、この店はやっぱり急いでる人には向かないですね」


「そ……う……で……す……ね……。でも……急……いで……ない……人が……来ます」


その言葉が、湯気みたいに心に広がっていった。

お会計を済ませ外に出ると、夕暮れの空が茜色に染まっていた。

歩く足取りまで、ゆっくりになっている。


――明日もまた、あの香りを飲みに来よう。



あとがき。


今日も遊びに来てくれて、ほんとうにありがとう。

この子たちの世界は、やわらかくて、ちょっと眠たくて、

そんな空気を、あなたにもそっと届けられていたら嬉しいです。


もしよければ、近くのお部屋にもうひとつ、

ゆるさの奥に“すこしだけ考えごとが落ちているお話”を置いています。


あなたのペースで、ふらりとのぞいてみてくださいね。


それでは、また会いましょう。

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