#36「裏社会のボス・バルド登場」

「楽になったなら、何よりだ」


リーナのおふくろさんの顔が心なしか赤みを帯びているように見える。

俺は思わず口元をほころばせた。

ほんの少しでも体調が良くなったら、それだけで救いになる――そんなふうに思えた。


立ち上がりかけて、俺は言葉を添える。


「……また様子を見に来ていいか? もしよければ、掃除でもしてやる」


リーナの顔がぱっと明るくなる。


「……本当ですか? ぜひお願いします!」


その笑顔は、さっきまでの怯えが嘘のようだった。

俺は小さくうなずき、胸の奥にじんわりと熱が広がるのを感じる。


「じゃあ、今日は宿に戻るか」


そう言って立ち上がると、リーナは深々と頭を下げた。

おふくろさんも枕元からかすかに手を振り、俺とチャピは家をあとにした。


夕闇が街を包みはじめ、灯りが点りだす。

人通りはまだ多いが、路地はどこか薄暗く、背筋にざらりとした気配がまとわりつく。


「――兄さん、白石恭真さんだな?」


背後から低い声。

振り向くと、路地の影から大柄な男が姿を現した。


(……誰だ、こいつ。なぜ俺の名前を……)


膝がわずかに揺れ、掌の内側がじっとり濡れる。

思わずルミナスの柄を握り直す。


「さっきは、うちの若ぇのが無礼を働いちまったな。悪かった」


男は軽く頭を下げた。


「アイツらもヴァルセロ・ファミリーの人間だ。迷惑かけちまったことは、ここで謝らせてもらう」


顔を上げ、まっすぐに視線を向けてくる。


「で……ボスが兄さんに会いたいって言ってる。ひとつ、ついて来てもらえねぇか?」


チャピが即座に身構え、腰の短剣に手を添える。

だが男は眉ひとつ動かさず、口元にわずかな笑みを浮かべた。


短い沈黙。


それから低く、淡々と告げる。


「断られりゃ俺の首が飛ぶ」


「……マジかよ。お前、本気で言ってるのか?」


男はただ頷いた。


その目には虚勢も冗談もなく、覚悟の色が宿っている。

横でチャピが眉をひそめ、低く囁く。


「……危険すぎる。罠かもしれない」


俺はしばし迷い、伝う汗を拭うこともできずに立ち尽くした。

だが――結局は腕を組み、息を吐いて答えを出す。


「……分かった。行こう」


チャピの視線が鋭く突き刺さる。

けれど俺は、それを押し切って一歩踏み出した。


男に導かれ、俺とチャピは大通りの外れにある屋敷まで足を運んだ。

門構えからして別格だ。門は重厚で、敷地内に建つ建物はとてつもなく巨大に見えた。


「……ここが?」


思わず声を漏らす。

男は振り返らず、静かに言った。


「うちのボスの屋敷だ」


豪奢な赤い絨毯の廊下を抜け、広間の扉が開かれる。

シャンデリアが輝き、壁には絵画や豪華な調度品が並ぶ。

その中央に――ひとりの男がソファーに腰掛けていた。


肩まで伸びた髪に、厳つい顔。

額の傷が、薄暗い灯りに浮かび上がる。

腰掛けたままでも、空気が張り詰めるようだった。


「……お前が白石恭真か」


低く響く声が広間を揺らす。

その声だけで、ただ物じゃないのが分かる。


「俺はバルド。ヴァルセロ・ファミリーを仕切ってる」


その言葉のあと、バルドはぴくりとも動かず、俺の目をじっと見続けていた。

しばらくしてまた続きを切り出す。


「まずは謝っとく。ファミリーのもんが勝手に暴走しやがった……堅気の土地を力ずくで奪うなんざ、俺のやり方じゃねぇ」


そこで言葉を切り、背もたれに深く体を預けた。

広間に響くソファの革の軋む音が、やけに重く感じられる。


俺は思わず口を開いた。


「……なぜ俺の名前を知ってるんだ?」


バルドは鼻で笑い、肩まで伸びた髪を乱暴にかき上げた。


「ハッ、あんたもう裏じゃちょっとした有名人だぜ。“清掃員”」


血の気が引いた。


ただ掃除してただけの俺が、裏界隈でなんで有名人になってるんだ――。


横でチャピが鋭い視線を投げ、疑いを隠そうともしない。

その気配を受け止めつつ、バルドはちらりと俺を見据えた。


「……あんた、リーナと、そのおふくろさんに会ったんだろ」


胸が跳ねる。

無言でうなずくと、バルドはしばし目を閉じ、低く吐き出した。


「……そうか。なら――まあ仲良くしてやってくれや」


その声音は依然として硬いままだが、ほんの一瞬だけ、瞳の奥に別の色が揺れた気がした。


沈黙のあと、低い声が広間に落ちる。


「……ファミリーの中に、俺の地位を奪おうって腹のやつがいる。今回の件も、そいつが仕組んだもんだ。

けじめは必ずつけさせる。だが……兄さん、あんたも用心しとけ」


冗談でも脅しでもない。


ただ静かな忠告――それだけが残った。

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