#30「泣きじゃくるエルフと、光の女神の使徒」
「ねえ……どうして? ……どうして逃げるの?」
チャピが微笑んでいる。
口元はやさしげに上がっているのに――その瞳には一片の光もなかった。
空っぽの闇に吸い込まれるようで、背筋が凍る。
(……これは、やばい目だ……こっ殺される!)
チャピの影がゆっくりと近づいてくる。
その足音がやけに大きく響いて聞こえた。
(く、来る……! やばい、マジで詰んだ……!)
心臓が暴れ馬みたいに跳ねる。喉が鳴るのに声は出ない。
息を吸うたび、肺の奥が焼けるみたいに痛かった。 そのとき――。
「どうして……そんなに怖がるの……?」
「ねえ…どうして?」
小さな呟き。
そして、頬を伝う一筋の雫。
俺の思考は、一瞬で止まった。
頭が真っ白になって、何も言葉が浮かばない。
(……な、なんだこれ……? なんで泣いているんだ……?)
その瞬間――チャピの顔が大きく歪んだ。
唇が震え、堪えていたものが弾け飛ぶ。
「……っ、ひぐ……う、うわぁぁぁぁぁん!!」
嗚咽が石壁に反響し、路地いっぱいに広がった。
さっきまであんなに落ち着いていたのに、今は子どものように叫び散らしていた。
その落差に思考がついていかない。
俺はただ呆然と立ち尽くしていた――が、その声に思わずはっとした。
(これ…俺が泣かせたのか……!?)
やっとのことで体が動いた。重たい足を一歩前に出し、チャピの前に立つ。
「……お、おい……泣くなって……」
声が裏返る。自分でも情けないと思う。
「ほ、ほら、俺はただの清掃員だから……その、危ないやつじゃ……」
言葉を探すたび、チャピの声はますます大きくなる。
「ちょっ、待て!違う違う!泣かせたいんじゃなくて……えっと……そうだ、モップの話でもするか? モップの良さとか……!」
俺の必死の言葉と、チャピのしゃくり声が、不協和音みたいに響き渡っている。
この状況をどう収拾すればいいのか――俺には見当もつかない。
それでも時間が経つにつれ、荒れ狂うようだった泣き声は次第に力を失っていった。
激しい嗚咽はしゃっくり混じりに変わり、やがて途切れ途切れのすすり声に落ち着いていく。
まだ鼻をすする音は残っていたが、さっきまでの嵐のような勢いはなくなった。
耳に刺さるのは、余韻のように響く小さな呼吸だけ。
(……止まった?いや、泣き疲れただけか……?)
恐る恐る顔を覗き込むと、赤く腫れた目がこちらを見返してきた。
その瞳には、もうさっきまでの空っぽの闇はなかった。
「……どうして……逃げるの……」
弱々しい声。それでも、さっきまでの嗚咽とは違う。
まっすぐで、俺を突き刺すように真剣だった。
(……くっ、怖かったなんて言えない……!言ったらたぶん泣かれる!)
口を開きかけて、言葉が喉で詰まる。
「お、俺は……その、えっと……」
苦し紛れに出た動きは――自分でも驚くほど唐突だった。
俺はチャピの肩をそっと掴み、そのままぎこちなく引き寄せる。
「……な、泣くな!」
ためらいがちに頭に手を置き、子どもをあやすみたいにぽんぽんと撫でる。
チャピの体がぴたりと固まった。
赤く腫れた目が大きく見開かれ、俺の胸元で小さく瞬く。
(なに抱きしめてんだ俺!!)
それでも、チャピの震えは少しずつ収まっていった。
しゃくり上げる声もやがて途切れ、代わりに不規則な呼吸音だけが聞こえる。
時間が止まったみたいに、静かな間が落ちた。
彼女の体温と微かな息づかいが、じわりと俺に伝わってくる。
(……よかった。泣き止んだ……?いや、また泣かれたら俺、どうすればいいんだ……)
そんな俺の混乱をよそに、チャピが小さく口を開いた。
「……あなたに、会いに来たの」
その声はかすれていたが、もう震えてはいなかった。
俺は反射的に抱きしめる腕を緩めかけ――すぐ思い直して、そのままにした。
(……ここで離したら、また泣かれるかもしれない……!)
「……そ、そうか」
ぎこちなく返すしかなかった。
チャピは胸元で小さく笑ったように見えた。
「ずっと……キョーくんに会いたかった」
あだ名を呼ばれ鼓動が一瞬止まる。
だが彼女はすぐに言葉を重ねた。
「……でも、それだけじゃないの。大切な話があるの」
その言葉に、背筋をぞくりと冷たいものが走った。
「……キョーくん」
赤く腫れた目が、まっすぐに俺を見上げていた。
「話したいことがあるの。キョーくんの……浄化の力について」
(……き、来た……! なんか嫌な予感しかしないんだけど!?)
チャピは胸に手を当て、静かに言葉を紡ぐ。
「キョーくんの浄化は……光の女神ルミナリア様の“光の浄化”と同じもの。だから――」
息を呑む暇すら与えず、宣告のような一言が続いた。
「キョーくんは、ルミナリア様の使徒なの」
俺の思考は真っ白になった。
(……は? 今、なんて……?)
理解が追いつかず、ただ立ち尽くすしかなかった。
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