#16「詰みに気づき、夜の馬車で駆け出した」

チャピの花みたいな笑顔がまぶたの裏に焼き付いて離れない。

夕陽に染まる港と白い帆、そして高台を渡る潮風。

どれも目に入らず、俺はただ胸のざわつきを抑えようとしていた。


(……やっぱ怪しい。あいつ、何か隠してるな)


隣を歩くエルフが、ふいに立ち止まる。

黄金の髪を揺らしながら、真っすぐに俺を見上げてきた。


「ねえ…どうしたの? そんな難しそうな顔をして」

「……いや、ちょっと聞きたいことがあるんだ」

「…なに?」

「その……どうして、そこまで“あだ名”のこと、気にするんだ?」


と彼女は小さく息を吸い、視線を落とした。


「…ただの呼び方でしょ、って思うかもしれないけど……」


頬がじわじわ赤くなっていく。耳まで火が入ったみたいだ。

真っ赤に染まり、手のひらをぎゅっと握りしめている。


「じ、実は……エルフの一族には掟があるの。あだ名で呼び合う間柄は……その…おっとと……つ、つま……み、みたいな……」


(……つ…ま……?)


脳に、ひやりとした影が差し込む。


“詰ま”。いや――“詰み”。


(……詰み、だと!?)


(……ああ、そうか。ようやく見えた。俺は最初から盤上に乗せられていたんだ。優しい笑顔も、寄り添う足音も……全部はこの瞬間の布石。駒の動きを知らないのは俺だけで、気づけば王は孤立していた……)


喉がひゅっと鳴る。


将棋盤に最後の一手を打たれ、王が逃げ場なく倒れる光景が脳裏に浮かぶ。


(……これは運命の包囲網。光のように優しい仮面をかぶり、実際は俺を“詰め”るために近づいてきたのか。ならば――俺は盤から飛び出すしかない! 駒でいる限り、勝ち目はない!)


「……キョーくん?」


隣の声が不安そうに震える。

俺は慌てて顔を上げ、無理やり口角を引きつらせた。


「いや、大したことじゃない。ただ……少し、考えすぎただけだ」

「考えすぎ?」

「うん。ほら、俺って臆病だからさ。なんでも裏を勘ぐっちゃうんだよ」


笑ってみせると、チャピは一瞬きょとんとして、それから少しだけ安堵したように目を細めた。


(……よし、気づかれてはいない)


「……じゃあ、今日はもう戻ろう。体もまだ本調子じゃないし」

「ええ……そうね」


彼女が頷いたのを確認し、俺は高台から視線を外した。

夕陽に染まる港町を見下ろしながら、胸の奥では別の声が響いていた。


(ここから離れよう。いまならまだ間に合う)

(あの笑顔に惑わされるな。これは罠だ。“詰み”なんだ)


俺は背中を向け、歩き出した。

柔らかい足取りを装いながらも、心臓は逃げ出すタイミングを探して荒ぶっていた。


港町の喧騒がゆるやかに沈んでいく頃。

家々の窓から灯る明かりが、石畳をぼんやり照らしていた。

昼間の潮風はぬるい熱を含んでいたのに、夜になると肌にひやりと染み込んでくる。


(……今しかない)


チャピには『先に休む』と言って宿へ戻った。

自室で布袋にわずかな荷物を詰め込み、そのまま裏口から忍び出す。

ルミナスを胸に抱え込み、街路をそろそろと進む


(気づかれてない……よな)


振り返る。


暗い路地に人影はない。

ただ猫が一匹、こちらをちらりと見てすぐに去っていった。


(……詰みになる前に、逃げるだけだ)


布袋は心許ない。着替えと少しの乾パン、そして今までに稼いだ硬貨。

それでも、ここに長く留まるよりはましだった。


港を抜け、大通りの明かりから外れると、すぐに馬のいななきが聞こえてきた。

街外れの馬車乗り場。行商人や旅人たちが、夜更けの出発に備えて荷を積み込んでいる。

焚き火の赤い光が、木箱の影を大きく揺らしていた。


(……助かった。ちょうど出るところか)


俺は胸を押さえ、小走りで御者に近づいた。


「……ひとり、乗れるか」

「行き先は北だが、それでいいか?」

「……ああ、かまわない…」


銅貨を数枚、手汗でぬるついたまま差し出す。

御者は眉をひそめつつも受け取り、無言で顎をしゃくった。


(……よし。誰も俺の正体に気づいていない。いまの俺はただの夜逃げの旅人だ)

(詰みだと見せかけて、まだ一手残っていたんだ。名もなき清掃員という――影の駒がな)


がたん、と荷台の木枠を掴んで登る。

中には既に三人の乗客がいた。

毛布にくるまる老商人、眠そうに欠伸をする若い傭兵、そして旅支度の修道女。

乗客を確認すると、すぐに視線を落とす。


俺は端に腰を下ろし、ルミナスを膝に抱え込んだ。

御者の掛け声、鞭の音。

蹄が石畳を叩き、やがて街の灯りが少しずつ遠ざかっていく。


(……これでいい。ここを離れれば、“詰み”じゃなくなるはずだ)


港町の灯火が背後に小さく滲む。


胸にまだ残る「チャピ」の声を、必死に押し込めながら――俺は夜の馬車に身を預けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る