【返却不可】不登校Mカップ幼馴染が嫁に来た【返却不可】

シカトイ

第一話:Mカップの侵略者

夏の匂いが、死んだように静まり返った家に満ちていた。

アスファルトがじりじりと焼ける匂い。草木が発する青臭い匂い。そして、それら全てを包み込む、むわりと立ち上る湿気。空の低いところでは、不穏な灰色の雲が渦を巻き始め、間もなくやってくるであろう夕立の気配を濃厚に漂わせていた。


夏休みが、今日から始まった。

世間の高校生たちが、友人との約束や部活の合宿、あるいは甘い恋の予感に胸を躍らせているであろう、そんな浮かれた季節の初日。

僕、堂島雫(どうじま しずく)は、がらんとした一軒家のリビングで一人、コンビニで買ってきた冷やし中華をすすっていた。

テレビの音だけが、やけに騒がしく部屋に響く。バラエティ番組の作り物めいた笑い声が僕一人の食事風景をより一層侘しいものにしていた。


「……ごちそうさまでした」


誰に言うでもなく呟き、食器を片付ける。シンクに置かれた一人分の食器がカチャンと立てる音がやけに大きく聞こえた。

この家は広すぎる。高校生が一人で暮らすにはあまりにも。


リビングの隣にある仏間に向かい、僕は静かに正座した。黒塗りの立派な仏壇。そこには、まだ記憶に新しい笑顔を浮かべる祖父母と、写真の中で永遠の若さを保ったままの両親の遺影が四つ並んで置かれている。


僕は慣れた手つきで線香に火を灯し、ちーん、と澄んだ音を立てて鐘を鳴らした。

目を閉じ、静かに手を合わせる。


(お父さん、お母さん。おじいちゃん、おばあちゃん。……夏休みが始まりました。僕は元気にやってます。ただ……少しだけ、この家は静かすぎるみたいです)


心の中で語りかける。返事がないことは、わかっている。それでも、こうせずにはいられなかった。

小学生の頃、交通事故で両親はあっけなくこの世を去った。悲しみに暮れる暇もなく、僕は母方の祖父母であるこの家の主たちに引き取られた。

無口だけど優しい祖父と、いつも僕の好物ばかり作ってくれた太陽みたいな祖母。二人は僕を実の孫として愛情深く育ててくれた。

その祖父母も、まるで張り詰めていた糸が切れたかのように、先月、そして先々月と、立て続けに旅立ってしまった。老衰だった。安らかな大往生だったと医者は言った。


まるで僕という最後の役目を果たし終え、安心して両親の元へ向かったかのように。


結果、僕は高校二年生にしてこの世に血の繋がった身寄りが一人もいない、正真正銘の天涯孤独となった。

そして、祖父母が遺してくれたこの古いけれど大きな一軒家で、一人暮らしを始めることになったのだ。

遺産や保険金のおかげで、学生の身でありながら金銭的な不安はない。それは不幸中の幸いと言えるのかもしれない。

けれど静寂は確実に人の心を蝕んでいく。

朝、誰に起こされることもなく目を覚まし、一人で朝食を摂る。学校から帰ってきても、「おかえり」の声はない。夜、どれだけ更かして勉強していても、「もう寝なさい」と心配してくれる人はいない。


友人関係は希薄だ。ガリ勉で誰とも深く関わろうとしない僕に、積極的に話しかけてくる物好きはいない。成績は常にトップだが、それは孤独を埋めるための代償行為のようなものだった。


勉強だけが、僕をこのどうしようもない寂しさから救ってくれる、唯一の逃げ道だった。


そんな、時が止まったかのような静寂を唐突に切り裂く、無機質な電子音が家の隅々まで響き渡った。


『ピンポーン』


「……え?」


僕は仏間から顔を上げた。インターホンだ。

こんな時間に誰だろう。宅配便だろうか。いや、最近ネットで何かを注文した記憶はない。そもそも僕宛に荷物が届くこと自体が稀だ。

セールスか、あるいは何かの勧誘か。だとしたら居留守を使うのが賢明だろう。

だが、もう一度、今度は少し間を置いて、控えめにインターホンが鳴らされた。


『ピンポーン』


どうにも悪質なセールスという雰囲気ではない。もしかしたら、祖父母の知り合いが何か用事で訪ねてきたのかもしれない。そう思うと無下にもできなかった。

僕は一つため息をつくと、重い腰を上げて玄関へと向かった。ギシ、ギシ、と年季の入った廊下が、僕の体重に軋み音を立てる。


玄関の引き戸に手をかけ、少しだけ警戒しながら、僕はそれをゆっくりと横にスライドさせた。


「はい、どちら様です……か?」


ガラリ、と戸を開けた瞬間、僕の言葉は尻すぼみになり、呼吸が止まった。


そこに立っていたのは、一人の少女だった。

まず目に入ったのはそのみすぼらしい格好だ。首元が伸びきって、全体的に毛玉が浮いた、薄汚れた灰色のスウェット。下は膝の部分が擦り切れたジャージ。まるで何日も家から出ていないような、そんな生活感が滲み出ている。

次に、手入れされているとはお世辞にも言えない、ボサボサに伸びた黒髪。長く伸びた前髪がカーテンのように彼女の顔を覆い隠し、その表情を窺い知ることはできない。ただ、俯きがちに自らの足元をじっと見つめていることだけはわかった。


そして何よりも僕の視線を奪ったのは、そのアンバランスなまでに豊かな胸の膨らみだった。

ヨレヨレのスウェット生地を、内側から極限まで押し上げている、二つの巨大な塊。それはもはや「大きい」という言葉では生ぬるい。異常、と言ってもいいほどの圧倒的な質量がそこに存在していた。今にも圧力に負けてその薄い生地を突き破ってしまいそうなほどの、凄まじい存在感を放っている。

なんだ、これは。僕の知らない、何かの物理法則が働いているのか?


僕がその異様な光景に呆然としていると、少女の肩がびくりと震えた。僕の視線に気づいたのだろうか。

誰だ? この子は。

見覚えがあるような、ないような……。いや、もしこんな特徴的な体型の知り合いがいたら忘れるはずがない。

僕が記憶の引き出しを必死にかき回していると、小さな少女の背後から、ひょっこりと見知った顔が二つ、悪戯っぽく現れた。


「やあ、雫君! 元気してたかい!」

「ごめんなさいね、突然来ちゃって! お邪魔しますね、雫君!」


人懐っこい笑顔を浮かべているのは、僕の幼馴染、百合咲穂花(ゆりさき ほのか)の両親だった。僕の両親とも親交が深かった、気さくで明るいおじさんとおばさんだ。

その手には大小様々な段ボール箱が、これでもかと抱えられている。


「あ、おじさん、おばさん。ご無沙汰しています。お元気そうで何よりです。それに……そちらは、もしかして……穂花?」


僕が俯く少女の名前を呼ぶと、彼女の肩が先ほどよりも大きく震えた。


百合咲穂花。


昔はいつも僕の後ろを付いてきていた、快活で少し泣き虫な女の子。最後に会ったのは確か、中学に上がる前だったか。数年ぶりに見る彼女は、昔の快活だった面影をすっかりと失い、まるで別人のように変わり果てていた。


「雫君、話は後だ! とにかく、これを中に運ばせてくれ!」

「そうそう、見ての通り、夕立が来ちゃう前にね!」


僕が返事をする間もなく、おじさんとおばさんは「よいしょ、こらしょ、どっこいしょ」と威勢のいい声を上げながら、持っていた荷物を玄関の土間に雪崩れ込むように運び込んでいく。


「え、あ、あの、これは一体……どういうことですか?」


あまりにも強引な展開に僕がただただ戸惑っていると、全ての荷物を運び終えたおじさんが僕の両肩を、バンッ、と力強く掴んだ。その目は、なぜか妙に切実な光を宿している。


「雫君! 男と男の約束だ! この子を、穂花をどうかよろしく頼む!」

「生活費のことは心配しないで! 毎月ちゃんと振り込むからね!」

「頼む! 我々の最後の希望なんだ! 雫君しか頼れる人がいないんだ!」


まるで舞台役者のような大袈裟な口調で、二人はそれだけを一方的に言い放つと、嵐のように玄関から出て行ってしまった。


「え、ちょ、待ってください! おじさん、おばさん!」


僕の制止の声も虚しく、一台のステーションワゴンが慌ただしくエンジンをかけ、あっという間に通りの向こうへと走り去っていく。音が遠ざかっていく。

後には、うず高く積まれた段ボール箱の山と、俯いたまま石像のように微動だにしない穂花、そして、状況が全く理解できずに呆然と立ち尽くす僕だけが残された。


「…………」

「…………」


気まずい、という言葉では表現しきれないほどの重い沈黙が玄関を満たす。遠くでゴロゴロと雷の音が低く響いた。


その沈黙を破ったのは穂花だった。

彼女はおずおずとスウェットのポケットから、くしゃくしゃになった一通の封筒を取り出すと、ブルブルと小刻みに震える手で僕にそれを差し出した。


「あ、あの……これ……お父、さんから……」


か細く、消え入りそうな声。何年も聞いていなかった、懐かしいはずの彼女の声だった。

僕は無言でその手紙を受け取った。茶封筒には乱暴な字で『堂島雫様』と書かれている。差出人は『百合咲家の父より』

先ほど嵐のように去っていったおじさんの、あの顔が脳裏に浮かぶ。とてつもなく嫌な予感がした。

僕は唾を飲み込み封を開けると、中から出てきた便箋をゆっくりと広げた。そこに綴られていたのは、僕のちっぽけな常識など木っ端微塵に吹き飛ばすほどの衝撃的な内容だった。


『拝啓 堂島雫様』


(うん、書き出しは普通だ)


『突然のお手紙、失礼いたします。この度は、ご両親、そしてご祖父母様のこと、心よりお悔やみ申し上げます。雫くんが一人で生活を始めると聞き、幼い頃からの親友の息子である君のことが心配でなりません』


(ここまでは、まだ理解できる。心配してくれているんだな)


『さて、本題に入ります。ここに我が娘、百合咲穂花を、雫くんのお嫁さんとして差し上げます』


「…………は?」


思わず、声が漏れた。僕は自分の目を疑い、その一文を何度も読み返す。嫁? ヨメ? あの、妻とか配偶者とかいう意味の? なぜ?


『うちの穂花は不登校で引き篭り、根暗でコミュ障、対人恐怖症という五重苦を背負っており、このままでは社会生活どころか、人間としての生活すらできないのが目に見えています。父親として、それは断じて阻止せねばなりません』


(ひどい言われようだな!? 普通、自分の娘のことをそんな風に書くか!?)


『つきましては、穂花の生活費として、毎月10万円を雫くんの口座に振り込むことをお約束します。このお金は返却不要です。どうかこのお金で穂花を養い、立派なお嫁さんとして育て上げてください』


(月10万!? 年間120万……って、そういう問題じゃない! 養うって、僕はまだ高校生だぞ!?)


『雫くんなら、きっと穂花を幸せにしてくれると信じています』


(無責任な信頼!)


そして、僕の思考を完全にフリーズさせる、決定的な一文が目に飛び込んできた。


『穂花はMカップです。損はさせません』


「…………えむ……かっぷ……?」


僕は、その単語を、オウムのように繰り返した。

Mカップ。

アルファベットで言うところの、M。A、B、C……と順番に数えていって、かなり先の方にある、あのM。神話か都市伝説の類だと思っていた、その記号。

それが、目の前のこの、スウェットの生地を限界まで押し上げているものの正体……?

僕は思わず、手紙と目の前にいる穂花の胸を、何度も、何度も、何度も、見比べてしまった。

僕の露骨な視線に、穂花はますます体を縮こまらせ、もはや小さな球体になってしまいそうなほどに丸まっている。


そして便箋の最後には、悪魔のような追伸が記されていた。


『追伸:お金も穂花も、クーリングオフは適用外とさせていただきます。悪しからず』


「…………」


手紙を持つ手が、わなわなと震えた。

ふざけるな。

なんだこれは。人身売買か? 押し売りか?

今すぐこの荷物を全部叩き返して、穂花を追い出して、おじさんの家に怒鳴り込んでやろうか。いや、そうすべきだ。常識的に考えてそれが正しい。


だが。


「あ、あ、あの……ご、ごめ…なさい……ほんとうに、ごめ、なさい……」


僕の目の前で、穂花はブルブルと全身を震わせ今にも泣き出しそうな、か細い声で謝り続けている。

その姿はあまりにも痛々しかった。

彼女の意思ではないことは火を見るより明らかだ。無理やりここに連れてこられて、どんなに不安で怖い思いをしていることだろう。その震える肩を見ていると、僕の胸の奥で怒りとは別の感情が湧き上がってくる。

同情。憐れみ。そして、ほんの少しの庇護欲。

天涯孤独になった僕と、心を病んで親に無理やり嫁に出されそうになっている穂花。

……もしかしたら僕たちは似た者同士なのかもしれない。この子も僕と同じで、どこにも行き場がないんじゃないだろうか。僕がここで彼女を突き放したら、この子は一体どこへ行けばいいんだろう。


帰ってくれ、と言えなかった。

こんなにか弱く、壊れかけているように見える幼馴染を、今この場で玄関から叩き出すなんてこと、僕には到底できそうもなかった。


「……はぁーーーーーっ」


天を仰ぎ、僕は今日一番の、深くて長い溜息をついた。

腹を括るしかないらしい。

僕は努めて優しい、できるだけ穏やかな声を作って俯く少女に声をかけた。


「穂花」


「ひゃいっ!?」


変な声が出た。よほど緊張しているのだろう。


「とりあえず、玄関にずっといるのもなんだし……上がって。部屋はたくさん余ってるから」


僕の言葉に穂花はびくりと顔を上げた。ボサボサの髪の隙間から見えた大きな瞳が、信じられない、というように僕を捉える。その瞳は不安と恐怖で揺れていたが、ほんの少しだけ、安堵の色が浮かんだように見えた。

僕はそんな彼女に小さく頷いてみせた。穂花はしばらく躊躇うようにその場で立ち尽くしていたが、やがて意を決したように、小さな一歩を踏み出した。

おずおずと汚れたスニーカーを脱ぎ、揃える。そして、指先に穴の空いた白い靴下が古い家の上がり框を、そっと越えた。


パラパラ……ザアアアアアアッ!


その瞬間を待っていたかのように空から大粒の雨が降り始め、激しい雨音が世界を包み込んだ。

こうして、僕と穂花の奇妙で波乱の予感に満ちた同居生活は、あまりにも唐突に、そして劇的にその幕を開けたのだった。

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