ターゲットペース

Vii

 

 水上秋穂は、誰にも見られていないつもりで腕立て伏せをしていた。

 放課後のトレーニングルーム、隅のマット。柔道部は大会後で誰も来ない。剣道部も合宿。バスケ部も筋トレ日じゃない。

 体育館の熱気と埃っぽさ、そして様々な部活の汗が染みついた独特の匂いが充満するこの場所で、今は彼女の荒い息遣いと、遠く音楽室から漏れ聞こえるトロンボーンの不協和音だけが、空間を支配していた。

 へたくそな音階が、秋穂の集中を逆に研ぎ澄ませるかのようだった。

 それが遠くてよかった、と彼女は思った。

 誰の干渉も受けない、自分だけの聖域。


 腕を伸ばすたびに、手のひらが床の汗でぬるりと滑る。

 22、23、24……頭の中で数字を追いながら、無言で、機械のように体を上下させる。

 おろしたての練習着の生地が肌に擦れ、じっとりと汗を吸っていく感触が不快だった。

 肩にかかるかかからないかのボブカットが、重力に従って額に貼りつき、鼻先を掠めて鬱陶しい。

 けれど、拭わない。


 秋穂はいつも、そんなふうだった。

 小さな不快感は、目標達成のための些細な代償。

 そう自分に言い聞かせ、己を律することが、彼女にとっての日常であり、一種の快感ですらあった。


「……30。よし」

 最後の力を振り絞り、カッと目を見開いて体を押し上げる。

 短く、鋭く息を吐き出すと、そのまま床にごろりと仰向けに転がった。天井の薄汚れた蛍光灯が、チカチカと不規則に点滅しているのが見える。

 汗が顎を伝い、首筋へと流れていくのがわかった。心臓が肋骨の下で、野生の獣のように激しく暴れている。


(もう少し……あと少しで、あの背中に追いつける)

 脳裏に浮かぶのは、県大会で見た一つ上の先輩の、風を切るような美しいフォーム。

 そして、自分が目標とするインターハイの標準記録の数字。それはまだ、霞の向こう側にあるように遠いけれど、決して届かない場所ではないはずだった。


 秋穂は、体育会系の部活に身を置きながら、どこか文学少女の気質を持っていた。

 練習の合間や、通学の電車の中でこっそりと読むのは、決まって甘ったるい恋物語が描かれた少女小説だった。

 不器用で、なかなか素直になれない主人公が、ちょっと意地悪だけど実は優しいヒーローと心を通わせていく。

 そんな、ありきたりだけれどキラキラとした世界に、彼女は密かな憧れを抱いていた。

 忍耐強く、負けず嫌い。それは陸上競技で結果を出すためには不可欠な資質だった。


 しかし、こと恋愛に関しては、そのストイックさが仇となり、彼女は超がつくほど奥手だった。

 クラスの男子と話すことすら緊張してしまう。

 ましてや、「恋」なんて、小説の中だけの出来事だと思っていた。


「……ふぅ」

 長い息を吐き、むくりと起き上がる。汗で湿った髪を無造発見上げ、ペットボトルの水を呷った。

 喉を潤す冷たい液体が、火照った体に染み渡っていく。

 次は腹筋、そしてスクワット。今日のノルマはまだ終わらない。

 ふと、トレーニングルームの入り口に、誰かの気配を感じた。


「……あれ? 水上さん? やっぱりいた」

 軽やかな声。秋穂は思わず動きを止め、そちらを見た。

 そこに立っていたのは、同じ一年生の神代悠真だった。

 サッカー部に所属し、その明るい性格と人懐っこい笑顔で、女子生徒からの人気も高いと噂の男子。秋穂とはクラスも違い、部活も違うため、普段ほとんど接点はなかった。


「神代……くん?」

 思わぬ人物の登場に、秋穂の声がわずかに上擦る。いつもは誰にも見られることのない、汗まみれで息を切らした自分の姿を意識してしまい、急に顔が熱くなるのを感じた。


「なんかさ、用務員のおじさんが『陸上の女子が一人でトレーニングルーム使ってるみたいだぞ』って言ってて。もしかして水上さんかなって思ってさ」

 神代は、悪びれる様子もなくニコリと笑うと、トレーニングルームに足を踏み入れた。

 彼の纏う空気は、この汗臭い空間には不釣り合いなほど爽やかだった。

 整った顔立ち、少し茶色がかった髪。少女小説のヒーローが、そのまま現実世界に飛び出してきたかのようだ、と秋穂は一瞬、現実逃避にも似た感想を抱いた。


「えっと……何か、用?」

 平静を装いながら尋ねる。

 心臓の鼓動が、先ほどの腕立て伏せの時よりも、なぜか速くなっていることに気づかないふりをした。


「いや、別に用ってわけじゃないんだけど。俺もちょっと自主練しようかなって。……隣、いい?」

 そう言って神代は、秋穂が使っていたマットのすぐ隣に、持ってきた自分のスポーツバッグを置いた。

 そして、慣れた手つきでトレーニングウェアのジッパーを下ろし始める。


(隣……って)

 秋穂は混乱した。今まで、男子と二人きりで、こんな狭い空間にいることなど想像すらしたことがなかった。

 しかも、相手は神代悠真だ。学校でも目立つ存在の彼が、どうして自分なんかに……。


「……どうぞ。私は、別に……」

 ぶっきらぼうに聞こえたかもしれない。

 けれど、それが秋穂にできる精一杯の返事だった。

 彼女は慌てて視線を逸らし、再び腹筋の体勢に入ろうとした。

 しかし、意識は隣にいる神代の存在に、嫌でも引き寄せられてしまう。


「水上さんって、いつもこんな遅くまで練習してんの? すげーな。俺、長距離とか絶対無理だわ」

 神代は、屈伸をしながら軽口を叩く。

 その声は、驚くほど自然で、秋穂の心の壁をいとも簡単にすり抜けてくるようだった。


「別に……普通だよ。強く、なりたいだけだから」

 顔を上げずに答える。本当は、もっと気の利いた言葉を返したかった。

 少女小説のヒロインみたいに、少しユーモラスで、相手をドキッとさせるようなセリフを。

 しかし、現実はいつも、理想とはかけ離れている。


「ふーん。ストイックだねぇ」

 神代は楽しそうに言うと、腹筋を始めた秋穂の横で、同じように腹筋のトレーニングを始めた。


「いーち、にーい……あれ、結構キツイな、これ」

 わざとらしいほど大きな声を出しながら、神代は体を起こす。

 そのたびに、彼の汗の匂いがふわりと秋穂の鼻孔をくすぐった。それは、自分の汗とは違う、どこか甘さを感じるような、不思議な匂いだった。


(集中、しなきゃ)

 秋穂は自分に言い聞かせた。

 けれど、隣で響く神代の息遣い、時折漏れる「うっ」とか「よっしゃ」とかいう声、そして、視界の端で動く彼の姿が、どうしても気になってしまう。


 ふと、神代が言った。

「なあ、水上さんの走りってさ、なんかこう、見てて気持ちいいんだよな。こないだの記録会の時、たまたま見てたんだけど」


「え……?」


 秋穂は思わず動きを止め、神代を見た。彼は、少し汗ばんだ額を手の甲で拭いながら、真っ直ぐに秋穂の目を見ていた。

 その黒い瞳は、どこまでも澄んでいるように見えた。


「なんて言うか……一生懸命さが伝わってくるっていうか。俺、ああいうの、結構好きだぜ」

 好きだぜ、という言葉が、秋穂の鼓膜の奥で、何度もリフレインした。

 それは、陸上の「走り」に向けられた言葉だと頭では理解している。

 けれど、彼女の心臓は、まるでスタートの号砲を聞いたかのように、ドクンと大きく跳ねた。

 顔が、カッと熱くなるのがわかった。


「……そ、そう。ありがとう」

 俯いたまま、かろうじてそれだけを絞り出す。

 もう、腹筋どころではなかった。頭の中が真っ白になりそうで、でも、どこかふわふわとした幸福感に包まれるような、不思議な感覚。


(この人、もしかして……)

 少女小説で何度も読んだ、運命の出会い。

 まさか、こんな汗臭いトレーニングルームで、そんなものが訪れるなんて。

 秋穂は、自分の頬が夕焼けのように赤く染まっているのを自覚しながら、胸の高鳴りを必死に抑え込もうとしていた。

 遠くで鳴り続けるトロンボーンの音色が、いつの間にか、甘美な恋の序曲のように聞こえ始めていた。


 あの日以来、神代悠真は、まるでトレーニングルームの常連になったかのように、頻繁に姿を見せるようになった。

「よっ、水上さん。今日も頑張ってるね」


 彼はいつも、秋穂が一人黙々と汗を流しているタイミングを見計らったかのように現れる。

「たまたまサッカー部の練習が早く終わったんだ」「今日は気分転換に筋トレしたくてさ」と、その理由は様々だったが、秋穂にとっては、彼の存在がこの薄暗く汗臭い空間に、不釣り合いなほどの明るさと、そして微かな緊張感をもたらすようになっていた。


 神代は、驚くほど自然に秋穂の隣でトレーニングを始めた。

 秋穂の地道でストイックな練習メニューに、彼は大げさなほど感心してみせたり、「そんなに走れるなんて、マジ尊敬するわ。俺にも長距離のコツとか教えてよ」と無邪気に質問を投げかけたりした。その度に、秋穂の心臓は小さく跳ね、口数は少ないながらも、懸命に言葉を探した。


 最初は戸惑いと緊張で、まともに顔も見られなかった秋穂だったが、神代の気さくで裏表のない(ように見える)態度に、肩の力は少しずつ抜けていった。

 彼が自分のような、どちらかといえば地味で寡黙な人間に対しても、サッカー部の人気者の彼が、分け隔てなく接してくれる。

 その事実に、言いようのない温かさと、そして淡い期待が胸の奥で芽生え始めていた。


「水上さんって、意外と面白いこと考えるんだな」

 時折、彼がそう言って笑うと、秋穂は自分の頬が熱くなるのを感じながらも、心のどこかで小さな花が咲くような、そんな感覚を覚えていた。


 神代の内心では、まったく別の感情が渦巻いていた。

 彼は、トレーニングルームを出るたびにスマートフォンのグループチャットを開き、友人たちに今日の「成果」を報告するのが常だった。


『今日もチョロかったw あの地味女、俺が話しかけると顔真っ赤にすんだぜ、マジウケる』

 スタンプと共に送信されるそのメッセージに、友人たちからは嘲笑と囃し立てるような返信がすぐに届く。


『さすが神代様!』『罰ゲームクリアも近いな!』

 神代は、スマートフォンの画面に映るそれらの言葉を眺めながら、秋穂の純粋な反応を、まるでゲームのスコアのように楽しんでいた。

 罰ゲームの対象として選ばれた「地味な女を口説いて落とす」というミッション。そのターゲットが、こんなにも面白いように釣れるとは、彼自身も予想していなかった。



 ある日のことだった。秋穂がトレーニングの合間に、ロッカーの隅でこっそりと文庫本を読んでいると、神代がひょいとそれを覗き込んできた。


「あれ、水上さん、そんな本読むんだ。意外」

 それは、表紙に淡い色彩で男女のイラストが描かれた、典型的な少女小説だった。

 秋穂は慌てて本を隠そうとしたが、もう遅い。

 顔から火が出そうだった。自分の内なる世界を、一番見られたくない相手に見られてしまったような羞恥心。

 しかし、神代の反応は予想外のものだった。


「へえ、いいじゃん。実は俺の妹もさ、ああいうの好きでよく読んでるんだよ。だから、なんかちょっと分かる気するんだよね、その世界観」

 そう言って、神代は悪戯っぽく笑った。その笑顔には、からかいの色は微塵も感じられなかった。

 秋穂は、目を見開いた。

 妹が好き、というのはおそらく口実だろうと頭の片隅では理解しつつも、自分の密かな趣味を、彼が馬鹿にせず、むしろ肯定的に受け止めてくれた。

 その事実に、彼女は強い衝撃と、そして今まで感じたことのないほどの親近感を覚えた。


「神代くんは……こういうの、嫌いじゃないの?」

 おそるおそる尋ねる秋穂に、神代は首を横に振った。

「全然。むしろ、そういうピュアな感じ、俺は好きだけどな」


(ピュアな感じ、好き……)

 その言葉が、秋穂の心に深く突き刺さった。まるで魔法の呪文のように。

 神代くんは、他の男子とは違うのかもしれない。私のことを、本当に分かってくれる人なのかもしれない――。

 そんな甘い期待が、急速に膨らんでいくのを感じた。


 もちろん、神代の「妹が好き」というのは真っ赤な嘘で、彼の内心は『こいつ、こんな地味な見た目して中身乙女かよw ネタにしがいがありすぎだろ』という嘲笑で満たされていた。

 グループチャットには、すぐに『速報:少女漫画トークで好感度爆上げ作戦、大成功。あいつ、俺のこと“理解者”だと思い込んでる模様w』という戦果報告がなされた。


 それからの神代は、さらに巧みに秋穂の心を揺さぶり始めた。

 秋穂がインターバル走で苦しそうな表情を見せると、「大丈夫か? 無理すんなよ」と声をかけ、自分のスポーツドリンクを「これ、まだ口つけてないから」とさりげなく差し出す。

 秋穂が、少しでもタイムを縮めようと新しいスパイクに替えた日には、誰よりも早くそれに気づき、「あれ、スパイク新しいじゃん。その色、水上さんに似合ってるよ。かっこいい」と、ストレートに褒めた。


 小さな変化。誰も気づかないような、地道な努力の痕跡。

 それを神代は的確に見つけ出し、そして、言葉にして伝えた。

「彼は、私のことをちゃんと見てくれている」。その思い込みは、日増しに確信へと変わっていった。

「好きになってはいけない」と、頭のどこかで警告音が鳴り響いていた。

 自分のような人間が、彼のような人気者と釣り合うはずがない。

 これはきっと、彼の気まぐれか、あるいは優しさからくる行動なのだと。

 けれど、神代の言葉一つ一つが、その脆い理性のブレーキを容赦なく破壊していくのだった。


 友人たちと事前に打ち合わせ済みの「モテ行動テンプレ」を次々と繰り出す神代は、

『よし、今日の“さりげない優しさポイント”ゲット』『あいつ、マジで俺のこと意識し始めてるわw ガチで可愛いとこあんじゃん、あの地味さで』と、ゲームの攻略を進めるように、秋穂の心を掌握していく手応えを楽しんでいた。


 いつしか、トレーニングルームで二人きりで過ごす時間は、彼らにとって当たり前のものになっていた。

 一緒に補強トレーニングのメニューをこなし、時にはグラウンドの隅で並んでジョギングをすることもあった。

 タータントラックを駆ける秋穂の真剣な横顔を、神代は少し離れた場所から眺め、「いいフォームじゃん」と声をかける。

 その声援が、秋穂にとっては何よりも力になるカンフル剤だった。


 他の陸上部員や、通りすがりの生徒たちが、そんな二人を興味深げに、あるいは訝しげな視線で見るようになった。特に、神代に密かに想いを寄せる女子生徒たちからの視線は、針のように鋭かったが、恋というフィルターを通して世界を見始めている秋穂の目には、それは些細なノイズでしかなかった。


 まさか、と彼女は思う。神代くんが、私のような者に。そんなはずはない、と。

 しかし、心の奥底では、その「まさか」が現実になることを、どこかで期待している自分もいた。

「なあ、あの二人、最近ずっと一緒にいない?」「神代くん、まさか水上さんのこと……」そんな囁き声が、秋穂の耳にも時折届いた。

 それは彼女を不安にさせると同時に、奇妙な高揚感をもたらした。

 神代と一緒にいる自分は、少しだけ「特別」な存在になれたような気がしたからだ。


 神代にとって、それらの噂は計算のうちだった。『俺とあいつが付き合ってるって噂、そろそろ流れるんじゃね?w それで釣れたら最高に面白いじゃん』。

 周囲の反応すら、彼のゲームを盛り上げるスパイスでしかなかった。


 秋穂にも、変化が訪れていた。今までほとんど無頓着だった自分の身なりにも、ほんの少しだけ気を使うようになった。

 練習前に鏡を見る回数が増え、ボサボサだった髪を丁寧に櫛でとかすようになった。

 練習着も、以前より少しだけ綺麗なものを着るように心がけた。それは決して、誰かに媚びるためではない。

「神代くんに、変に思われたくない」という、ささやかで純粋な乙女心の発露だった。


 彼と話す時の秋穂は、以前とは別人のように表情が柔らかくなり、無意識のうちに声のトーンが少しだけ高くなることもあった。

 そして、よく笑うようになった。ぎこちない笑顔ではあったが、それは彼女の内面から滲み出る、偽りのない喜びの表れだった。

 ずっと心の奥底で拒絶してきた、“女の子らしさ”。それを、神代くんにだけは見せてもいいのかもしれない。

 そんな危険な考えが、彼女の中で確かな輪郭を持ち始めていた。


 神代は、秋穂のそうした健気な変化を、鷹のような鋭い観察眼で見抜いていた。

(完全に俺に落ちてるな)

 彼はそう確信し、その日の夜もグループチャットに新たな戦況を報告した。

『【朗報】ターゲット、完全に陥落寸前。俺の前だと、完全に“オンナ”の顔してるわw 罰ゲームクリアも目前だぜ、諸君!』

 そのメッセージには、勝利を確信したゲームプレイヤーの、傲慢な笑みが透けて見えるようだった。


 ある日の練習後。

 蒸し暑い空気が少しだけ和らぎ、夕焼けがトレーニングルームの窓を茜色に染めていた。

 いつものように二人でクールダウンのストレッチをしながら、他愛もない会話を交わしていた時だった。

 ふと、神代が、じっと秋穂の顔を見つめた。


「なあ、水上さんってさ……」

 真剣な声のトーンに、秋穂は息を呑んだ。

 何か、大切なことを言われるような予感がした。


「……笑うと、結構かわいいよな」

 悪戯っぽく、しかしどこか照れたような、それでいて真っ直ぐな眼差しで、神代はそう言った。

 瞬間、秋穂の心臓が、破裂しそうなほど大きく脈打った。

 時が止まったかのようだった。

 彼の言葉が、スローモーションのように鼓膜に響き渡る。


「そ、そんなこと……ないよ」

 顔を真っ赤にしながら俯き、かろうじてそれだけを絞り出すのが精一杯だった。

 指先が微かに震えている。今、自分の顔は、どんな表情をしているのだろうか。

 きっと、この夕焼けよりも赤いに違いない。


 神代は、そんな秋穂の反応を、愛おしむかのように(秋穂にはそう見えた)じっと見つめながら、満足そうに口元を緩めた。

 その瞳の奥に浮かぶ冷徹な光を、今の秋穂が見抜けるはずもなかった。

(はい、クリティカルヒットいただきましたー。今日のノルマ達成。いやー、マジで純情すぎて、こっちが照れるわ)


 神代が内心でそんなことを考えているとは露知らず、秋穂は彼の言葉を何度も頭の中で反芻していた。

「かわいい」。

 その一言が、彼女の世界を薔薇色に染め上げていく。

(もしかしたら、本当に、私のことを……)

 甘い期待が、胸いっぱいに広がっていく。

 それは、走り込みで感じる苦しさとは全く違う、胸を締め付けるような、でも心地よい痛みだった。


 その夜、秋穂はベッドの中で、大切にしている少女小説のページをめくった。

 ヒロインが、ヒーローからの不意打ちの言葉に戸惑いながらも、恋の予感に胸を高鳴らせるシーン。

 そこに描かれているヒロインの姿が、今の自分と完全に重なって見えた。


「私も……いつか、こんな恋が……」

 呟いた言葉は、誰にも聞かれることなく、静かな部屋の空気に溶けて消えた。

 彼女の足は、確実に、神代が仕掛けた甘く残酷な罠へと、一歩、また一歩と踏み入れていた。

 その先に待ち受ける絶望など、今の彼女には想像することすらできなかった。



 神代悠真の存在は、いつしか水上秋穂にとって、練習のモチベーションそのものになっていた。

 彼がトレーニングルームに現れるだけで、重苦しかった空気がふわりと軽くなり、彼女の心には言いようのない高揚感が満ちる。

 そして神代は、秋穂のそんな心の動きを的確に見抜き、さらに巧みに彼女の信頼を掌握していった。


「水上さんってさ、いつも練習ノート、びっしり書き込んでるよな。こないだチラッと見えたんだけど、反省点とか目標とか、すげー細かく書いてて、マジ尊敬するわ」

 ある日のこと、いつものように並んでストレッチをしながら、神代が何気ない口調で言った。

 秋穂はドキリとした。自分の内面を曝け出すようで恥ずかしく、誰にも見られたくなかったそのノートを、彼が見ていたとは。

 しかし、彼の言葉には揶揄の色はなく、むしろ純粋な称賛が込められているように聞こえた。


「あんなに努力してるんだから、絶対結果出るって。俺は、水上さんのこと、ちゃんと見てるからさ」

 その言葉は、まるで魔法のように秋穂の心に染み込んだ。

「ちゃんと見てる」。

 その一言が、どれほど彼女の心を軽くし、勇気づけたことか。彼は、他の誰でもない、自分を理解してくれている。

 そう信じるのに、もう何の疑いもなかった。


 練習帰りに、二人きりになる機会も増えた。

 いつもは別々の方向に帰るはずなのに、神代が「なあ、今日ちょっと遠回りして帰らない? 少し話したいことがあるんだ」と、秋穂を誘うようになった。

 最初こそ緊張でまともに返事もできなかった秋穂だったが、彼の穏やかで優しい声に促されるまま、いつしか彼の隣を歩くことが自然になっていた。


 人気のない夕暮れの道。

 並んで歩く二人の影が、アスファルトに長く伸びる。

 そんなシチュエーションは、まるで秋穂が愛読する少女小説の一場面のようだった。


「実はさ……」と神代は、時折、自分の(もちろん作り物の)悩みを打ち明けるふりをした。

 サッカー部でのレギュラー争いのプレッシャー、将来への漠然とした不安。

 そして、「こんなこと話せるの、水上さんだけだよ」と、意味ありげな視線を彼女に向けた。


 秋穂は、その言葉を額面通りに受け取った。

 神代くんが、私にだけ、心を開いてくれている。

 私たちは、他の誰とも違う、「特別」な関係なんだ――。

 その甘美な思い込みは、日を追うごとに彼女の中で確固たるものになっていった。

 彼の些細な仕草や言葉の一つ一つに過敏に反応し、一喜一憂する毎日。

 それは、苦しい練習の日々の中で、唯一と言っていいほどの輝きだった。


 もちろん、神代の悩みや夢の話は全て、事前に友人たちと練り上げた「泣き落とし用ストーリー」に過ぎなかった。

 その日の夜も、彼のスマートフォンには友人たちからのメッセージが届いていた。

『今日の「私にだけ見せる弱さ」アピール、効果絶大だったみたいだなw』

『あの地味女、完全に神代様の言葉信じちゃってるぜ、マジ笑える』

 神代は、そのメッセージを眺めながら、秋穂の純粋さを弄ぶことに、倒錯した快感を覚えていた。


 罠は、さらに深まっていた。

 軽いジョギング中、神代がわざと秋穂のすぐ隣を走り、肩が触れ合うことがあった。

 秋穂がバランスを崩しそうになると、彼はさりげなくその腕を支えた。

 ストレッチを手伝うフリをして、彼はごく自然に彼女の脚や背中に触れた。

 それは、あくまでスポーツマンシップの範疇であり、友情の延長線上にあるように見せかけられた、計算され尽くした行為だった。


 記録会で秋穂が自己ベストに迫る走りを見せた日、ゴール地点で待っていた神代は、「やったじゃん、水上さん!」と、満面の笑みで彼女の頭をポンポンと優しく撫でた。

 そして、ハイタッチを交わす勢いで、ほんの一瞬だけ、彼女の肩を軽く抱きしめるような仕草を見せた。

 それは本当に一瞬の出来事で、「事故」だと言われればそれまでだったが、秋穂にとっては強烈な記憶として刻まれた。


 不意の接触。彼の温もり。すぐそばで感じる彼の匂い。

 その度に、秋穂の心臓は激しく高鳴り、全身の血が逆流するかのような感覚に襲われた。

 恥ずかしさで顔を上げることもできなかったが、心の奥底では、言いようのない幸福感が湧き上がってくるのを感じていた。


 もしかして、神代くんも、私のことを……?

 その淡い期待は、もはや抑えきれないほど大きなものになっていた。

 彼に触れられることへの抵抗感はいつしか消え失せ、むしろ、無意識のうちにそれを求めるような気持ちすら、彼女の中に芽生え始めていた。


 神代にとって、これらの身体的接触は、「最終段階のテスト」であり、秋穂が「完全に落ちた」ことを確信するのに十分な材料だった。

『今日、軽くハグっぽいことしたら、顔真っ赤にして固まってたわw あの反応、完全に俺のこと意識してる証拠だろ』

『罰ゲームの最終目標である「抱く」まで、あと一歩だな』


 彼はグループチャットでそう自慢げに語り、友人たちはその報告に沸き立った。

 彼らの間で、秋穂の身体的な反応は、もはや下世話な性的な興味の対象でしかなかった。

 インターハイ予選の日が、刻一刻と近づいていた。秋穂の練習には、以前にも増して鬼気迫るものがあった。

 自己ベスト更新、そして何よりも、インターハイ標準記録の突破。

 その目標達成への執念が、彼女の細い体をギリギリのところまで追い込んでいた。

 そして、その過酷な練習を支えていたのは、間違いなく神代の存在だった。


「水上さんなら、絶対いけるって。俺、マジで信じてるから」

「大会、全力で応援するからな。俺の声、ちゃんと届けられるように、特等席で見とくわ」

 彼の言葉は、秋穂にとって何よりも強力なエールだった。

 彼女にとって、この大会は、陸上競技人生における大きな目標達成の場であると同時に、神代との関係が次のステップに進むかもしれない、「運命の舞台」という意味合いを帯び始めていた。

 大会で良い結果を出せば、今度こそ、神代くんに胸を張って、自分の気持ちを……。


 あるいは、彼の方から、何か言ってくれるかもしれない。

 そんな少女漫画のような展開を、彼女は心のどこかで期待せずにはいられなかった。

 その淡い期待こそが、血の味がするほど苦しい練習を乗り越える、唯一の原動力となっていたのだ。


 神代にとって、近づく大会は、まさに「罰ゲームのクライマックス」そのものだった。

 秋穂が目標とする記録、「ターゲット・ペース」を達成できるかどうか。

 それが、彼と友人たちの間で行われている下劣な賭けの全てだった。

 秋穂の純粋な努力も、彼女が抱く淡い恋心も、彼にとっては、ゲームの結果を左右するための、ただの駒でしかなかったのだ。


 そして、運命の大会前夜。

 緊張と期待でなかなか寝付けない秋穂の枕元で、スマートフォンの通知音が小さく鳴った。

 震える手で画面を確認すると、そこには神代からのメッセージが表示されていた。


『明日、頑張れよ。ベスト尽くせ。……大会終わったら、話したいことがあるんだ』


「話したいこと」。

 その短いフレーズが、秋穂の心臓を鷲掴みにした。

 ドクン、ドクンと、耳の奥で自分の鼓動が大きく響くのが分かる。

 顔がカッと熱くなり、指先が痺れるような感覚。


 ――これは、きっと。

 少女漫画で幾度となく目にしてきた、「告白前夜」のシチュエーション。

 まさか、それが自分の身に起こるなんて。

 信じられない思いと、湧き上がる歓喜で、胸がいっぱいになった。

 最高の形で大会を終えよう。そして、彼の言葉を聞くんだ。

 秋穂は、暗闇の中でギュッと拳を握りしめ、決意を新たにした。

 自分の未来が、光り輝くものになると、彼女は信じて疑わなかった。


 その同じ時刻。

 神代悠真は、自室のベッドの上で、薄笑いを浮かべながらスマートフォンを操作していた。

 男友達数名とのグループチャットは、明日の「イベント」を前に、異様な熱気を帯びていた。


『ターゲット・ペース、9分42秒。秋穂ちゃん、明日マジでこのタイム出せんのかね?』

『神代様の今日の「前夜の追い込みメッセージ」、効いたんじゃね?w』

『秋穂ちゃんの「ご褒美」シーン、頼んだぜ、神代!動画でも何でもいいから、詳細報告よろしくな!www』

 下品なスタンプが飛び交う中、神代は、メッセージ入力欄に短い言葉を打ち込んだ。


『お楽しみに』


 そして、そのメッセージに添えるように、彼は先日、トレーニングルームの死角から盗撮した一枚の写真を送信した。

 それは、着替えの途中で、練習着の隙間から秋穂の汗ばんだ白い肌がほんの僅かに覗いている、悪趣味なアングルの写真だった。

 送信ボタンを押すと同時に、グループチャットには嘲笑と興奮のコメントが溢れかえった。

 秋穂の純粋な恋心が、まさに今、最高潮に達しているその裏側で。

 彼女を待ち受ける残酷な運命の歯車は、嘲笑のオイルを注がれながら、静かに、そして確実に、破滅へと向かって回り始めていた。

 甘美な夢は、悪夢へと反転する寸前だった。


 決戦の朝。

 空気は澄み渡り、空はどこまでも青く、まるで秋穂の未来を祝福しているかのようだった。

 彼女は緊張と興奮が入り混じった複雑な心地で、決戦の地である陸上競技場のゲートをくぐった。

 昨夜の神代悠真からのメッセージ――『大会終わったら、話したいことがあるんだ』――その言葉が、まるで御守りのように彼女の胸の奥で温かく輝き、不安を溶かしていく。

 今日、最高の走りをすれば、きっと、素晴らしい未来が待っている。

 ウォーミングアップをしながら、秋穂は観客席に神代の姿を探した。

 彼の応援が、何よりも大きな力になる。

 しかし、いくら目を凝らしても、彼の特徴的な明るい髪は見当たらない。


「まだ来ていないのかな」

「きっと、ギリギリに来て、私を驚かせるつもりなんだ」

 そう自分に都合よく言い聞かせ、レースへの集中力を高めていく。

 大丈夫、彼はきっと見てくれている。

 あの優しい笑顔で、私の走りを。


「オン・ユア・マークス」


 スターティングブロックに足をかける。

 心臓が早鐘のように鳴り、全身の血が沸騰するような感覚。

 しかし、不思議と恐怖はなかった。あるのは、一点の曇りもない決意だけ。


 号砲が、青空に鋭く響き渡った。

 秋穂は、まるで弾かれたように飛び出した。

 序盤から積極的にレースを引っ張る。

 神代への想い、インターハイへの夢、そして、昨夜の彼からのメッセージ。

 それら全てが、彼女の体を内側から突き動かす強大なエネルギーとなっていた。


 レース中盤、身体が悲鳴を上げ始める。

 肺が焼けつくように痛み、足が鉛のように重い。

 何度も心が折れそうになる。もうダメかもしれない、と弱音が頭をよぎる。

 しかし、そのたびに、脳裏に神代の笑顔が浮かんだ。


「水上さんなら絶対いけるって。俺、マジで信じてるから」


 彼の優しい声が、幻聴のように聞こえてくる。

 彼にガッカリされたくない。

 彼に、最高の私を見てほしい。

 その一心で、奥歯をギリギリと噛みしめ、重い脚を前に、前にと運び続けた。

 トレーニングルームで過ごした彼との時間、交わした言葉、そして「話したいことがある」という期待。

 それらが、途切れそうになる意識を何度も繋ぎ止めた。


 ラストスパート。

 残された力の全てを振り絞る。

 ゴールラインが、滲む視界の先に見える。

 もう何も考えられない。

 ただ、無我夢中で腕を振り、脚を動かす。

 そして――。


 歓声と共に、秋穂はゴールラインを駆け抜けた。

 全身の力が抜け、糸が切れた人形のように、タータントラックに膝から崩れ落ちる。

 荒い息を繰り返しながら、ゆっくりと顔を上げると、目の前の電光掲示板に、信じられない数字が灯っていた。


『9分41秒89』


 自己ベストを大幅に更新。

 そして、ずっと目標にしてきたインターハイ標準記録を、コンマ11秒、上回っている。


「やった……やったんだ……!」

 こみ上げてくる熱い感情の奔流に、秋穂は声を上げて泣いた。

 それは、紛れもなく歓喜の涙だった。

 苦しかった練習の日々が報われた瞬間。

 夢への扉が、今、確かに開かれたのだ。

 神代くんに、胸を張って良い報告ができる!


「秋穂!すごいじゃないか!」

 コーチが駆け寄り、その肩を叩く。

 チームメイトたちも、次々と祝福の言葉をかけてくれた。

 しかし、秋穂の目は、ただ一点、観客席のどこかにいるはずの神代の姿を探していた。

 やはり、いない。どうして…?

 彼の姿が見当たらないことに、微かな不安が胸をよぎった。


 少し落ち着きを取り戻し、汗を拭いながらチームの控え場所に戻ろうとした、その時だった。

 スマートフォンの画面が、不意に明るくなった。

 通知だ。メッセージアプリを開くと、見知らぬ匿名のアカウントから、一枚の画像ファイルが送られてきていた。


『何だろう…?』

 一瞬、悪戯かと思った。

 しかし、胸騒ぎがして、恐る恐るその画像をタップして開いた。


 瞬間、秋穂の全身から血の気が引いた。

 そこに表示されていたのは、見慣れたLINEのトーク画面のスクリーンショットだった。

 神代と、彼のサッカー部の友人たち数名と思われるアカウントが、卑猥なスタンプを交えながら、下劣な会話を繰り広げている。


『水上秋穂、今日のターゲット・ペースは9分42秒00な。これ切れなかったら神代の奢りだからな、忘れんなよw』

『あいつ、ガチで俺のこと好きみたいだからさ、今日のレース後、「話があるんだ」って告白っぽいことチラつかせといたんだわ。これで自己ベスト更新とかしたらマジウケるよなwww』


『もしターゲット・ペース達成したら、罰ゲームクリアで、ついに神代様が秋穂ちゃんを“抱く”ってことでOK? 詳細レポよろしく!www』

『つーか、例の盗撮写真、もう一回見せてくれよw 着替え中のやつ。あれマジで今日のオカズにするわwww』

 そして、トーク履歴の最後に、太字で書かれた決定的な一文が、秋穂の目に突き刺さった。


『【速報】ターゲット・ペース:水上秋穂 9'42” クリア確定! 神代、おめでとー!www』

 その文字の横には、先ほどのレースで必死の形相で走る自分の写真が無断で使用され、

 赤いハートマークや、「チョロい」「いただき!」といった下品なスタンプで、おもちゃのようにデコレーションされていた。


「あ……あ……」

 言葉が出ない。

 頭が真っ白になり、目の前がぐにゃりと歪む。

 何度も、何度も、そのスクリーンショットを読み返す。

 しかし、そこに書かれている文字は、残酷なまでに変わらない。


 自分の努力。純粋な恋心。インターハイへの夢。

 そして、神代くんとの未来。


 信じていた全てが、彼らにとっては、ただの「ゲーム」の道具でしかなかった。

 自分は、ただの「罰ゲームの対象」で、彼の友人たちの下卑た「賭けの材料」で、そして「オナネタ」だったのだ。

 立っていることすらできなくなりそうだった。

 吐き気が、胃の底からこみ上げてくる。

 歓喜に打ち震えていた身体は、今や、奈落の底へと突き落とされたかのような絶望的な寒さに凍えていた。


 震える手でスマートフォンを握りしめ、ふらつく足取りで、秋穂は競技場を後にしようとした。

 誰にも会いたくない。

 この場から、一刻も早く消え去りたい。


 その時、前方の通路から、聞き覚えのある明るい声が聞こえてきた。


「よぉ、お疲れ! すごいタイムじゃん、秋穂!」

 友人たち数名と談笑しながら近づいてくる神代の姿が、スローモーションのように秋穂の目に映った。

 彼は、秋穂の存在に気づくと、一瞬だけ驚いたような、そして何かを察したかのような複雑な表情を浮かべた。

 しかし、すぐにいつもの人懐っこい笑顔を作ろうとして――その表情が、秋穂の凍りついた顔を見て、強張った。


 秋穂は、何も言わなかった。

 ただ、燃えるような軽蔑と、深い絶望と、そして言葉にできないほどの憎悪を宿した瞳で、神代悠真の顔を真正面から睨みつけた。

 彼女の瞳には、もう涙はなかった。涙すら、涸れ果ててしまったかのように。


 そして、秋穂は彼に背を向けた。

 逃げるように、その場を走り去った。

 もはや、それは陸上選手の走りではなかった。

 傷つき、追いつめられた獣が、必死に安全な場所を求めて逃げ惑うような、痛々しい疾走だった。


 神代は、呆然とその後ろ姿を見送るしかなかった。

 隣にいた友人が「おい、まさかバレたのかよ…?」と囁く声が、やけに大きく聞こえた。

 神代は、内心で忌々しげに舌打ちをした。

(クソが…誰だよ、あのスクショ流したバカは…。まぁ、もうターゲット・ペースは達成したし、罰ゲームは俺の勝ちだ。どうでもいいか)

 一瞬だけ感じた微かな後味の悪さは、すぐに霧散し、彼の心には冷酷な達成感だけが残った。


 競技場の喧騒から遠く離れた、誰もいない薄暗い更衣室の隅。


「う……おぇええっ……!」

 秋穂は、堰を切ったように激しく嘔吐した。

 胃の中のものを全て吐き出しても、胸の奥からこみ上げてくる、魂が汚されたような不快感は少しも消えなかった。

 床に手をつき、荒い息を繰り返す。

 涙が、後から後からとめどなく溢れ出てくる。

 しかし、それはもう、先ほどの歓喜の涙ではない。

 絶望と、屈辱と、裏切られた深い悲しみが凝縮された、熱い滴だった。


 彼女は、泥と汗と涙で汚れた真っ赤なユニフォームを、まるで忌まわしい何かを身体から引き剥がすかのように乱暴に脱ぎ捨て、ぐしゃぐしゃにして床に叩きつけた。

 そして、つい先日、神代に「似合ってる」と褒められたばかりの、新品同様だったスパイクも、憎悪を込めてコンクリートの壁に力任せに投げつけた。

 カシャリ、と虚しい音が響く。


「……9分41秒89」

 掠れた声で、その数字を呟く。

 それは、彼女の血と汗と涙の結晶であり、夢への扉を開く鍵だったはずの記録。

 しかし今、その数字は、自分の純情を踏みにじり、尊厳をズタズタにした男たちの、下劣で、醜悪な「賭けの数字」として、彼女の脳裏に、そして魂に、永遠に消えない烙印のように焼き付いてしまった。


「う……あ……あああああああああああっ!」

 言葉にならない、獣のような慟哭が、人気のない更衣室に虚しく響き渡った。

 彼女の夢だった記録は、今この瞬間も、どこかで誰かの歪んだ欲望の「オナネタ」として嘲笑され、面白おかしく消費されていくのだろう。

 水上秋穂は、もう二度と、あの茜色に染まるタータントラックに立つことはないだろう。

 彼女の青春は、あまりにも無慈悲に、そして残酷に、踏みにじられたのだから。



 あの日を境に、水上秋穂の世界から色は失われた。

 彼女は二度と陸上部の練習に姿を見せることはなかった。

 誰にも何も告げず、まるで魂が抜け殻になったかのように、その存在感は希薄になった。

 部室に残された彼女のロッカーは、誰にも触れられることなく、ホコリを被り始めていた。

 中には、使い古されたランニングシューズ、数冊の少女小説、そして、目標や反省点がびっしりと書き込まれた練習ノートが、主のいない時間を静かに刻んでいた。


 秋穂は人が変わったように寡黙になった。

 陸上部に行かず、クラスでも極力誰とも目を合わせず、息を潜めるように日々を過ごしていた。

 それは不登校とは少し違った。

 彼女は、まるで自分という存在をこの世界から消し去ろうとするかのように、必要最低限の義務だけをこなし、人との関わりを徹底的に避けていた。

 楽しそうに談笑するクラスメイトの声も、賑やかな部活動の音も、彼女にとってはガラス一枚隔てた向こう側の、遠い世界の出来事でしかなかった。

 親には「少し疲れたから、しばらくそっとしておいてほしい」とだけ伝え、自室の薄暗がりの中に閉じこもることが多くなった。


 学校内では、様々な噂が囁かれた。

 神代悠真たちのグループが、秋穂をターゲットにした「罰ゲーム」をしていたこと。

 秋穂がインターハイ標準記録を突破したその日に、全てを知ってしまったこと。

 そして、彼女が陸上部を実質的に退部状態にあること。

 それらの噂は、好奇の目と歪んだ同情、そして一部の無責任な嘲笑を伴って、教室の隅々へと広がっていった。

 しかし、誰も、秋穂の心の奥底でどれほど深く、修復不可能な傷が刻まれたのかを本当の意味で理解しようとはしなかったし、あるいは、腫れ物に触るように遠巻きに見ているだけだった。


 神代悠真は、一連の出来事を「ちょっとした遊びが、思ったより大事になってしまった」程度の軽いアクシデントとしか認識していなかった。

 秋穂がどれほど深く傷つき、絶望しているかなど、彼の想像力の範疇を遥かに超えていたし、そもそも本気で意に介してすらいなかったのかもしれない。

 友人たちとのグループチャットでは、相変わらず秋穂の名前が、笑いのネタとして時折消費された。


「あの地味女、マジで俺に惚れてたからなー、ウケるよな」

「ターゲット・ペース達成とか、マジ神プレイだったわ、神代」

「つーか、秋穂ちゃんのあの必死な形相、思い出すだけで笑えるんだけどw」


 彼らのスマートフォンのフォルダの奥深くには、盗撮された秋穂の無防備な姿や、スクリーンショットの画像が、下品な「戦利品」として、いつまでも大切に保存され続けるのだろう。

 彼らは、自分たちの軽率で悪質な行為が、一人の人間の尊厳を踏みにじり、その未来をどれほど歪めてしまったのか、最後まで理解することはない。

 彼らにとって、水上秋穂は、ちょっとからかったら面白い反応をする、都合の良い「ターゲット」でしかなかったのだから。


 ある日の放課後。

 いつもより少し遅くなってしまい、人気がまばらになった校舎を、秋穂は足早に通り抜けようとしていた。

 体育館へと続く通路の壁、そこに貼り出された各部活動の記録一覧が、ふと彼女の視界の隅に入った。

 普段なら気にも留めないはずのそれが、その日に限って、まるで悪意を持って彼女の注意を引くかのように、やけにはっきりと目に映ったのだ。


 そして、彼女は見てしまった。


「全国高等学校総合体育大会 陸上競技 女子3000m標準記録突破 水上秋穂 9分41秒89」


 真新しい、しかし無機質なその文字の羅列。

 瞬間、忘れようと必死に蓋をしていた記憶が、暴力的に蘇った。

 あの日の歓声、そして奈落へ突き落とされた絶望。輝かしいはずの自分の名前と記録が、今はただ、自分の愚かさと、踏みにじられた尊厳を嘲笑うかのように、そこにあった。


 吐き気がこみ上げ、立っていることすら困難になる。

 壁に手をつき、荒い息を繰り返した。

 その場にいた数少ない生徒が訝しげな視線を向けたが、秋穂にはそれに構う余裕すらなかった。


 数日後、その掲示から「水上秋穂」の名前と記録だけが、誰にも気づかれぬように、そっと消えていた。

 秋穂自身が、夜陰に紛れてこっそりと剥がしたのかもしれない。

 あるいは、事情を薄々察した良心ある教師が、彼女へのせめてもの配慮として取り除いたのかもしれない。

 真相は誰にも分からなかった。

 しかし、掲示から名前が消えたところで、彼女の心に深く刻まれた傷が癒えることは、決してなかった。



 季節は何度か巡り、時間は無情に流れ続けた。

 秋穂は、以前とは別人のように、感情を押し殺したような静かな日常を送っていた。

 髪は少し伸び、表情からはかつてのボーイッシュな活気は消え、どこか影のある、諦観を漂わせた少女へと変わっていた。

 彼女はもう二度と走らなかった。

 あの忌まわしい出来事について、誰かに語ることもなかった。

 大好きだった少女小説のページを、彼女が開くこともなくなった。

 クローゼットの奥には、かつて夢中で集めた恋愛小説が、ホコリを被ったまま眠っている。

 それでも、ふとした瞬間に、風の匂いや、夕焼けの茜色、あるいは通りすがりの誰かの楽しそうな声に、あの日の忌まわしい記憶が、鋭い痛みとなって蘇ることがあった。

 胸が締め付けられ、息が詰まるような感覚。しかし、彼女はその苦しみを誰にも悟らせることなく、硬い無表情の仮面の下に隠し通した。


 ある雨の日の午後。

 授業を終え、下校途中のバスの窓からぼんやりと外を眺めていた秋穂の目に、見覚えのある男女の姿が飛び込んできた。


 神代悠真だった。

 彼は、新しい彼女らしき快活な雰囲気の女子生徒と相合傘をし、楽しそうに笑いながら歩道を歩いていた。

 その屈託のない笑顔は、あの日、秋穂に向けられたものと少しも変わっていなかった。


 秋穂は、ただ無言でその光景を見つめていた。

 心は、不思議なほど何も感じなかった。

 まるで、自分の中の何かが、もう完全に死んでしまったかのように、感情の針がピクリとも動かない。

 彼女は静かに視線を逸らし、再び雨に煙る車窓の外へと目を向けた。


 その夜、秋穂は自室の机の引き出しの奥から、一枚の古い写真を取り出した。

 それは、陸上部に入部したばかりの頃、初めてユニフォームに袖を通した時のものだった。

 写真の中の自分は、少し緊張しながらも、夢と希望に満ちた、初々しい笑顔を浮かべていた。

 その写真の横に、彼女は、あの日匿名アカウントから送りつけられたスクリーンショットの画像を、まるで悪夢の残滓を確かめるかのように、そっと置いた。

 下品な言葉と、嘲笑に満ちたスタンプ。

 そして、自分の必死な形相。


“ターゲット・ペース”――9分42秒。


 それは、彼女の人生を喰いちぎり、彼女の魂に永遠の、そしてあまりにも深い傷を刻みつけた、誰かの、ほんの刹那の「オナネタ」の数字。

 その数字は、これからもずっと、彼女の中で静かに、そして深く、血を流し続けるのだろう。

 彼女の青春の墓標として。

 水上秋穂は、もう、笑わない。



 ***



 秋穂の脚って、ちょっと筋張っててさ、でもちゃんと女の子の形してんだよな。

 走ってるときだけ、妙に色っぽくなる。

 ああいうの、俺、結構好きなんだよね。

 努力してんの、ちゃんと出てる子。

“報われない”努力。あれがいい。


 アイツ、最初はマジで反応薄くてさ、正直ウケた。

 ああ、これは脈なし、って思ったけど。

 でも、逆にさ、落ちるとこ見たいって思っちゃったんだよね。


 落とすっていうか、溶かすって感じ。

 ああいうまっすぐなやつに、「女の子」として見てるよ、って言ってちょっとだけ優しくすると、すぐ、崩れてく。


 まじで表情変わった瞬間とか、鳥肌立ったもん。

 無表情なやつが、ふっと口角上げたときって、あんな破壊力あるんだなって。

 あれは反則だよなあ。


 最初は、普通に遊びのつもりだった。

 つーか、遊びだったんだけど。


 罰ゲームで「地味な女、口説いてLINEスクショ出せ」って流れになってさ。

 誰にしようかってなって、秋穂、丁度いいなって。見た目地味だけど、体は悪くないし。


 トレーニングルームに通ってるの知ってたから、声かけてみたら案の定。

 最初はガン無視。で、そこが可愛かった。

 目とか見ないのに、耳だけちゃんと反応してんの、わかるんだよ。


 ちょっとずつ距離詰めてったらさ、反応もだんだん出てくるの。

 リップ塗ってきたとき、笑っちゃったよね。

 絶対、自分で“意識してる”って分かってるのに、止められない感じ。

 ああいうの見ると、こっちまでゾクッとする。


 あと、走ってる時の動画。

 あれ、マジで抜けるわ。

 汗でシャツくっついて、胸のライン見えてんの。

 バズりそうだったけど、流石に表には出してねーよ、安心して。

 ……いや、まあ仲間内では共有したけどさ。


 着替え中の写真も、奇跡の一枚だったな。

 下着まで見えてたらアウトだけど、あの“ギリ見えそう感”が最高。

 ユニフォームの隙間から見える肌、って、なんであんなエロいんだろうな。


 大会の記録も、ちゃんと出させたし。

 目標タイム、9分42秒だっけ?

 ターゲットペースの賭け、俺の勝ちじゃん。

 ヤれなかったけど。


 ひでーよな。

 あんだけいい思いさせてやったんだから一発くらいヤらせてくれても良かったのにな。


 あいつが泣いてゴールしたとき、観に行ってやろうか迷ったけど、

 ああいうの、本人が「ドラマの中にいる」って思ってるタイミングで冷やすの、可哀想じゃん。


 てか、別に俺、悪いことしてないし。


“好き”って言ってないし。

 やろうとも言ってないし。

 努力を馬鹿にしたわけでもない。

 ちゃんと褒めたじゃん。応援もしたし。


 ……全部、自分で勝手に勘違いして、勝手に燃えて、勝手に終わっただけだよ。


 何が悪いの?

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ターゲットペース Vii @kinokok447

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