第4章『アマデウスを追え』

夜。

事務所に戻った戌亥は、壁に貼っていた桐生巧と相馬亜矢子の顔写真を、ためらいなく引き剥がした。ビリ、と紙の裂ける乾いた音が、彼の決意を代弁しているようだった。写真は、くしゃくしゃに丸められ、ゴミ箱へと放り込まれる。スクリーンに表示されていた全てのデジタルデータも、彼の手で消去された。


(犯人の土俵で踊るのは、もう終わりだ。奴が俺の思考を読めるなら、俺は思考することをやめる。ただ、事実だけを追う。死んだ男が最後に遺した、あの時代遅れのアナログな言葉だけを)


彼は、机の引き出しの奥から、一枚の古いメモ用紙と、インクが滲むボールペンを取り出した。そして、その紙の中心に、ただ一言、こう書き記す。


『アマデウス』


それは、このデジタルな迷宮から脱出するための、唯一の道しるべだった。


彼は、協力者であるレンに、短いテキストメッセージを送る。暗号化も、何重ものプロキシも通さない、極めてシンプルなテキストだ。


『しばらく潜る。お前も奴らに追われるな。こっちから連絡するまで、動くな』


メッセージを送り終えると、戌亥は事務所の壁際にある配電盤を開け、メインの通信ケーブルを、物理的に引き抜いた。火花が散り、事務所内の電子機器が一瞬だけ明滅して沈黙する。


それは、レンを危険から遠ざけるための配慮であると同時に、戌亥自身の、デジタル世界からの完全な離脱宣言でもあった。



翌日。ネットワークから完全に切り離され、まるで陸の孤島となった事務所で、戌亥はアナログな捜査に没頭していた。ここにはもう、犯人の視線は届かない。


事務所には、旧式の電話が鳴る音と、紙のページをめくる音だけが響いていた。

戌亥は、ネット上の膨大なゴシップやニュース記事ではなく、相馬圭が生前に受けた、古い雑誌のインタビュー記事や、彼が出版した自伝(紙の書籍)を取り寄せ、そのインクの匂いに顔をしかめながら読みふけっていた。


デジタルな足跡は、いくらでも偽装できる。だが、紙に印刷された過去は、そう簡単には書き換えられない。


彼は、相馬の経歴、交友関係、そして「趣味」の欄に注目した。そこには「美術品収集、ワイン」と並んで、小さく「クラシック音楽鑑賞(特にモーツァルト)」と書かれていた。


(アマデウス…ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。ベタすぎるが、これ以外に考えられない。だが、なぜモーツァルトなんだ? 彼の曲か? それとも、彼にまつわる場所か?)


戌亥は、相馬の自伝の中に、彼が妻・亜矢子と出会った馴れ初めを語る一節を見つけ出した。そこには、二人が初めてデートした場所が、感傷的な文章で、しかし曖昧に書かれている。


「…初めて彼女と会ったのは、古いコンサートホールだった。その日、舞台で演奏されていた悲しいほどに美しい旋律が、まるで我々の未来を祝福しているかのようだった…」


戌亥は、その一文に、静かにアンダーラインを引いた。



夕方。

戌亥は、亜矢子が身を隠している都心のホテルに、再び足を運んでいた。


「奥さん。旦那さんと初めて会った時のことを、もう少し詳しく聞かせてくれないか。あなた方にとって、一番思い出深い曲は何だ?」


彼は、「アマデウス」という言葉は一切出さず、遠回しに質問を始めた。


亜矢子は、一瞬、質問の意図が分からず戸惑いの表情を浮かべる。しかし、やがて何かを思い出したように、その瞳が遠い過去を見つめた。


「…レクイエム、ですわ。モーツァルトの」


彼女は、懐かしむように言った。


「あの人が初めて私を誘ってくださったのが、今はもう使われていない、臨海地区の古いコンサートホールで…そこで、オーケストラがレクイエムを演奏していました。あの人は、『死者のための曲が、我々の始まりの曲だとは、皮肉なものだな』と、寂しそうに笑っていましたわ」


(この女は、本当に何も知らないのか? それとも、俺を罠へおびき寄せているのか? …まぁどちらでも構わないか...行く場所は、決まった)


戌亥は、礼を言うと、静かに席を立った。



その夜。

旧式のガソリン車が、雨に濡れた高速道路を滑るように走っていた。

戌亥は、バックミラーに映る一つの影を、冷静に観察していた。黒いセダン。車線変更のタイミング、車間距離の取り方、そのどれもが、一般車両のそれではない。まるで、獲物の首筋に牙を立てる機会をうかがう、機械仕掛けの獣だ。


(桐生の差し金か…! 俺がアナログな手がかりに気づいたことを察知し、物理的に止めに来たか!)


その思考を肯定するかのように、世界が牙を剥いた。

カーナビの画面が、突然砂嵐に変わる。合成音声の穏やかな声が、意味不明なノイズの羅列へと変貌した。同時に、前方の信号が、まるで示し合わせたかのように、全て赤に変わる。周囲の車が急ブレーキを踏み、甲高いタイヤの摩擦音とクラクションが、不協和音となって鳴り響いた。デジタルな檻が、彼を閉じ込めようとしている。


だが、戌亥はアクセルを緩めない。

彼は、使い捨ての携帯端末で、レンに緊急通信を送る。


「レン! 起きろ! 臨海地区へ向かうルートが全て塞がれた。3分でいい、この地区の交通網に、大規模なバグをぶちこめ! 俺がホールに着くまで、奴らの目をくらませ!」


『…了解。派手にやるぞ。借し一つだ』


レンからの短い応答の直後、世界が一変した。


高速道路の両脇にそびえ立つビル群の、巨大なホログラム広告が一斉に明滅を始める。美しいモデルの微笑みが、髑髏のマークに変わり、企業のロゴが意味不明な文字列の滝となって流れ落ちる。交通標識はルーレットのように回転し、自動配送のドローンが、操縦不能に陥って火花を散らしながら落下していく。


街全体が、デジタルなパニックに陥ったのだ。


背後の黒いセダンも、その例外ではなかった。ヘッドライトが狂ったように点滅し、車体が不自然に左右に揺れる。レンの攻撃が、追跡者の車の制御システムにまで及んでいる証拠だった。


戌亥は、その一瞬の隙を逃さない。

彼はハンドルを切り、閉鎖されているはずの古いサービス用ゲートに車体をねじ込んだ。ゲートの電子ロックが、火花を散らして破壊される。追跡者が体勢を立て直す前に、戌亥の車は、都市の裏側、忘れられたアスファルトの道へと姿を消していた。


やがて、彼は、今はもう使われていない、廃墟と化したコンサートホールの前に到着する。

デジタルな嵐が嘘のような、静寂。彼は車を降り、雨に打たれながら、静まり返った巨大な建物を見上げた。

死んだ男が遺した、最後の謎が、この中で彼を待っている。

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