ISEKAI CREATORS 外伝 ― 北方の英雄 ―

五平

第1話:雪原の砦

北方国境の最北、そこは常に雪と氷に閉ざされた不毛の地だった。吹き荒れるブリザードが、視界のすべてを奪い、音を飲み込んでいく。この地の唯一の要塞である「白牙の砦」は、その猛吹雪の中に、まるで孤独な獣の骨のように横たわっていた。


分厚い石壁に守られた内部ですら、吐く息は白く、瞬く間に凍りついていく。暖炉の炎は、ただの視覚的な慰みに過ぎなかった。燃え盛る薪の赤が、兵士たちの疲弊した顔をぼんやりと照らし出す。彼らの凍えた手足は、もはや感覚を失い、武器を握る指も硬直している。


将軍ルガートは、その凍てついた空気を、まるで当然の日常のように肺いっぱいに吸い込んだ。


彼は分厚い毛皮の外套を羽織り、革のグローブを嵌めた手をゆっくりと暖炉にかざす。だが、その瞳に宿るのは暖かさではなく、鋭い氷のような冷徹さだった。


「将軍。物資の件ですが、やはり増援はないと」


副官のレンが、凍えた声で報告する。彼の顔には疲労が色濃く浮かんでいた。報告書を握る手は、微かに震えている。この数週間、レンは寝る間も惜しんで補給路の確保と物資の管理に奔走していた。だが、その努力は、すべて空回りしているかのようだった。


「わかっている」


ルガートは短く答える。その声には、一切の感情がこもっていなかった。南方の王都が危機に瀕している今、北方にまで援軍を回す余裕などないことは、彼自身が誰よりも理解していた。この北方の地は、元々捨て石とされている。王都から遠く、魔族の侵攻ルートから外れているため、防衛の優先順位は常に最下位だった。しかし、ここを抜かれれば、魔族は一気に王都の裏側から攻め入ることが可能になる。ルガートは、その戦略的価値を誰よりも重く受け止めていた。


「しかし、このままでは冬を越せません。せめて、食料だけでも……」


レンは言葉を詰まらせる。彼の視線の先には、かろうじて動いている最年少の兵士たちの姿があった。彼らはまだ、故郷の温かいパンを夢に見るような年頃だ。彼らの未来を、この氷の地で終わらせたくはない。その思いが、レンを突き動かす。


「王都は、落ちぬ」


ルガートは、暖炉の炎を見つめたまま、静かに、だが確信に満ちた声で言った。


「南方の勇者が戦っている」


その言葉は、まるで魔法の呪文のように、疲弊した兵士たちの間に微かな活気を取り戻させた。彼らは、決して姿を見たことはないが、その名を何度も耳にしていた。世界を救うために現れた、伝説の勇者。遠い南方の地で、魔族の軍勢を圧倒しているという噂は、この北の果てにまで届いていた。その勇者の活躍が、彼らにとって唯一の希望だった。


「あの勇者がいる限り、王都は落ちない。それだけは確かだ」


レンもまた、その言葉に安堵の表情を見せる。しかし、ルガートの心は、決して安穏とはしていなかった。


(南方が勇者の力に縋っている間に、我々が北方で食い止めねばならない)


凍てつく空気の中で、ルガートの胸に、重く冷たい覚悟が広がっていく。彼は静かに暖炉から離れ、冷たい石床の上を歩き出した。その足音は、静寂に包まれた砦の中に、重々しく響く。


彼はそのまま兵士たちの間を通り過ぎ、最も古い砦の奥深くへと向かった。そこには、この砦の創設時から伝わる、古い石板が保管されている。そこには、この地の歴史と、北方軍の悲しい過去が刻まれていた。過去の将軍たちが、物資も援軍もない状況で、いかにしてこの地を守り抜いてきたか。その記録は、ルガートにとっての道標であり、そして重荷でもあった。


「将軍、どちらへ?」


レンが慌てて後を追おうとするが、ルガートは手で制した。


「少し、一人になりたい」


その言葉は、レンにとって意外なものだった。ルガートは、常に冷静沈着で、感情を表に出すことはほとんどない。そのルガートが、このような弱音に近い言葉を口にするのは、よほど精神的に追い詰められている証拠だと、レンは察した。


ルガートは石板の前に立ち、その表面に刻まれた文字を指でなぞる。そこには、数えきれないほどの戦死者の名が、一つ一つ丁寧に記されていた。そして、そのどれもが、英雄としてではなく、ただの兵士として命を落としていった者たちだった。


「勇者か…」


ルガートは呟いた。南方の勇者の噂は、彼らにとって希望であると同時に、自らの無力さを突きつける刃でもあった。王都にいる勇者は、華々しい戦果を上げているだろう。だが、ここ北方の地では、ただひたすらに耐え忍び、消耗していくばかりだ。英雄とは、光の下で輝く者たちのことだ。自分たちは、影の中で静かに消えていく運命なのだ。


(それでいい。我々の戦いは、誰にも知られる必要はない)


ルガートは再び、瞳に鋭い光を宿らせた。


彼は静かに振り返り、壁に立てかけられた長剣の柄に手をかけた。その金属の冷たさが、彼の決意をさらに強固なものにする。


「魔族は、我々の警戒が緩むのを待っている。夜襲に備えろ」


静寂の中、ルガートの命令が響く。それは、来るべき戦いの、始まりの合図だった。そして、この孤独な戦いの先に、光も栄光もないことを、ルガートは誰よりも深く理解していた。

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