第4話 火星人

 コロコロ、と机の上を転がるシャーペン。


 芯先は尖っている。先ほど替えたばかりなのだ。


 西日が差し込んでくる一人寂しい教室の中、長く細い息を吐きながら、椅子にもたれる。


 視線は依然として、真っ白の進路希望の紙にあった。


 ——もう適当に書いて出してしまおうか。


 自分が行けそうな偏差値帯の、近くの大学を。


 何度目かのため息をつきながら、コツコツとシャーペンの尻を机に押し当てる。


 静かな時間がひたすらに流れていた。


 しかし、やはり僕の歩みは進まない。


 提出期限が迫っていようが、谷先生に嫌な顔をされようが、未だに強力接着剤に足を取られているのだった。


「もう、明日でいいか」


 ガタッと立ち上がって紙をカバンの中に押し込む。


 今朝くしゃくしゃになったのだ。もう一度シワになろうと汚さは変わらない。


 鞄を持って、教室の電気とクーラーの電源を切る。鍵を閉めて、赤く染まった廊下をゆらゆらと歩く。


 視線はまっすぐ、進行方向へ。


 ——向いていた、はずだった。


 右足が止まる。すると左足はそれ以上先へ進めない。


 ゆっくり顔を逸らすと、壁に貼られた一枚のポスターが目に飛び込んでくる。


「宇宙、飛行士……」


 パチパチと心奥が爆ぜる。


 消したはずの灯火が、たった一枚のポスターを見ただけで息を吹き返した。


 目を背けようとする。


 できなかった。できるはずもなかった。


 だってそれは——諦めてしまうにはあまりにも魅力的すぎる。


 視線はそのまま、僕はグッと爪が食い込むくらい強く固い握り拳を作った。



 特段、何かがあって夢を諦め始めたわけではない。


 ただ漠然と、いやはっきりと理解してしまったのだ。


 自分は宇宙飛行士になれる器ではないのだと。


 小学生の頃は視野が狭かった。だから気がつかなかった。


 しかし、中学生、高校生と歳をとるにつれて、否が応でも世界は急速に開けていく。


 中村みたいに未知の領域にいる天才にも出会ったし、悠太みたいなおちゃらけた、でも優しいやつにも出会った。


 目新しいものが目まぐるしく僕の周りを取り巻いていく。


 そんな中で過ごしているうちに、だんだんと脳が理解し始めた。


 理解してしまっては、それを否定するための材料を集める必要がある。


 だけれど僕にはそれができなかった。するだけの能力が備わっていなかったのだ。


 だから諦めた。無理だと悟った。


 だのに……脳は理解してくれたのに、心だけはどうにもいかなかった。


 宇宙関連の話を聞くたびに、田沼先生の授業を受けるたびに、勝手に騒ぎ立てて道を用意しようとする。


 迷惑極まりない。


 そのはずなのに、どこか期待し始める自分もいて。僕だけではもう取り返しのつかない、道の中途半端なところまで来てしまっていたのだった。



 ふっと息を吐いて、拳の力を緩める。


 未だ視線を外せずにいる目の前の「宇宙飛行士になろう!」という旨のポスターには、火星に降り立った五人の宇宙飛行士が笑顔で写っていた。


 眩しい。僕には行けない高さにいる人たちだ。読んで字の如く、雲の上のような存在なのだ。


 心臓が脈打つたびに、傷跡から血が漏れ出ているような錯覚を起こす。


 漏れ出て、漏れ出て。ついに血溜まりができて、僕はそれに溺れるのだ。未来永劫自分の傷に苦しめられるのだ。


 キュ、と何が発生源だかわからない音が鳴った気がした。


「宇宙飛行士になりたいんですか」


「っえ⁉︎」


 今度は大きな声が出た。


 いきなり入り込んできた、僕以外のたてる音に脈拍が速くなっていく。


 反射的に勢いよく振り向けば、そこにはやはり田沼先生がいた。先生はいつもの優しい笑みではなく、宇宙開発に携わっていた者の一人としてなのだろうか、厳格な表情を浮かべている。


 何が原因の冷や汗か、たらりと背中を伝う。


 心臓の奥底が蠢くように嫌な音を立てる。


 僕は先生の問いに否定も肯定もできないまま、ただ視線を泳がせるだけの数秒の時が流れた。


「……ちょっと、着いてきてください」


 いつの間にか普段の表情に戻っていた先生は、それだけ言うと僕に手招きをしてどこかへ連れて行こうとする。


 少しばかり迷ったが、つい先ほどの先生の真剣な顔つきを思い出して、僕は一歩前へ進んだ。


 赤い廊下を歩きながら、昼間とは違う緊張感が僕たちの間に存在しているのを感じる。


 両者無言のまま、しばらく歩いてたどり着いた先は理科準備室だった。


 地学は受ける生徒が少ないため、物理や生物のように専用の教室がない。


 だから地学で使う教材はこの準備室にあるか、先生が持参するかの二択なのである。


 しかし、いったいここへ何の用があるというのか。


 何か運ぶ手伝いをしろ、とかだろうか。


 先生が僕をここに連れてきた意図を考えながら、小声で「失礼します……」とつぶやいて足を踏み入れた。


 チラチラと舞うほこりに、薬剤の匂いが微かに香ってくる。


 壊れた顕微鏡や三角フラスコ。なぜあるのかわからないお菓子のゴミまでさまざまなものがこの部屋に溢れていた。


 踏まないようにそろりそろりと先生の後を着いていきながら、滅多に入ることなどない理科準備室を見回す。


「成田くん」


「は、はい」


 最奥で手招きをする先生の元へ駆け寄る。


 そこには化学教室で見かける黒い天板が一つだけあった。


 先生の手には、何だか見覚えがある気がするケースが一つ。


 実験でもするのだろうか。


 頭の中に疑問符が湧いて出た、次の瞬間だった。


「えっ」


 ばさあっと広がる朱色の砂。


 細かな粒子が部屋の電気の光を反射して、キラキラと輝いている。



 ——そこには火星が広がっていた。



 朱色の大地がどこまでも続いていて、乾いた空気が呆然とする僕の頬をそっと撫でた。


 赤い砂を巻き上げて強い風を吹きつける竜巻が、僕のすぐそばを通った。


 囂々とそびえ立つ太陽系最大の火山、オリンポス山が僕の目の前に佇んでいた。


 底の見えない、縦に伸びる長い長い地の亀裂、マリネリス渓谷が僕を誘うように存在していた。


 紛うことなき火星の地だ。僕は今、火星の地を踏み締めているのだ。


 ドク、ドクと今までにないくらい心の底が爆ぜている。口元が震える。


 僕は一歩進んだ。


 もう一歩進んだ。


 そして、揺れる指先を火星の大地に——宇宙飛行士たちが残した足跡の横に、力強く押し当てた。


 ざらりとした感触。ひんやりと乾いた感触。


 そっと指を離せば、そこには僕の指紋が残っていた。


 歪で、決して綺麗とは言えない形容をしていたけれど、それでもそれは僕にとっての足跡である。


 頬に流れる水温を感じながら、しっかりとついた指跡を目に焼き付ける。


 そのとき、ついに夢を覆っていた黒いモヤが破裂した。


 へばりついていた足の裏の接着剤がぬるりと取れた。


 僕を覆っていた煤のような黒いものが風に吹かれて飛んでいった。


「先生、僕は……宇宙飛行士になりたいんです」


 僕は確かに道の上に立っていて。


 確かに一歩進み出したのだった。

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