第16話 婚礼
霜月の三十日。
天狗の里は婚礼の仕度で賑わっていた。
みんな頭領の屋敷へ集まって、飾り付けや祝い膳を整える手伝いをしている。
里中の道々には色とりどりの提灯が飾られ、刻限が迫る夕方には、淡い光が幾重にも重なり合い幻想的な雰囲気を漂わせていた。
花婿の銀星も今宵はめかしこんでいる。
茜色の単衣に白い
「いよいよだな」
「はい」
「そなたの役目、肝に命じておけ」
「はい。覚悟は決めております。ですから父上、心置きなく私の記憶も封印してください」
頭を下げた銀星に、手をかざす雷傅。
が、首を左右に振ると何もせずに手を下ろしてしまった。
「その目を見れば、そなたの決意のほどが痛いほどに伝わってくるというもの。銀星、お前だけでも、おりん殿のことを覚えておいてあげなさい」
「……親父殿。でも、それではおりんが危険なままでは」
「故に、一刻も早く共に鬼を封印しようぞ」
「はっ」
雷傅の情けに、感謝と決意が沸き上がる。
今宵……必ず花嫁と契りを結ばねばならない。
五日前に江戸を出立した花嫁の行列は、既に箱根宿の本陣に着いていた。
だが、秘された天狗の里へは、花嫁以外は立ち入る事は許されていない。
それ故、里の者が箱根の関まで迎えに出向いていた。
「朱姫様、天狗の里よりお迎えに上がりました。ここから先は我々がご案内いたします」
白無垢に身を包んだ朱姫は、いつも以上に青白く見えた。
その表情は、虚無―――
ここからは敵陣じゃ。契りの儀まではバレぬようにせねばならぬ。
深く深く、
朱姫の角隠しを深く引き下ろし、常盤井が頭を下げた。
「朱姫様。おめでとうございます。常盤井はこちらにておいとまさせていただきます。どうぞお健やかにお過ごしくださいませ」
内心、思いがけない幸運に口元が緩みそうになった。
里まで行かずに済むとは。
ようやく、自由になれる。
だが、常盤井は江戸の地を踏むことなく絶命することとなる。
常盤井のやつ、甘いの。
妾の真の姿を知る者を見逃すわけがなかろうて。
朱姫に隠れながらくつくつと笑う極の鬼。
天狗の輿に揺られながら、しばし
天狗との攻防に敗れて早二百年。
思えば長き道のりだった。
散り散りになった体は土に還ったが、魂(心残り)だけは消えずに残った。
空中をふよふよと漂いながら、仄暗い場所を求めた。太平の世の生温い安穏に晒されて消えかけた事もあったが、人の世に負の情念が消える事など無いのだ。
その点、女の園は居心地が良かった。
閉ざされた
新しい生命の誕生と喪失が繰り返される場でもあった。
お陰でここまで来れた……
一体何人の女の腹に潜み生まれ変わったことか。赤子の命を食らいながら霊力を取り戻してきた。
少しずつ人の姿を長く保てるようになり、同時に力を隠す技も磨き……
ようやく天狗の花嫁候補になれた!
くっくっくっ はっはっはっ
己の目的を遂げるのに、これほど都合の良い場があるだろうか?
我ながら名案だったと思うわ。
それなのに小娘め。
邪魔をしおって!
まあ、良い。
ここまでくれば、万に一つもしくじる事はあるまい。
滑るように駆け抜ける天狗の行列は、あっという間に里へ着いた。
しゃらんと鈴の音が響いて、花嫁の到着を告げる。
清涼な気に包まれて、朱姫の中の極の鬼はくっと歯を食いしばった。
後少しの辛抱じゃ!
輿の引き戸が開かれると、直ぐ横へ跪く大男が見えた。軽く頭を下げると「朱姫ですね。長の旅路、お疲れ様でした」と労いの言葉をかけてきた。
心地よい声音に、思わず綻ぶ朱姫の顔。
小さな赤い唇が弧を描き、目元にほんのり朱を滲ませた。
夢にまで見た婿殿じゃ。
小さくてか細い。
触れたら壊れてしまいそうなくらい儚げな姫だ……
これが朱姫を見た銀星の最初の印象だった。
浅黒く骨ばった手を差し伸べる。
「共に行きましょう」
「……はい」
消え入りそうな小さな声で答えると、白くて細い手を重ねた朱姫。
その刹那、ぴりりと弾けたような痛みが走り、銀星は微かに眉根を寄せた。
今のは……何だ!?
だが、それ以上考える間は無かった。
花嫁の着物の裾を持ち上げようと、童達が駆け寄ってきたからだ。この日のためにいつもとは違う美しい織りの服に身を包み、憧れの眼差しで見上げる子どもたちを見て、朱姫の眉間に僅かな皺が寄った。
朱姫は厭うているのか?
こんな時おりんだったら、優しい笑みを浮かべただろうな……
ふとそんなことを思って、慌てて頭から追い出した。
だめだ、駄目だ!
俺がこんなことを考えていたら、おりんが危ねぇ。
すっと表情を引き締めて、朱姫に笑いかけた。
「歩けますか」
「……はい」
緋毛氈の上をしずしずと歩を進める。
楽の音が鳴り響き、屋敷内の光が一斉に灯された。雪洞の張り布には、一針一針、里の四季を描いた刺繍が施されている。
この日のために、皆が心を込めて作った品々が並んでいた。
「どうです。美しい光でしょう」
「……はい」
「皆、あなたのことを心待ちにしていました」
「……ありがたきことです」
抑揚のない小さな声で答える朱姫に物足りなさを感じるも、彼女の立場なら致し方なきことと思いを巡らせた。
人の世から天狗の里への人身御供。
恐ろしいと思うのが当然か……
花嫁に合わせてゆっくりと歩きながら、銀星は時を逆に数えていた。そうすれば、おりんを思い浮かべずにいられるからと。
契りの刻まで後僅か。
奥座敷の屏風の前に座れば、ほうっと皆が安堵の息を吐いたのが伝わってきた。
「朱姫殿、天狗の里の頭領、雷傅でございます。無事のご到着、祝着至極に存じます」
そう言って雷傅が頭を下げた。
「これより、婚礼の儀を執り行わせていただきます」
参列者の前に膳と酒が運ばれてきた。
銀星と朱姫の前には、朱塗りの契りの盃。
代々、その密約の証を刻み込んできた神の器だ。
雷傅が一礼して御神酒に手を掛ける。
銀星が盃を掲げるように差し出した。
とろりと艶のある酒が注がれる。
その刹那、じゅわっと音をたてて酒が煙と化した。
「何!?」
雷傅が眉を潜めるも、再度注ぎ入れる。
じゅわっ!
三度注いで全て消え失せた。
ざわざわと戸惑いの声が広がっていく。
「契りの盃が契りを拒絶している。前代未聞の出来事だな」
唸るように呟いた雷傅。
厳しい眼光で新郎新婦を見下ろした。
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